トゥモロウ・スピーチ

音羽夏生

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5章

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 にぎやかな居酒屋の喧騒の中、ふっとテオバルドと目が合う。その深い眼差しに吸い込まれるように周囲のざわめきが遠くなり、喜怒哀楽が平坦になった、限りなくくうに近い状態で見つめ合う。
 テオバルドも、初めて見るもののように、志貴を凝視している。

「――どうしてそんな顔で俺を見る」

 掠れた声で、テオバルドが囁くように訊ねる。

「君こそ、初対面の時より初対面の人間を見てるみたいだ。殆ど毎日会っているのに」
「俺がいつも会っているのは、日本公使館の一等書記官の美人だ。厚く堅い扉があって、決して中には入れてくれないつれない男だ。でも今日のあんたは、扉は閉まってるが、窓を開けてくれてる感じだ。風通しがよくて、あんたの感情が流れてくる。胸の中を搔き乱されるようでたまらないが、――どこかあやうい」
「戸締りは常に万全だが、もしそんな風に見えているなら、闘牛のせいかもしれない」

 光と影。生と死。
 相反する二つの概念が背中合わせとなり、血と熱い息吹の中に同時に存在する場が、志貴の心を揺さぶったのは確かだ。任務も、そこへ至ることになった経緯も忘れて、完全に一個人として没入していた。
 だからこそ今夜は、一個人のままテオバルドと話をしたかった。明日からはまた、スパイと外交官として腹を探り合う関係に戻っても、今夜だけはただの矢嶋志貴として、この国の国技に敬意を表して過ごしたかった。
 しかしそれは志貴の感傷に過ぎないのだろう。テオバルドはいつもと変わらず、志貴を手玉に取ろうと甘い口説き文句を繰り出している。厄介ではあるが、任務に忠実な男だ。

「――物言いたげな顔をしてる」
「君の雇用主は幸運だなと思って」
「他人事みたいな言い方だな、俺の雇い主はあんたたちだろう」
「君はスペインの情報部に所属しているのだろう?」

 民間人ではなく大使館員としてイギリスに入り込んでいたのだから、身分を保証する政府の後ろ立てがあったはずだ。何より外相とは『友達』で、古い付き合いがあるようだった。
 しかし、「まさか」とテオバルドは吐き捨てた。

「俺は職業スパイだ。信義も信条もあるが、顧客に情報を売って稼ぐ。この国のためになど働かない」

 素っ気なく断言する様子に偽りはないように思え、志貴は興味を惹かれた。
 国への忠誠ではなく、金のために情報を売る。それだけではあるまい。金を得るための手段なら、もっと安全で楽な仕事は他にあるはずだ。

「では、何のために働くんだ?」

 非難でも揶揄でもない、純粋な好奇心で訊ねる志貴に、テオバルドの彫像のような美貌が崩れるように破顔する。

「そんな子供みたいにあどけない顔をして聞くことか。鼻の頭にキスしてやりたくなるな」

 そう言って顔を近づけてきたので、横を向いて躱してから睨み付けた。間近で受けとめたテオバルドが、蕩けそうに目尻を下げる。

「まったくあんたは可愛いよ、志貴」
「答えたくないなら、そう言えばいい」

 つんと顔を背けてワインを一口流し込み、小さな落胆も呑み込んで、志貴は呟いた。
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