絵の中に棲む夢

音羽夏生

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 萎縮していた自分が息を吹き返し、ゆっくりその芽をもたげ深呼吸を始めたのを、景は自覚していた。五年半もの間、景を雁字搦めにしていた荊の蔓は、少年の姿をした魔法使いの言葉で解呪され、いくつかの棘を残しながらも消えてなくなった。
 しっかりした足場ができ、そこに立つ二本の足が萎えていないことを知る者には、それなりに余裕というものができるのかもしれない。
 以前ほど苦痛ではなくなった両親との夕食の席で、

「語学の試験、いくつか受けたいんだけど、申し込んでいい?」

許可を求める裏に、自分を腫れ物のように扱う必要はないのだというメッセージを込めて言った時、それほど緊張することはなかった。
 今まで自発的な向学心など見せたことのなかった次男の言葉に、父と母は顔を見合わせ、勿論と頷いた。

「いくつかって、どんな試験を受けるんだ」
「英語はケンブリッジ英検とIELTSとTOEIC、あとドイツ語とフランス語とスペイン語の二級」
「そりゃすごいな、全部受かれば万国博覧会だ」
「景を連れて旅行に行けば、通訳要らずで楽ができるわね」
「とか言って、結局は若い荷物持ちが欲しいんだろ」
「なんだ景、父さんを老いぼれだと言いたいのか」
「母さんは新旧どちらでもいいのよ、荷物さえ持ってもらえれば」

 澄ました調子で母が言い、父と景は無言で眼差しを交わし、同時に吹き出した。母もつられるようにそれに続いた。久しぶりの、自然に和やかな食卓だった。
 それを機に、父と母から、ぴりぴりと細かく放電していた硬さが少しずつ抜け始めた。
 まだ誰も実継を話題に乗せることはなかったが、歪に捻れてしまっていた家族は、ゆるやかに元の形に戻ろうとしている。景に、上嶋家に刺さったままの抜けない棘――実継の失踪は、彼が戻らない限り抜けることはないだろう。それでもできる範囲で家族の関係を修復し、実継が戻った時に居心地の悪い思いをさせないようにするのが、失踪するほどの何かを抱えていた兄に気づけなかった自分にできる唯一の罪滅ぼしだと、最近景は考えるようになった。

 人を思いやるには、自分に余裕がなければならない。埋み火のように燻る嫉妬も劣等感も、目を背けずその存在を許してやれば、随分楽になれる。開き直りもそのあとの行動次第で、言い訳にも原動力にもなる。
 そう思えるきっかけを与えてくれた少年との時間は、宝石のきらめきのように貴重で、かけがえのないものになっていた。雨も風も、彼を訪れる妨げにはならなかった。家族でもない人間にこれほどの安らぎと執着を覚えるのは初めてで、景はそんな自分が不思議だった。

 屈託のない文也の笑顔に時折わけのわからない違和感を感じることがあり、正体不明のそれが妙にもどかしく、持て余しながらも欠かさず虎穴堂を週二回訪ねるようになって、一ヵ月半が過ぎた頃。
 いつものように書棚整理の手伝いをしてコーヒーをごちそうになっている時、文也が小さな紙片を差し出した。

「珈琲券?」

 上嶋さんに差し上げるものはいつも同じで芸がないんですけど、と文也は肩を竦めた。

『執事喫茶セバスチャン 珈琲券』

 その下に、修堂高校文化祭・二年A組とある。もうそんな季節か、と自分も学生でありながら、景は時の経つ早さをしみじみ思った。

「定番だからって執事喫茶をやるんです。うちは男子校だから、他校の女の子目当てで。僕はコーヒー淹れるの得意だし、裏方をやらせてほしいと言ったんですけど」
「客寄せしろって言われたんだろ」

 確信をもって後を引き受けてやる。原宿あたりを歩けば一時間でスカウトの名刺が束になることは確実の文也の繊細な容貌は、女の子向けの客寄せパンダに最適だろう。
 文也は気が進まない様子で頷く。

「古本屋なんだからって『金田一的文豪スタイル』を厳命されちゃって。金田一は探偵であって、執事でも文豪でも古本屋でもないんですけどねえ」

 「古本屋なら京極堂ですよね。でもあの人、意外に着道楽なんですよ」、古書だけではなく和製ミステリーも嗜むらしい文也は、そう言って笑った。
 そういえば封印されたままの兄の部屋にも、洋の東西を問わないミステリー小説がたくさん並んでいた気がする。そんなところまでこの二人は同じなのか、と杞憂の二文字では片付けられない不安が景の中に充満していく。

 親しくなり、当たり障りのない心地の良い会話を重ねていく中で、何度か兄が文也にかぶって見えたことがある。笑い方、穏やかな言葉遣い、何かを考える時に目を伏せる癖。顔も背格好も似たところはないのに、時々ふとした仕草が驚くほど酷似して見える。
 育ちのいい、おっとりした優等生に共通した佇まいと切って捨てることもできるのに、景はそうしなかった。不吉な符号は、些細なことでも見逃したくない。兄に続いてこの少年まで目の前から消えるようなことがあれば、今度は事前にその可能性を察知していただけに、きっと自分は二度と立ち直れない。
 安易な判断で破綻の予兆を見逃すようなことは、絶対に避けなければならない。

「そういえば昔、うちの常連さんで京極堂が好きな人、いたっけ」

 外のテラスはコーヒーを飲むには涼しすぎ、窓際のテーブルが最近の指定席になっている。すでに陽は落ちて、濃紺の空より深い色合いをした池の水面に目を向けながら、文也はコーヒーの湯気に顔を寄せた。

「今の上嶋さんくらいかなぁ。とにかくうちのお客さんとしては破格に若い人で、小学生の僕とよく遊んでくれたんです。僕も『おにいちゃん』って呼んでて、来てくれるのをいつも楽しみに待ってました」

 今でも人形のような少年なのだから、小学生の文也は凄まじく可愛らしい子供だったに違いない。
 不在がちな店主に代わり店番をするために、寄り道もせず家と学校を自転車で往復するだけの文也の生活スタイルは、高校生としては味気なさすぎると常々思っていた。しかし男狙いの変質者もいる物騒な世の中で、彼の身の安全を考えると妥当な防衛策に思えてくる。
 背筋を伸ばして姿勢よく向かいに座る文也を見遣り、そんな折り目正しいところも兄に似ていると景は内心嘆息した。

「俺ぐらいの年で虎穴堂の常連か。只者じゃないね、それは」
「作家志望の学生さんでした。春先に突然来なくなって、それっきりですけど」

 元気でいるのかな、おにいちゃん。
 呟く声には、あたたかな思慕と気遣いが込められていた。

 ――元気でいるのかな、おにいちゃん。

 家族の誰も、口に出したことのない言葉。自分を、家族の負った傷をさらに抉りそうで、実継の安否を口にして気遣うことができない上嶋家の人々。
 もしかしたら実継は、とっくにこの世を去っているかもしれないのに。

 兄の帰還を信じて前向きに自分の人生を歩み始めたが、心の奥底にいつも最悪の可能性を隠し続けていた。
 比べられて嫌な思いをしても、末っ子の特権を嵩にきてひっそり蔑んでも、やさしく面倒見のよかった兄を嫌いだと思ったことはなかった。その優等生ぶりに偽善を感じ、突っかかって反発したりもしたが、本当は自慢に思っていた。
 大好きな兄を。

 気がつけば、視界に白いぼやけたものが入り込んでいた。

「コーヒー淹れ直してきますね」

 目の前に置かれた白い何かが、綺麗にアイロンを掛けられたハンカチだと気づいた時、卓上を片付けて文也は読書室から出て行った。
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