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1章
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「日本人は大人しいと聞いていたが、あんたの母親の烈しさは、この国の女たちにも引けを取らないな。――とんでもない目に遭ったが、あんたのよそよそしい話し方を剥ぎ取ってやったのは収穫だ」
負け惜しみにしては清々しく言い切られ、これがラテンの思考かと呆れる。色々な意味で警戒せざるを得ない相手だが、それでもどこか憎めないのは、この迷惑なほど前向きな姿勢のせいかもしれない。
「これを機にそのお上品な話し方はやめて、生きた言葉を覚えたらどうだ? 俺はその教師として適任だと、梶に進言しておこう。――おやすみ、志貴。良い夢を」
言いたいことを言うと、テオバルドは来た道を戻り始めた。大通りに出て、タクシーを拾うつもりなのだろう。どうか間が悪く、いつまでもタクシーがつかまりませんように、と志貴は内心でささやかな呪詛を唱えた。
美人だのお上品だの、言いたい放題に言ってくれる。母に似たのも、通訳を務めるには十分だが、生の俗語を自在に操るほどスペイン語に習熟していないのにこの地に赴任したのも、志貴のせいではない。特に後者は、職務の妨げになるのではないかと自分でも気にしていただけに、図星を指された格好だった。
遠ざかる背中に冷たい一瞥を投げると、身を翻して志貴は集合住宅の玄関をくぐった。共同階段を自宅のある三階まで上り、自ら鍵を開ける。外食して帰ることは昨夜伝えてあり、通いの女中はすでに帰宅していた。
(生きた言葉……)
教科書には載らない俗語は、確かに母国語とする人々の生活に根差した、生きた言葉だろう。志貴自身がスペインで市井の人々に紛れ込み、スパイの真似事をすることはないだろうが、身に付けて困るものでもない。
部屋の明かりを点けながら、志貴は試しに今最も適切な罵倒語――使うことはなくても、街中で危険を回避するために頭に叩き込んである――を声に出してみた。
「くそったれ!」
現地の要人を迎えることも考慮され設えられた、華美ではないが瀟洒に整えられた応接間に、その言葉はいかにも場違いで、部屋の隅に虚ろに転がって後味の悪さだけを残した。
革張りのソファに身を投げた志貴は、上品で貴族的なスペイン語にさらに磨きを掛け、もう二度と俗語など口にしまいと心から誓った。
負け惜しみにしては清々しく言い切られ、これがラテンの思考かと呆れる。色々な意味で警戒せざるを得ない相手だが、それでもどこか憎めないのは、この迷惑なほど前向きな姿勢のせいかもしれない。
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「くそったれ!」
現地の要人を迎えることも考慮され設えられた、華美ではないが瀟洒に整えられた応接間に、その言葉はいかにも場違いで、部屋の隅に虚ろに転がって後味の悪さだけを残した。
革張りのソファに身を投げた志貴は、上品で貴族的なスペイン語にさらに磨きを掛け、もう二度と俗語など口にしまいと心から誓った。
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