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顔の横を過ぎる風は耳を切る冷たさで、年の瀬の迫った冬の空は、三時を過ぎて早くも夕方に向かって傾き始めていた。
いつもの道を快調に飛ばし、ブレーキ音を立てて車体を傾けながら自転車を止めると、景は足取りも軽く階段を上って重い樫の扉を引いた。
「いらっしゃい、上嶋さん」
机の上の本から顔を上げ、文也がにこやかに挨拶する。店内に誰もいないことを確認すると、景は立ち上がった文也のこめかみに素早くキスを落とした。
「……上嶋さん、店でこういうことは」
頬を染めて俯く様を見たくて、そしてもちろん文也に触れたくて、いつも隙を狙っていることを少年は知らない。年下の恋人を相手に、そんな子供じみた真似をする自分に呆れながらも、やめられないでいる景を知らない。
初恋のようなくすぐったさを、二人は今噛みしめている。
あの土砂降りの日、二人の距離を縮め互いを分け合ったあの日以降も、二人の間の時間は穏やかに過ぎていた。語学には興味があっても国文学にはさほど興味がなく、家の経済状況的には容易いが兄の帰還の可能性を考えると、これまでも長期の留学をする気になれなかった景は、高間教授に丁寧に謝って交換留学の話を断った。
相変わらず、平日は以前と同じバイト三回虎穴堂二回の日々が続いている。都合が合えば、週末に文也を連れ出して車で遠出することもある。さすがに車は貸してもらっているが、親のお金でデートするなどという最悪に格好悪い真似をせずに済むという意味で、ただの時間潰しだったバイトも、今はその位置付けが変わっていた。
あの熱に浮かされたような抱擁の間に文也が零した「好き」という言葉は、一時の焦燥が言わせたものではなく、今も彼の中に留まり景を照らす標となっている。景との触れ合いを、文也は恥じらい戸惑うことはあっても、拒むことはない。
「僕の側を離れないって言ってくれて、すごく、嬉しかった」
――あの日、文也が目覚めた時。
地を穿つ土砂降りはすっかり止み、雨で洗い上げられた清々しい空気の中、夕方の光線が部屋に深く差し込んでいた。
身繕いを済ませた少年は、自らの体を狂おしく通り過ぎた嵐の余韻に、しばらく所在無げに俯いたまま黙っていた。どのような顔をして目の前の男に――体の奥深くで結ばれた相手に向き合えばいいのかと、時折上目遣いで様子を窺いながら初々しく狼狽えていたが、やがて小さな声でそう呟いたのだ。
「大好きだった人たちは誰も、そんなことを言ってくれなかったから」
文也の中の自分の位置付けは、過去に彼がその不在ゆえに魂を霞ませるほど近しく感じていた人々と同列なのかと、苦い思いを噛みしめた。しかし、文也が自分の差し出した手を取ってくれた今、それは些末な悩みに過ぎないと思うようにしている。
今、そしてこれからも、景は文也の側にいる。もっと文也の中に入り込んで、存在を刻み付けて、景なしでは生きていけないように、過去の人々との差をつければいいだけの話だ。
二枚の絵の寂しい子供は、文也と肌を重ねたあと景が確認しに読書室へ下りた時には、三歳に時を戻し池のほとりに佇んでいた。以来、文也が過去に去っていった人々の思い出話をしても、成長することはなかった。景が傍らにある限り、文也が冷たい人形の無表情を見せることもない。
一度は失うかと心臓が凍る思いをした少年の微笑みは、変わらず虎穴堂にあり、景を迎えてくれる。それが何よりも貴く、心の底から嬉しい。
「期末考査の結果は出た?」
「ええ、いつもと変わりませんでした」
来年は受験生ということで、進学校に通う高校生らしく宿題を片付けていた文也は、机の上の教科書を閉じながら頷いた。
「いつもって?」
前回よりも下がっていなかったことにほっとする。
今日は冬休みを一緒に過ごす計画を立てるつもりで来たので、成績が下がれば保護者である虎穴堂店主の承認を取るのが難しくなる。そういえば、店主である謎多き文也の祖父には一度も会ったことがないなと思っていると、文也はあっさり付け足した。
「ですからいつも通り、首位です」
「首位?」
「ええ、総合首位。うちの学校、成績上位者には特待制度があるんです。いいところですよね、こんなに近くて無料で行ける学校なんて。だから選んだんですけど」
あの名門校への進学理由が『近くて無料だから』。そして総合首位を維持し続けている。
ある意味、兄を遥かに越えた超絶優等生だ。
景は初めて、手に入れて日の浅い恋人を『おばけ屋敷』の化け物だと思った。そうして思い返してみれば、他にも思い当たる節がある。
二人で洋書の整理をしていた時、文也の語学に対する博学ぶりに瞠目し訊ねたところ、景と違い語学を修めたことはないと答えた。
「祖父が仕入れた本の説明をしてくれるので」
「ということは、おじいさんは虎穴堂で扱うすべての本の言語に堪能で……君は売り物のすべてを記憶してるってこと?」
「店番ですからね」
何でもないことのように頷いた文也にも驚いたが、自分など足下にも及ばない膨大な言語知識の持ち主であるらしい店主に呆れた方が大きくて、その時は気にならなかったのだが。
この世の知識を集約したような古書肆を開き、魂を繋ぐ絵を描く店主と、その跡取りとして英才教育を受けているらしい少年。
とんでもない相手を好きになってしまったとため息が出てしまう景に気づく様子もなく、そのとんでもない古書肆の秘蔵っ子は、机の引き出しから白い封筒を取り出した。
「これ、昨日届いた売り物の整理をしていて見つけたんですけど、上嶋さん宛なんです。本に挟まってました」
「俺? どうしてそれが、ここの売り物の中に?」
宛書きは『上嶋景様』。住所はなく、受け取って裏返しても、差出人の名前も書いていない。
説明を求めて文也を見ても、困惑顔で首を振るだけだ。
「古本の中に俺宛の手紙が偶然入ってて、偶然おじいさんが仕入れて、それを偶然ここで俺が受け取るって? ……薄気味悪いな」
「とりあえず中を見てみたらどうですか? 上嶋さん宛であることは確かだし」
「ああ」
文也が手渡してくれた古風なペーパーナイフで封を切り、万が一の悪戯を警戒して逆さに振る。中から零れ落ちたのは一枚の便箋だけ。訝しく思いながら拾い上げて、丁寧に畳まれたそれを広げた。
――目を疑った。
失踪した兄、実継からの手紙だった。
いつもの道を快調に飛ばし、ブレーキ音を立てて車体を傾けながら自転車を止めると、景は足取りも軽く階段を上って重い樫の扉を引いた。
「いらっしゃい、上嶋さん」
机の上の本から顔を上げ、文也がにこやかに挨拶する。店内に誰もいないことを確認すると、景は立ち上がった文也のこめかみに素早くキスを落とした。
「……上嶋さん、店でこういうことは」
頬を染めて俯く様を見たくて、そしてもちろん文也に触れたくて、いつも隙を狙っていることを少年は知らない。年下の恋人を相手に、そんな子供じみた真似をする自分に呆れながらも、やめられないでいる景を知らない。
初恋のようなくすぐったさを、二人は今噛みしめている。
あの土砂降りの日、二人の距離を縮め互いを分け合ったあの日以降も、二人の間の時間は穏やかに過ぎていた。語学には興味があっても国文学にはさほど興味がなく、家の経済状況的には容易いが兄の帰還の可能性を考えると、これまでも長期の留学をする気になれなかった景は、高間教授に丁寧に謝って交換留学の話を断った。
相変わらず、平日は以前と同じバイト三回虎穴堂二回の日々が続いている。都合が合えば、週末に文也を連れ出して車で遠出することもある。さすがに車は貸してもらっているが、親のお金でデートするなどという最悪に格好悪い真似をせずに済むという意味で、ただの時間潰しだったバイトも、今はその位置付けが変わっていた。
あの熱に浮かされたような抱擁の間に文也が零した「好き」という言葉は、一時の焦燥が言わせたものではなく、今も彼の中に留まり景を照らす標となっている。景との触れ合いを、文也は恥じらい戸惑うことはあっても、拒むことはない。
「僕の側を離れないって言ってくれて、すごく、嬉しかった」
――あの日、文也が目覚めた時。
地を穿つ土砂降りはすっかり止み、雨で洗い上げられた清々しい空気の中、夕方の光線が部屋に深く差し込んでいた。
身繕いを済ませた少年は、自らの体を狂おしく通り過ぎた嵐の余韻に、しばらく所在無げに俯いたまま黙っていた。どのような顔をして目の前の男に――体の奥深くで結ばれた相手に向き合えばいいのかと、時折上目遣いで様子を窺いながら初々しく狼狽えていたが、やがて小さな声でそう呟いたのだ。
「大好きだった人たちは誰も、そんなことを言ってくれなかったから」
文也の中の自分の位置付けは、過去に彼がその不在ゆえに魂を霞ませるほど近しく感じていた人々と同列なのかと、苦い思いを噛みしめた。しかし、文也が自分の差し出した手を取ってくれた今、それは些末な悩みに過ぎないと思うようにしている。
今、そしてこれからも、景は文也の側にいる。もっと文也の中に入り込んで、存在を刻み付けて、景なしでは生きていけないように、過去の人々との差をつければいいだけの話だ。
二枚の絵の寂しい子供は、文也と肌を重ねたあと景が確認しに読書室へ下りた時には、三歳に時を戻し池のほとりに佇んでいた。以来、文也が過去に去っていった人々の思い出話をしても、成長することはなかった。景が傍らにある限り、文也が冷たい人形の無表情を見せることもない。
一度は失うかと心臓が凍る思いをした少年の微笑みは、変わらず虎穴堂にあり、景を迎えてくれる。それが何よりも貴く、心の底から嬉しい。
「期末考査の結果は出た?」
「ええ、いつもと変わりませんでした」
来年は受験生ということで、進学校に通う高校生らしく宿題を片付けていた文也は、机の上の教科書を閉じながら頷いた。
「いつもって?」
前回よりも下がっていなかったことにほっとする。
今日は冬休みを一緒に過ごす計画を立てるつもりで来たので、成績が下がれば保護者である虎穴堂店主の承認を取るのが難しくなる。そういえば、店主である謎多き文也の祖父には一度も会ったことがないなと思っていると、文也はあっさり付け足した。
「ですからいつも通り、首位です」
「首位?」
「ええ、総合首位。うちの学校、成績上位者には特待制度があるんです。いいところですよね、こんなに近くて無料で行ける学校なんて。だから選んだんですけど」
あの名門校への進学理由が『近くて無料だから』。そして総合首位を維持し続けている。
ある意味、兄を遥かに越えた超絶優等生だ。
景は初めて、手に入れて日の浅い恋人を『おばけ屋敷』の化け物だと思った。そうして思い返してみれば、他にも思い当たる節がある。
二人で洋書の整理をしていた時、文也の語学に対する博学ぶりに瞠目し訊ねたところ、景と違い語学を修めたことはないと答えた。
「祖父が仕入れた本の説明をしてくれるので」
「ということは、おじいさんは虎穴堂で扱うすべての本の言語に堪能で……君は売り物のすべてを記憶してるってこと?」
「店番ですからね」
何でもないことのように頷いた文也にも驚いたが、自分など足下にも及ばない膨大な言語知識の持ち主であるらしい店主に呆れた方が大きくて、その時は気にならなかったのだが。
この世の知識を集約したような古書肆を開き、魂を繋ぐ絵を描く店主と、その跡取りとして英才教育を受けているらしい少年。
とんでもない相手を好きになってしまったとため息が出てしまう景に気づく様子もなく、そのとんでもない古書肆の秘蔵っ子は、机の引き出しから白い封筒を取り出した。
「これ、昨日届いた売り物の整理をしていて見つけたんですけど、上嶋さん宛なんです。本に挟まってました」
「俺? どうしてそれが、ここの売り物の中に?」
宛書きは『上嶋景様』。住所はなく、受け取って裏返しても、差出人の名前も書いていない。
説明を求めて文也を見ても、困惑顔で首を振るだけだ。
「古本の中に俺宛の手紙が偶然入ってて、偶然おじいさんが仕入れて、それを偶然ここで俺が受け取るって? ……薄気味悪いな」
「とりあえず中を見てみたらどうですか? 上嶋さん宛であることは確かだし」
「ああ」
文也が手渡してくれた古風なペーパーナイフで封を切り、万が一の悪戯を警戒して逆さに振る。中から零れ落ちたのは一枚の便箋だけ。訝しく思いながら拾い上げて、丁寧に畳まれたそれを広げた。
――目を疑った。
失踪した兄、実継からの手紙だった。
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