10 / 237
1章
6
しおりを挟む
テオバルド・アルヴァは、スペインの外相がお墨付きを与えるスパイ。
そういう触れ込みで今夜顔を合わせたにもかかわらず、その懐に隠した本性の刃をちらりと見せられ、志貴は動揺した。改めて突きつけられた事実に、何故か安堵と失望が綯交ぜになった不可解な感情に包まれたのだ。
彼の用心深さは、自陣のスパイとして信頼に値するものでありこそすれ、失望する理由などないはずだ。それでも、外相からの斡旋であってもこうして疑い試されたことに、微かな不快感があった。
しかしそれは、ただの甘さに過ぎなかった。あの食事の場だけで彼の信頼を勝ち取ったと思い込み、それを裏切られたように感じたのなら、練達のスパイの取引相手としていかにも幼稚で御し易く、外交官としても失格の烙印を押されかねない。
唐突に志貴は、梶も自分も彼の標的となり得ることに改めて気づいた。もしテオバルドが二重スパイなら、自分たちから得た情報を第三国に売る可能性もある。外務省の末端に軍の機密は届かないため、彼がどれほど有能なスパイであろうと、公使館員から本国の情報が漏洩することはない。しかしベルリンやローマからの電信は、マドリードにも届くのだ。
テオバルドに相対する時は、心の鎧戸にしっかりと閂を下ろすのが賢明だろう。それほどに彼の人好きする態度と整った容姿、そして愛嬌の滲む笑顔は、するすると心に入り込み根を張る魅力を持っている。
内心ではいけ好かない奴と嫌っている相手でも、友好的に振る舞う術を身に付けている梶だが、さきほどの食事の場は、社交辞令ではなく本心から楽しんでいた。外務省で『鵜の目梶の目』と恐れられる鋭い鑑識眼は、初対面の相手にそう容易く合格を与えない。その梶が、この男を気に入ったということだ。
外交官としてではなく一個人としても純粋に興味深い、魅力的で経験豊富なスパイ。帽子の鍔の影に隠れ、表情の読めない男を見上げながら、志貴は吐息とともに答えた。
「それがあなたの仕事のやり方ですか」
「敬称はやめてくれ、俺たちは仕事仲間になるんだろう?」
「……そうですね」
特殊な仕事相手だからこそ敬称で呼び、適切な距離を置いてけじめを付け、互いに不用意に立ち入らないようにしたい。志貴が巡らせようとしていたその壁を、見越したようにテオバルドは軽々と飛び越えてくる。
よくわからない男だ。
黙って確認することもできたのに、こうして姿を現し手の内を見せる目的は何なのか。しかも、降誕日を間近に控えた凍りつきそうな夜――実際、気温は氷点下だろう――、わざわざ先回りして待ち伏せてまで。
「ではこうして君が私を待ち伏せしていたのも、その行き先が一等書記官の宿舎であることを確認するためですか」
「三分の一はそうだ。もう三分の一は、夜道は危険だから美人を家まで送ること」
「残りの三分の一は?」
そういう触れ込みで今夜顔を合わせたにもかかわらず、その懐に隠した本性の刃をちらりと見せられ、志貴は動揺した。改めて突きつけられた事実に、何故か安堵と失望が綯交ぜになった不可解な感情に包まれたのだ。
彼の用心深さは、自陣のスパイとして信頼に値するものでありこそすれ、失望する理由などないはずだ。それでも、外相からの斡旋であってもこうして疑い試されたことに、微かな不快感があった。
しかしそれは、ただの甘さに過ぎなかった。あの食事の場だけで彼の信頼を勝ち取ったと思い込み、それを裏切られたように感じたのなら、練達のスパイの取引相手としていかにも幼稚で御し易く、外交官としても失格の烙印を押されかねない。
唐突に志貴は、梶も自分も彼の標的となり得ることに改めて気づいた。もしテオバルドが二重スパイなら、自分たちから得た情報を第三国に売る可能性もある。外務省の末端に軍の機密は届かないため、彼がどれほど有能なスパイであろうと、公使館員から本国の情報が漏洩することはない。しかしベルリンやローマからの電信は、マドリードにも届くのだ。
テオバルドに相対する時は、心の鎧戸にしっかりと閂を下ろすのが賢明だろう。それほどに彼の人好きする態度と整った容姿、そして愛嬌の滲む笑顔は、するすると心に入り込み根を張る魅力を持っている。
内心ではいけ好かない奴と嫌っている相手でも、友好的に振る舞う術を身に付けている梶だが、さきほどの食事の場は、社交辞令ではなく本心から楽しんでいた。外務省で『鵜の目梶の目』と恐れられる鋭い鑑識眼は、初対面の相手にそう容易く合格を与えない。その梶が、この男を気に入ったということだ。
外交官としてではなく一個人としても純粋に興味深い、魅力的で経験豊富なスパイ。帽子の鍔の影に隠れ、表情の読めない男を見上げながら、志貴は吐息とともに答えた。
「それがあなたの仕事のやり方ですか」
「敬称はやめてくれ、俺たちは仕事仲間になるんだろう?」
「……そうですね」
特殊な仕事相手だからこそ敬称で呼び、適切な距離を置いてけじめを付け、互いに不用意に立ち入らないようにしたい。志貴が巡らせようとしていたその壁を、見越したようにテオバルドは軽々と飛び越えてくる。
よくわからない男だ。
黙って確認することもできたのに、こうして姿を現し手の内を見せる目的は何なのか。しかも、降誕日を間近に控えた凍りつきそうな夜――実際、気温は氷点下だろう――、わざわざ先回りして待ち伏せてまで。
「ではこうして君が私を待ち伏せしていたのも、その行き先が一等書記官の宿舎であることを確認するためですか」
「三分の一はそうだ。もう三分の一は、夜道は危険だから美人を家まで送ること」
「残りの三分の一は?」
21
お気に入りに追加
64
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。




【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

愛などもう求めない
白兪
BL
とある国の皇子、ヴェリテは長い長い夢を見た。夢ではヴェリテは偽物の皇子だと罪にかけられてしまう。情を交わした婚約者は真の皇子であるファクティスの側につき、兄は睨みつけてくる。そして、とうとう父親である皇帝は処刑を命じた。
「僕のことを1度でも愛してくれたことはありましたか?」
「お前のことを一度も息子だと思ったことはない。」
目が覚め、現実に戻ったヴェリテは安心するが、本当にただの夢だったのだろうか?もし予知夢だとしたら、今すぐここから逃げなくては。
本当に自分を愛してくれる人と生きたい。
ヴェリテの切実な願いが周りを変えていく。
ハッピーエンド大好きなので、絶対に主人公は幸せに終わらせたいです。
最後まで読んでいただけると嬉しいです。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

【完結】兄の事を皆が期待していたので僕は離れます
まりぃべる
ファンタジー
一つ年上の兄は、国の為にと言われて意気揚々と村を離れた。お伽話にある、奇跡の聖人だと幼き頃より誰からも言われていた為、それは必然だと。
貧しい村で育った弟は、小さな頃より家の事を兄の分までせねばならず、兄は素晴らしい人物で対して自分は凡人であると思い込まされ、自分は必要ないのだからと弟は村を離れる事にした。
そんな弟が、自分を必要としてくれる人に会い、幸せを掴むお話。
☆まりぃべるの世界観です。緩い設定で、現実世界とは違う部分も多々ありますがそこをあえて楽しんでいただけると幸いです。
☆現実世界にも同じような名前、地名、言葉などがありますが、関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる