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5章
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銛で飾られた牡牛を砂場の中央に導き、闘牛士がムレタを体の前に捧げ持つ。じりじりと見つめ合う一人と一頭の間には、すべての境界を越えた意思の疎通でもあるかのようだ。闘牛士の挑発の掛け声に、牡牛が真っ赤なムレタに向かって突進する。闘牛士は脚を揃えて立ち、動かず、右手に持ったムレタを手と指の微妙な動きで、ゆったりと牡牛をやり過ごす。
「オーレ!」
大観衆の声が闘牛場にこだました。
通り過ぎた牡牛とともに闘牛士は向きを変え、ムレタは牡牛の顔を離れないまま、立て続けに牡牛を誘い、闘牛士の脇を通過させる。右、左、と何度も続くそのたびに、一糸乱れぬ合いの手のような歓声が響き渡る。
「オーレ!」
柔らかい赤のムレタに鼻面を撫でられ続けている牡牛は、まるで甘やかされているかのようだ。毛布にすがりつく子供のようにも見える巨体が、光の衣装をまとった闘牛士の誘いで、くるり、くるりと砂場で踊る。ただしその背からは夥しい血が流れ、その黒い体すれすれで身を躱す闘牛士の衣装も、ところどころが血に染まっている。
「オーレ!」
ひらめくムレタに操られているのは、牡牛だけではなかった。観衆の誰もが――テオバルドも、そして志貴も、いつのまにかその声を上げていた。
これは、喝采だ。見事な技の連続を見せる闘牛士と、それに応える勇猛な牡牛への。
正統派というのはこのことではないか、と志貴は思い出していた。攻撃でも防御でもない、生と死が拮抗している緊張の中に、技の神髄が垣間見える。不動の姿勢で、いくつもの技を繋げながら、闘牛士は牡牛を操り、交差し、血に濡れ、そのたびに死が傍らにあることの悲劇性を強調する。
悲劇と笑劇、生と死――人生の要素を、その昏い側面を切り取り表現しているのだ。
「オーレ!」
観衆の「オーレ!」が、「メメント・モリ 」に聞こえる。
「オーレ!」
そして、「カルペ・ディエム」にも聞こえる。
キリスト教が現れる前から存在したこの見世物の本質は、生と死の自覚なのではないか。すぐ傍らで口を開けて待つ死があるからこそ、今という生を楽しむのだという、この国の力強い太陽と、それが生み出す明暗のような――。
やがて、真実の瞬間が訪れる。
牡牛が前肢の蹄を揃えて立つように仕向け、闘牛士は少し距離を置いてその前に立つ。右手に剣を構え、左手でムレタが蹄の前の砂を掃くように垂らし、牡牛と見つめ合う。
一人と一頭の間だけで交わされる何かが結び合った時、裂帛の気合を入れた一人と一頭は交差する。その瞬間、剣は深々と牛のうなじのすぐ後ろに突き刺さり、大歓声がその場を覆い尽くす。
数瞬ののち、牡牛の巨体はどうっと砂の上に倒れた。闘牛士は左の脇にムレタを挟み、右手を上げて、死んでいく牡牛を見守る。
その姿は、信頼する友を悼むようにも見え、己の感傷に、志貴はふっと苦笑いを浮かべた。闘牛の持つカタルシスに自身がすっかり呑み込まれていることを、認めないわけにはいかなかった。
「オーレ!」
大観衆の声が闘牛場にこだました。
通り過ぎた牡牛とともに闘牛士は向きを変え、ムレタは牡牛の顔を離れないまま、立て続けに牡牛を誘い、闘牛士の脇を通過させる。右、左、と何度も続くそのたびに、一糸乱れぬ合いの手のような歓声が響き渡る。
「オーレ!」
柔らかい赤のムレタに鼻面を撫でられ続けている牡牛は、まるで甘やかされているかのようだ。毛布にすがりつく子供のようにも見える巨体が、光の衣装をまとった闘牛士の誘いで、くるり、くるりと砂場で踊る。ただしその背からは夥しい血が流れ、その黒い体すれすれで身を躱す闘牛士の衣装も、ところどころが血に染まっている。
「オーレ!」
ひらめくムレタに操られているのは、牡牛だけではなかった。観衆の誰もが――テオバルドも、そして志貴も、いつのまにかその声を上げていた。
これは、喝采だ。見事な技の連続を見せる闘牛士と、それに応える勇猛な牡牛への。
正統派というのはこのことではないか、と志貴は思い出していた。攻撃でも防御でもない、生と死が拮抗している緊張の中に、技の神髄が垣間見える。不動の姿勢で、いくつもの技を繋げながら、闘牛士は牡牛を操り、交差し、血に濡れ、そのたびに死が傍らにあることの悲劇性を強調する。
悲劇と笑劇、生と死――人生の要素を、その昏い側面を切り取り表現しているのだ。
「オーレ!」
観衆の「オーレ!」が、「メメント・モリ 」に聞こえる。
「オーレ!」
そして、「カルペ・ディエム」にも聞こえる。
キリスト教が現れる前から存在したこの見世物の本質は、生と死の自覚なのではないか。すぐ傍らで口を開けて待つ死があるからこそ、今という生を楽しむのだという、この国の力強い太陽と、それが生み出す明暗のような――。
やがて、真実の瞬間が訪れる。
牡牛が前肢の蹄を揃えて立つように仕向け、闘牛士は少し距離を置いてその前に立つ。右手に剣を構え、左手でムレタが蹄の前の砂を掃くように垂らし、牡牛と見つめ合う。
一人と一頭の間だけで交わされる何かが結び合った時、裂帛の気合を入れた一人と一頭は交差する。その瞬間、剣は深々と牛のうなじのすぐ後ろに突き刺さり、大歓声がその場を覆い尽くす。
数瞬ののち、牡牛の巨体はどうっと砂の上に倒れた。闘牛士は左の脇にムレタを挟み、右手を上げて、死んでいく牡牛を見守る。
その姿は、信頼する友を悼むようにも見え、己の感傷に、志貴はふっと苦笑いを浮かべた。闘牛の持つカタルシスに自身がすっかり呑み込まれていることを、認めないわけにはいかなかった。
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