トゥモロウ・スピーチ

音羽夏生

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5章

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 本能的な危機感が身の内を走り、目の前を塞ぐ男を突き飛ばして、物置きの扉に駆け寄り押し開く。居酒屋のざわめきが、洪水のように押し寄せた。誰に見られていたわけでもないのに、男の傲慢な口づけに感じてしまった事実が後ろめたく、手の甲で唇を拭いながら客の間を擦り抜ける。
 勘定を済ませようと店員に声を掛けた志貴に被せるように、追い掛けてきたテオバルドが、店主に「つけといてくれ」と怒鳴った。そのまま店の外に連れ出されたが、手首を握る手は強く、振り払えない。

「まさか今夜も家まで送るなんて言わないだろうな」
「まさか俺が意中の美人に、夜道を一人で帰らせるとは思ってないだろうな。あんたも知っての通り、俺は健気に尽くす男だぞ」

 店の前で睨み合うのも数瞬、通り掛かったタクシーを抜け目なく捕まえると、テオバルドはドアを開けて志貴を押し込め、素早く自分も乗り込んだ。
 とりあえず日本公使館まで、と行き先を告げて、タクシーが走り出す。

 車内では二人とも無言だった。あの狭い物置き部屋での、短いが濃密な遣り取りの後に、交わすべき言葉が見つからなかった。
 唇を引き結んだまま、志貴は真っ暗で家々の明かりもまばらな車窓の風景にぼんやりと目をやる。何という長い宵なのか、と思う。闘牛士の妙技に心を揺すぶられ、元闘牛士のスパイに身も心も追い詰められて、心の底から疲労困憊していた。

 幼い英と離れ離れになって一年半。
 母の無い子を――亡き妻の分まで慈しもうと心に決めた我が子を残してこの国へ来たのは、母国の未来を、あの子の未来を、少しでも良い方向へ導くためだ。信用のならない色男のスパイに口説かれ、翻弄されるためではないのに、いつの間にか仕掛けられた網に搦め捕られている気がする。
 母国の戦争が終わらない限り、個人的なことにかかずらっている暇などないのに。

 日本公使館から志貴の住まいまで、タクシーを誘導したのもテオバルドだった。ドアを開けて迎えるように志貴に手を貸し、車を下りるのを助ける様は紳士そのものだ。
 集合住宅の共同玄関まで志貴を送ったテオバルドは、結局掛ける言葉が見つからずじっと見上げるだけの志貴を、切なそうに見つめながら囁いた。

「あんたをこうして家まで送る男は、いつでも俺でありたいよ」

 そんな台詞はシェイクスピアにはなかったな、と志貴は思い、熱くなった頬を隠すように俯きながら「おやすみ」とだけ答えた。
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