トゥモロウ・スピーチ

音羽夏生

文字の大きさ
上 下
54 / 237
5章

8

しおりを挟む
 にぎやかな居酒屋の喧騒の中、ふっとテオバルドと目が合う。その深い眼差しに吸い込まれるように周囲のざわめきが遠くなり、喜怒哀楽が平坦になった、限りなくくうに近い状態で見つめ合う。
 テオバルドも、初めて見るもののように、志貴を凝視している。

「――どうしてそんな顔で俺を見る」

 掠れた声で、テオバルドが囁くように訊ねる。

「君こそ、初対面の時より初対面の人間を見てるみたいだ。殆ど毎日会っているのに」
「俺がいつも会っているのは、日本公使館の一等書記官の美人だ。厚く堅い扉があって、決して中には入れてくれないつれない男だ。でも今日のあんたは、扉は閉まってるが、窓を開けてくれてる感じだ。風通しがよくて、あんたの感情が流れてくる。胸の中を搔き乱されるようでたまらないが、――どこかあやうい」
「戸締りは常に万全だが、もしそんな風に見えているなら、闘牛のせいかもしれない」

 光と影。生と死。
 相反する二つの概念が背中合わせとなり、血と熱い息吹の中に同時に存在する場が、志貴の心を揺さぶったのは確かだ。任務も、そこへ至ることになった経緯も忘れて、完全に一個人として没入していた。
 だからこそ今夜は、一個人のままテオバルドと話をしたかった。明日からはまた、スパイと外交官として腹を探り合う関係に戻っても、今夜だけはただの矢嶋志貴として、この国の国技に敬意を表して過ごしたかった。
 しかしそれは志貴の感傷に過ぎないのだろう。テオバルドはいつもと変わらず、志貴を手玉に取ろうと甘い口説き文句を繰り出している。厄介ではあるが、任務に忠実な男だ。

「――物言いたげな顔をしてる」
「君の雇用主は幸運だなと思って」
「他人事みたいな言い方だな、俺の雇い主はあんたたちだろう」
「君はスペインの情報部に所属しているのだろう?」

 民間人ではなく大使館員としてイギリスに入り込んでいたのだから、身分を保証する政府の後ろ立てがあったはずだ。何より外相とは『友達』で、古い付き合いがあるようだった。
 しかし、「まさか」とテオバルドは吐き捨てた。

「俺は職業スパイだ。信義も信条もあるが、顧客に情報を売って稼ぐ。この国のためになど働かない」

 素っ気なく断言する様子に偽りはないように思え、志貴は興味を惹かれた。
 国への忠誠ではなく、金のために情報を売る。それだけではあるまい。金を得るための手段なら、もっと安全で楽な仕事は他にあるはずだ。

「では、何のために働くんだ?」

 非難でも揶揄でもない、純粋な好奇心で訊ねる志貴に、テオバルドの彫像のような美貌が崩れるように破顔する。

「そんな子供みたいにあどけない顔をして聞くことか。鼻の頭にキスしてやりたくなるな」

 そう言って顔を近づけてきたので、横を向いて躱してから睨み付けた。間近で受けとめたテオバルドが、蕩けそうに目尻を下げる。

「まったくあんたは可愛いよ、志貴」
「答えたくないなら、そう言えばいい」

 つんと顔を背けてワインを一口流し込み、小さな落胆も呑み込んで、志貴は呟いた。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

婚約者に会いに行ったらば

龍の御寮さん
BL
王都で暮らす婚約者レオンのもとへと会いに行ったミシェル。 そこで見たのは、レオンをお父さんと呼ぶ子供と仲良さそうに並ぶ女性の姿。 ショックでその場を逃げ出したミシェルは―― 何とか弁解しようするレオンとなぜか記憶を失ったミシェル。 そこには何やら事件も絡んできて? 傷つけられたミシェルが幸せになるまでのお話です。

僕の幸せは

春夏
BL
【完結しました】 恋人に捨てられた悠の心情。 話は別れから始まります。全編が悠の視点です。 1日2話ずつ投稿します。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

獣人将軍のヒモ

kouta
BL
巻き込まれて異世界移転した高校生が異世界でお金持ちの獣人に飼われて幸せになるお話 ※ムーンライトノベルにも投稿しています

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

春を拒む【完結】

璃々丸
BL
 日本有数の財閥三男でΩの北條院環(ほうじょういん たまき)の目の前には見るからに可憐で儚げなΩの女子大生、桜雛子(さくら ひなこ)が座っていた。 「ケイト君を解放してあげてください!」  大きなおめめをうるうるさせながらそう訴えかけてきた。  ケイト君────諏訪恵都(すわ けいと)は環の婚約者であるαだった。  環とはひとまわり歳の差がある。この女はそんな環の負い目を突いてきたつもりだろうが、『こちとらお前等より人生経験それなりに積んどんねん────!』  そう簡単に譲って堪るか、と大人げない反撃を開始するのであった。  オメガバな設定ですが設定は緩めで独自設定があります、ご注意。 不定期更新になります。   

愛などもう求めない

白兪
BL
とある国の皇子、ヴェリテは長い長い夢を見た。夢ではヴェリテは偽物の皇子だと罪にかけられてしまう。情を交わした婚約者は真の皇子であるファクティスの側につき、兄は睨みつけてくる。そして、とうとう父親である皇帝は処刑を命じた。 「僕のことを1度でも愛してくれたことはありましたか?」 「お前のことを一度も息子だと思ったことはない。」 目が覚め、現実に戻ったヴェリテは安心するが、本当にただの夢だったのだろうか?もし予知夢だとしたら、今すぐここから逃げなくては。 本当に自分を愛してくれる人と生きたい。 ヴェリテの切実な願いが周りを変えていく。  ハッピーエンド大好きなので、絶対に主人公は幸せに終わらせたいです。 最後まで読んでいただけると嬉しいです。

処理中です...