絵の中に棲む夢

音羽夏生

文字の大きさ
上 下
3 / 13

3

しおりを挟む
 入口の壁には、ヨーロッパのアーケードのように、蔓の意匠を用いた三角の提げ具から小さな看板が下がっている。洒落たデザインに崩された『虎穴堂』の三文字を見上げ、ぐっと腹に力を入れて景は重い扉を引いた。

「いらっしゃいませ。……あれ、昨日の」

 こんにちは、と丁寧に挨拶してきたのは文也だった。今日も白と黒の上下で、勘定場の机の向こうに座っている。昨日と同じ時間帯なら会えるかと思って来たのが当たったようだ。

「こんにちは。えーと、文也くんだっけ」

 景の言葉に、文也は数度瞬きを繰り返し、ああ、と頷いた。

「高間先生に聞いたんですね。はい、文也です。御園文也」
「俺は上嶋。上嶋景。図々しいとは思いつつ、昨日の今日でコーヒーをご馳走になりに参りました」

 おどけて敬礼してみせると、文也は笑いながら真似をして敬礼で応えた。

「そんな、図々しいだなんて。歓迎しますよ。どうぞこちらへ」

 書棚に隠れていて昨日は気づかなかった扉を開けて、文也が奥に誘う。通された部屋も洋室で、板張りの床が池に向かってまっすぐ伸び、直線の美を際立たせていた。

「こりゃすごい」

 素直に感嘆の声が洩れた。

「舞踏会でも開けそうな部屋だね」

 華美ではないが品よく落ち着いた調度品を備え、中央にまたも大シャンデリアが下がる部屋は、池に面する壁がほぼ一面ガラス張りで、日本の貧しい住宅事情を完全に無視した広さだった。
 繊細なレリーフを施された鉄の柵のようなものが壁際に設えられているのは、きっとラディエーターカバーだろう。吹き抜けの二階はボールド天井で、優美なカーブが部屋全体にやさしい印象を与えている。入ってきた扉の上に一辺だけ渡された二階廊下は、ヨーロッパの宮殿の舞踏室でよく見掛ける楽団の演奏スペースではないだろうか。ところどころに座り心地の良さそうな椅子やソファが小さなテーブルとともに設えられていて、なるほどこれならコーヒー片手に読書を楽しむのに最適だろう。
 三代続く医者の息子として物質的には恵まれた環境で育った景も、圧倒されるばかりの懐古調異空間だ。

 そんな中でひときわ目を引かれのは、壁に架かった二枚の大画。
 作風は随分違うのに対の作品だと直感したのは、ぴたりと向かい合うように架けられた配置と、日の出と日没という相対するモティーフのせいだった。
 日の出といったら初日の出、日没といったら橙色の太陽というくらいの表現方法しか思い浮かばない景にとって、似たような色の絵の具を使いながら明らかに日が昇る様落ちる様を描き分けるその技術は、ただ感嘆するほかない。全くの門外漢でも、何となく気になっていつまでも眺めていたい気にさせる、不思議な雰囲気のある絵だった。

「好きなところに掛けてください。窓を開ければテラスですから、今日は天気もいいし外も気持ちいいですよ。すぐコーヒーをお持ちします」
「ありがとう」

 風の涼しい池のほとりのテラスにも心惹かれたが、景は迷うことなくシャンデリアの下の猫足椅子を選んだ。部屋の両側に架かる絵を見るのに、中央に置かれたその椅子は最適だった。ほどなくしてコーヒーをのせたトレイを手に文也が現れるまで、景はじっと二枚の絵に見入っていた。

「お待たせしました」

 礼を言ってカップを受け取り、立ち上る芳香に思わず笑みが浮かぶ。口に含む前から上等のコーヒーであると知れる香りで、一口啜るとヨーロッパ風の力強い苦味が口の中に広がった。

「古本屋を即刻廃業して喫茶店に鞍替えすべきだよ、文也くん」

 拳を固めて半ば本気で力説すると、

「複雑な褒め言葉ですね、それは」

それでも褒められたことは嬉しいのか、文也は口許をほころばせた。

「もしくは兼業とか。この部屋は広すぎるくらいに十分広いし、いるだけで貴族になったみたいな気にさせてくれるし。それにこの絵、俺はそういうの全く詳しくないけど、見てると何だか落ち着くし。こういうのを郷愁っていうのかな」

 何気なくするりと出た言葉だったが、自分で言ったことに照れて、景はカップを脇のテーブルに戻した。

「サインを見ると、Misonoって書いてあるみたいだけど」
「僕の両親の絵なんです。左の、っていうか東の『夜明け』が父の、西の『落日』は母の」
「へえ、すごいね。ご両親とも画家なの?」
「職業画家だったのか不明ですけど、よく絵を描いていたことは確かみたいですね」
「みたい?」
「よく知らないんです、両親のこと。二人ともいないので」
「……ごめん、悪いこと聞いたみたいだ」
「いいんですよ、僕が三歳の時のことだし」

 本当に気にした様子もなく、文也は答えた。
 再びカップを取り上げながら、景はさりげなく『夜明け』に、ついで『落日』に視線を移した。

 絵の片隅に控えめに記されたサインの他にも気づいたことがある。
 どちらの絵も、おそらく目前の池と思われる水面を画面の下に据えていて、そのほとりには小さな男の子の姿があった。描かれた日付はわからないが、文也誕生後の作品であるならば、彼の両親はどんな想いでその子を――息子だけを、絵の中に残したのだろうか。幸せな三人家族ではなく、ぽつんと寂しい子供の背中は、彼らが幼い文也を遺して死ぬことへの暗示のようにも見えた。

(――まさか自殺?)

 ふいに浮かんだ安易で不穏な憶測を、即座に確信をもって打ち消す。もし過去にそんな事件が起きていたら、この狭い町で噂にならないわけがない。良くも悪くも地縁が根底にある共同体は結束が強く、時に無神経なまでに物見高い。

「じゃあ僕はこれで下がりますから、ごゆっくり」
「ありがとう、飲み終わったらお店の『探検』もしていいかな」
「勿論。遭難しないように気をつけてくれれば」

 トレイを手に店番に戻る文也の後姿を見送って、景はほっと息をついた。
 昨日、高間教授の研究室を出た後。上の空で講義を受けながら、兄と文也の類似点にあらためて気がついた。
 同じ進学校に通う秀才であること。家業を継ぐことを望み、そのために努力していること。人と争ったことなどなさそうな穏やかな物腰。人当たりはいいのに何故か距離感を掴みかねる姿勢。そして縁の薄い両親との関係。
 最後のそれは、実継の場合自ら断ち切り、文也は運命に奪われたという大きな違いはあるが、いざという時に頼れる一番近しい存在がないという意味では同じだ。
 兄は、文也は、その胸の中にぽっかり開いた穴のような虚無感を抱えていないのだろうか。
 彼らの類似点は、端から見れば優等生的美点とも取れるが、そうあることを自分に課しながら、本当の自分との乖離に苦しんではいないだろうか。

 その考えは、接客用の笑顔をのせる前は人形のようだった少年の姿を思い出した時、すとんと心に落ちてきた。
 昨日文也と出会った時に抱いた感想、落ち着いて大人びているという印象は、そのまま失踪時高校生だった兄に重なる。対する自分は息苦しい家庭から逃れるために、羽目を外し両親に何度も注意されるような、無為で浮ついた高校時代を過ごした。叱られるということがなかった兄に比べ、やはり自分は劣った人間なのだと思っていた。
 しかし、高校生としての景は落ちこぼれというわけでもなく、羽目を外すといっても田舎町のこと、普通の高校生なら誰しも経験するような仲間内での背伸びした飲酒や、深夜のカラオケ程度のものだった。

 優等生として整いすぎた兄の方が、良くない意味で規格外だったのでは。
 だからこそ破綻して、失踪という最悪の選択肢を選ばざるを得なかったのでは。

 薄暗い古書肆に佇む人形のような少年から生じた連想は、思考という名の水面に落ちて、ゆらゆらとどこまでも広がる波紋になった。
 推測に過ぎないし、兄を理解できず失踪に追いやった罪悪感からの逃避と言われればその通りだと思う。しかし文也が時折見せる微笑みは、兄のそれにそっくりで、景の中にじわじわと効く毒のような不安を掻き立てる。
 やさしく透き通った笑顔。その奥の感情を窺い知ることを許さない。

 気のせいであるならば、それに越したことはない。
 それでも景は、この兄に似た雰囲気をまとう少年の側で、彼を見守ろうと決めていた。彼を知ることで、兄の心の闇に手が届くかもしれない。何か一つでも兄の失踪の経緯に答えを見つけなければ、兄に寄り掛かって両親の愛情を食い物にしていた、無為で愚かな自分と訣別することはできない。
 兄が『本当の自分』を持っていたのかもしれないと思い至るのに、五年半も掛かった自分の身勝手さに、景はコーヒーとともに苦い嗤いを飲み込んだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ハルとアキ

花町 シュガー
BL
『嗚呼、秘密よ。どうかもう少しだけ一緒に居させて……』 双子の兄、ハルの婚約者がどんな奴かを探るため、ハルのふりをして学園に入学するアキ。 しかし、その婚約者はとんでもない奴だった!? 「あんたにならハルをまかせてもいいかなって、そう思えたんだ。 だから、さよならが来るその時までは……偽りでいい。 〝俺〟を愛してーー どうか気づいて。お願い、気づかないで」 ---------------------------------------- 【目次】 ・本編(アキ編)〈俺様 × 訳あり〉 ・各キャラクターの今後について ・中編(イロハ編)〈包容力 × 元気〉 ・リクエスト編 ・番外編 ・中編(ハル編)〈ヤンデレ × ツンデレ〉 ・番外編 ---------------------------------------- *表紙絵:たまみたま様(@l0x0lm69) * ※ 笑いあり友情あり甘々ありの、切なめです。 ※心理描写を大切に書いてます。 ※イラスト・コメントお気軽にどうぞ♪

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

十七歳の心模様

須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない… ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん 柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、 葵は初めての恋に溺れていた。 付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。 告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、 その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。 ※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

絆の序曲

Guidepost
BL
これからもっと、君の音楽を聴かせて―― 片倉 灯(かたくら あかり)には夢があった。 それは音楽に携わる仕事に就くこと。 だが母子家庭であり小さな妹もいる。 だから夢は諦め安定した仕事につきたいと思っていた。 そんな灯の友人である永尾 柊(ながお ひいらぎ)とその兄である永尾 梓(ながお あずさ)の存在によって灯の人生は大きく変わることになる。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...