トゥモロウ・スピーチ

音羽夏生

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1章

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 その大使館も、月初に日本が宣戦布告したことにより、必然的に閉鎖されることが決まっている。

「ウエスト・エンドには、以前は毎週のように通っていた。時間があれば、ストラトフォード=アポン=エイヴォンにも足を伸ばしたものだ」

 意外な地名に、志貴は思わず横を歩く男の顔を見上げた。ストラトフォード=アポン=エイヴォンは、イギリスが誇る偉大なる劇作家、ウィリアム・シェイクスピアの生誕地だ。数々の史跡に加え、シェイクスピア劇専門の劇場がある。
 そして志貴も、かつてウエスト・エンドの劇場街の常連だった。当日売りの安いチケットで、思い掛けず良席を取れた時などは、拳を握って喜んだものだ。
 ストラトフォード=アポン=エイヴォンにも、新劇場の柿落とし公演で足を運んだ。シェイクスピアは日本にも明治に紹介されており、またイギリス贔屓の父の影響で、志貴もその作品に親しんで育ったのだ。
 シェイクスピア好きのスペイン人と日本人の若者が、もしかしたらイギリスの劇場のどこかですれ違っていたかもしれない。そう思うと、不思議な感慨が湧き起こってくる。そして、その若者二人が時を経て、今こうしてスパイと外交官として向き合っていることにも。

「まだロンドンの劇場は殆ど閉鎖されてて、まともな舞台を見るには地方まで行かなきゃならないが。――俺が劇場通いをするのは、意外か?」
「正直を言えば、意外です。でもまさかスペインで、同じ趣味の人と出会えるとは。過去に見た舞台や戯曲について、今後お話しする機会があればいいのですが」

 思い掛けないテオバルドとの共通点、そして絶たれてしまったイギリスとの縁が、半分は社交辞令ではなく志貴にそう言わせていた。
 感傷を振り払うように志貴は立ち止まり、テオバルドもそれに続いた。宿舎の集合住宅に着いたのだ。

「送ってくれてありがとう。――残りの三分の一は?」
「あんたは梶の愛人か」

 待ち伏せの理由の三分の一を訊ね、返ってきたのは好奇心をまぶしたような揶揄だった。
 玄関の灯りに薄く照らされた男の顔は、穏やかな微笑をたたえている。直前まで名残惜しそうにロンドンでの日々を語っていたのに、突然何を言い出すのか――。
 不躾な侮辱ともとれるそれに鼻白むこともなく、黙って見返すだけの志貴に、テオバルドは面白そうに言い重ねてくる。

「このご時世だ、家族を帯同して欧州に赴任してくる外交官なんて殆どいない。あんたは勿論、梶も単身だ。でもってあんたたちは、同じ船で同じ日に赴任してる」

 たった一日でよくそこまで調べたものだ。そうしないと気が済まないのか、――それとも生き残れないのか。
 スパイという生き物は、好奇心と猜疑心、その二つを満たす行動力で構成されているのかもしれない。この調子では、訊ねたら、昨夜の梶の夕食の献立も逐一しれっと答えるに違いない。
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