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1章
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敵国となれば国交は断絶され、それぞれの国に駐在する外交官の資格も停止される。それは、外電と枢軸からの情報以外に、最も必要な交戦国の情報を入手する術を失うことを意味する。
主戦派ではない梶と、さらに帝国主義にも懐疑的な志貴にとって、月初の大事件は彼我の国力の差を見誤った愚挙としか思えず、足元が覚束なくなるほどの衝撃を受けた。最悪の事態を想定して諜報機関の設立を計画し、今こうして実行に移しているわけだが、対米開戦は踏みとどまるだろうと、心の奥底では母国を信じていたのだ。それほどに、この開戦は無謀だった。
しかし、賽は投げられた。本国上層部の決定を嘆いても始まらない。外交官の使命――水面下で国を守る戦いはすでに始まっている。
苦い思いと使命の重さをワインで流し込む梶は、酒代で蔵が建つほどの酒豪だ。強い酒を吐くまで飲ませて相手を計る中国やソ連の駐在時代、逆に向こうを潰すまで飲ませて返り討ちにした外務省随一の伝説を持つ。しかし、この大事な場で悪い酒を飲ませるわけにはいかない。
頼んでおいた水のグラスをさりげなく梶の手元に滑らせる志貴を、テオバルドは目の端で捉えていた。口元を微かに引き上げて、穏やかながらも素っ気なく、いささか前のめりの梶に釘を刺してくる。
「それはそちら次第だ。本国のお許しを得て金を作ってもらわなければ、動けるものも動かない」
「まったく、何だって年末なんかにおっぱじめたんだ! ……志貴君、今のは訳すなよ。――とにかく時期が悪い、年明けには沙汰が下ると思うんだが」
「では、話がまとまったら昨日の番号に連絡を。すぐに動けるようにしておきましょう。それと、この計画が有為なものになる秘訣を一つ。――協力者に金を惜しめば、ちゃちな情報しか手に入らない。『パパ』にはそうお伝えを。これは契約前のサービスです」
朗らかな笑顔に派手なウインクまで付け足されたが、あからさまにこちらの足元を見ている。状況が状況なだけに言い値で応じるしかないが、この男が横紙破りの強欲者ではないことを祈るしかない。
水のグラスを押し遣るだけではなく、梶の前からワインボトルを遠ざけ始めた志貴の今夜の任務は、この瞬間に、可及的速やかに梶を公使館――この地では公邸も兼ねている――に放り込むことへと変更されていた。こちらの事情で正式契約が遅れそうな取引相手と、これ以上仕事の話を進めることはできない。他愛ない世間話を交わしつつ食事を終えたら、速やかにこの場を辞して梶を送っていかなければ。
テオバルドにしても、まだ顧客でもない東洋人の相手を長々としたくはないだろう。ましてや今は、数日後に降誕日を控える待降節なのだ。本心はとっとと帰宅して、家族と共にその支度をしたいに違いない。
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