トゥモロウ・スピーチ

音羽夏生

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3章

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 何より、口ではベタベタと擦り寄ってくるが、こうして距離を置かずに隣に座る以外、身体的な接触は一切してこない。それほど昨年末のあの一件は、テオバルドを警戒させているのだろう。下手に手を出せば、問答無用で地面に叩き付けられるかもしれない――痛い目に遭わされる相手だと。
 やはり誇りを守るのに躊躇しなくてよかった、と志貴は己の信条の正しさをあらためて再認識した。

「仕方がない。惚れた相手に打ち据えられるのも、その痛みに耐えるのも、恋の奴隷の喜びというものだ。……何をメモしてるんだ、志貴」
「ここまで病的な劇場型――もしくは自己陶酔型というべきか、さすがに学究対象として興味が出てくる」
「……なんだって?」
「シェイクスピアの恋愛物を読んでいても、どうしても台詞が脳を上滑りするんだ。君の言動を観察していれば、登場人物の心理を理解する助けになるかもしれない」
「俺が、学究対象……」

 ラテン男の減らず口を、図らずも塞ぐことに成功したのに気づかず、趣味の研究材料を素早く書き留めると、志貴はメモをポケットにしまった。

 酷暑の夏が過ぎ、九月末のマドリードの天候は過ごしやすく、安定している。高原に位置しているため、昼は日差しが強くても涼しく、朝晩は急に肌寒いほどになった。

「今日はいい天気だな……」

 ここしばらく好天が続き、昨日も一昨日もその前も、ずっと雲一つない晴天だったのに、何故かテオバルドが今日に限って、気の抜けた口調で、バス停に並ぶイギリス人のようなことを言い出している。
 何を今更と思いつつ様子を窺うと、気が付いたのか、ドサッとベンチの背もたれに体を預け、額に手を当てながら横目で志貴を見つめてくる。その眼差しは恨みがましそうでもあり、何かを諦めた――降参しているようでもある。そして端々に、甘えた色気を滲ませている。
 何とも言えない罪悪感を感じさせるこの眼差しは、時折テオバルドが見せるものだ。相手にしない自分が冷酷非情な人間に思えるような質の悪いもので、おそらく彼はこの手を使って、これまで数多の女性たちを落としてきたのだろうと察しがつく。

 さっさと報告書を受け取って公使館に戻ってもいいのだが、こうしてほぼ毎日会うようになって二ヵ月、多少絆されてしまったのかもしれない。駄目な飼い犬を置き去りにする悪い飼い主のような気持ちにさせられてしまい、すげなく報告書を寄越せとも言いづらい。それに一応、『昼休みにスペイン語を教えてもらっている日本人』という体でここに通っているため、もうしばらく一緒に過ごさないと、その設定にそぐわない。
 この街で東洋人は目立つ。殆ど毎日同じ時間、同じ場所にいれば、それなりに顔馴染みもできてくる。自らが諜報員として活動することはないとはいえ、周囲の目に不自然に映ることは避けたい。
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