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1巻
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「――ご主人のことですが、明日から王女殿下の護衛として一月ほど外出します。王女の意向によっては期間が延びるかもしれません。王女殿下は政略結婚を覚悟しています。とはいえ結婚生活に夢見る年頃でもありますから、夫が妻を襲わせようとしていると聞いて、平常心ではいられません。むしろ嫌悪感しか抱かないでしょう。挙句に凌辱を浮気と言い張って追い出すなんて聞けば、自分の目の届かない場所に追いやるのは間違いありません。下手をすると姫だけではなく、王族全員の目に留まらない場所に左遷される可能性もあります。その後は二度と王宮に上がれなくなるでしょうね。王女殿下の護衛に抜擢されれば出世です。王子殿下の護衛よりは落ちるとはいえ、自ら道を潰すような真似はしないでしょう、大人しくなりますよ。もっとも一月もの間、王都を離れるので、動こうにも動きようがありませんがね。急なことだから事前に指示を出す暇もありません。王女殿下の滞在地には私の目が行き届くようにしてありますから、何かしでかしても先回りして阻止してみせますよ」
大司教は当たり前のように話したが、一介の聖職者や貴族ができる範疇を超えているのではと思う。さすが、王族より権力を持っていると噂されるオルグレン家の出身だけある。とても頼もしい味方だ。
「そういう訳で貴女との離縁のために動くことはしばらくできません。上官からも王女殿下の傍に侍っている間は、妻への当たりをもう少し考えるようにと忠告を受けることでしょう」
アーヴァインの心強い言葉に、知らずほっと息を吐く。
思っていた以上に、緊張していたのだと気付いた。
「ありがとうございます。ようやく希望の光が見えてきた気がします」
自分の想像以上に、夫が自分を毛嫌いしているのを理解した今、完全に日常が戻ったとは言いがたい。
でも考える時間は与えられた。
今はそれだけでも十分だった。
屋敷に戻った直後、帰宅したブレットと鉢合わせになった。外出したのが一目瞭然である。
「――!!」
こんなに早い帰宅なんて、何かあったのかしら?
反射的に身を強張らせる。嫌味を言われる程度なら平気だが、遅くまで遊び歩いた罰と称して暴力を振るわれることはよくある。
今日のところはブレットが普段以上に早い帰宅なだけで、エミリアはいつも通りの帰宅時間だ。
とはいえそんな理屈が通用する相手ではない。だが身構えたエミリアの横をブレットが素通りする。新年を迎えた夜会の後、初めて顔を合わせたが、拍子抜けするほどあっけなかった。
「ブレット様は明日より当面の間、留守にされます。その準備のためにお早い帰宅になったのでございましょう」
足を止めたエミリアに、執事がさり気なく事情を説明する。
本来、エミリアは奥様、ブレットは若旦那様と代替わりしていない主人の敬称で呼ばれるものだが、ブレットがエミリアを妻として頑なに拒絶しているため、執事以下すべての使用人が主人夫婦を名前で呼んでいる。体裁は悪いが、そう呼ばなければブレットの機嫌が悪くなるからだ。
――猊下の言う通りになったのね。
ブレットが一月もの間、家を留守にするというだけで気持ちが軽くなる。屋敷どころか王都にもいないのだ。解放感に思わず顔が綻んだ。
「良かったですね、エミリア様」
「ありがとう、本当に良かったわ」
テレーサの労いに小さく同意する。問題は解決しておらず先送りしただけだったが、アーヴァイン大司教が作ってくれた猶予を、有効活用する時間はできたのだ。
まだ自分は何を選択すれば良いのか、どういった未来を掴みたいのかわからないことだらけだったが、ひとまず落ち着くことだけはできた。
† † †
エミリアがアーヴァイン大司教から策を伝えられたのとほぼ同時刻――
ブレットは直属の上官から、大司教が語っていたほぼ同じ内容の命令と忠告を受けていた。
「カーティス、配置換えだ。明日よりアイヴィー殿下の護衛につけ。それと急な話であるが、殿下は明日よりサーレイ城に行かれる、同行しろ」
アイヴィー姫は国王陛下の次女にあたり、齢十五になる姫だ。王家の特徴である茶色の髪と、わずかに黄色がかった明るい緑の瞳を持つ、愛らしく国民から絶大な人気を誇る王女だ。
明日からの遠出に同行するのは急な話だ。公的な行事よりも少ない人員で構成される、私的な旅行に随伴するのは、自分が選ばれたということだろうと、ブレットは判断した。
「拝命します」
ブレットは敬礼しながら返答する。
努力した結果が出た……!
ブレットは自分が報われたのだと思った。
王太子殿下やその弟のイアン殿下の護衛ではないものの、直系王族の護衛である。一介の王宮警備担当の近衛騎士から、王族の側仕えに抜擢されたのは出世といえる。
「しかし――」
ブレットの興奮冷めやらぬところに、上官が言葉を続ける。
「お前に妙な噂が流れている」
身に覚えのないことに、ブレットは首を傾げる。
唯一あるとすれば、恋人であるカーラとのことだけだが、何人もの女と同時並行の関係を持っている訳でもなく、両者合意の上での大人の関係だ。人に後ろ指を指されるようなことではない。
「心当たりはありませんが……」
「本当に心当たりはないか? 夫婦間の話だ。妻との関係が上手くいっていないと聞いている」
妻という単語を聞いて、少しだけ納得した。
エミリアとの関係があまり良好でないことは、特に隠してはいないからだ。
「妻とは政略結婚です。結婚後に良好な関係を築く夫婦もありますが、そうでない夫婦も多いではありませんか。我が家もそうであるだけです」
「本当にそれだけか? 知るのはごく少数だろうが、悪い噂が流れているぞ。お前が妻を追い出す計画を立てていると」
上官は探るようにブレットを見る。隠し事があれば、全て暴いてやろうという目だ。
「何でも雇った男に妻を襲わせた挙句、不貞と称して屋敷から追い出すというものだが」
「……」
二人の間に微妙な空気が流れた。
上官の言葉は事実だ。
しかし自分と恋人のカーラと二人しか知らない秘密である。カーラは爵位を持つ男か、跡取り息子との結婚を望んでいる。親よりも年上だった夫の遺産を手にしたおかげで、生活には困らない。とはいえ王都の社交界を渡り歩くような、華やかな生活は望めない。貴族であることをやめたくないから、次男以下の爵位を望めない男との再婚は望んでいない。
ブレットは次期伯爵であるし、近衛騎士として王都で暮らしている。
自分はカーラの希望通りの男なのだ。
ブレットにとってもカーラは妻に望ましい。
彼女は豊満な肢体を持つ華やかな美女だ。元々自分は話術に富む艶やかな女を妻に望んでいる。抱き心地が良く、連れ歩くにも申し分がない女だった。
エミリアを襲えと命じた私家騎士も、上官の言う噂が事実であることを知ってはいる。だが、誰かに漏らすとは考えにくい。女主人を襲うような男というのは、護衛にとって致命的な噂だからだ。依頼を持ちかけられたというだけであってもだ。
「……身に覚えがありません」
「そうか」
上官は部下の言葉に納得したのかしていないのか、言葉を濁す。
「王女殿下は政略結婚をご納得されているとはいえ、結婚生活に夢を見たいお年頃であられる。たとえ初対面同士の夫婦であっても、優しくされ愛されることをご所望だ。惨めに打ちひしがれている妻を見るのが趣味という夫が、当たり前などと思いたくないのだ。ましてや気に入らない妻を叩き出すために凌辱して身ぐるみを剥ぐような唾棄すべき男など、見るのも御免だろう。お前は剣の腕は確かだし、見た目も良い。莫迦な真似をして出世を棒に振るようなことをせぬように」
国王夫妻の方針で、子供たちは全員、政略ではなく自分の選んだ相手と結婚する予定とはいえ、情勢によっては王子や王女本人が望まなくとも外交の駒として嫁ぐ可能性は残っている。事実、家臣からはアイヴィー姫を隣国に嫁がせる動きがあった。
ブレットが色気も何もない、自分を束縛する存在なだけの妻を追い出そうと考えたのは半年ほど前、しかもたった一度しか謀っていない。
計画とも呼べぬような、軽いものだ。
実際に行動したのは、見目の良い護衛を雇い、エミリアを誘惑しろと命令したことと、誘惑に乗らなければ籠って既成事実を作れと言ったことくらいだ。
何故、隊長が知っている……?
「怪訝そうだな。日頃からのお前の妻への態度と派手な女遊びを知っていれば、そんな噂の一つや二つは立って当然だ。離縁したいという話は一年以上前だ。身ぐるみを剥いで、できるだけ惨めな姿で追い出したいというのは少し前からだな。一番新しいものは、金で雇った男たちに妻を襲わせて浮気と称してその日のうちに叩き出すというものだ。目立つということは足を掬われることが多い。火のない所に煙を立てる、何なら火をつけさえする輩もいる。身に覚えがないのなら、一層、身を引き締めろ。しばらく王都を離れるから、噂が王女殿下の耳に入ることはない。同行するのは噂話などに動じない、確かな者で固めてある。お前はくれぐれも軽率な真似をして、出世の道を閉ざさないように気を付けておけ」
厳しい言葉だったが、同時に部下を思いやる優しさの籠った言葉だった。
実際、ブレットは優秀な騎士だった。見目の良さと剣の腕だけではなく、そこそこに頭の回転も速くて使える男だ。女性関係が華やかだと言っても、恋人が切れることなく常にいるというだけで、付き合うのは一度に一人だし別れ方も悪くない。唯一、妻に対する態度の悪さが、評判を下げているだけなのだ。妻は夫の所有物として見られることが多いとはいえ、大抵は親から大切にしろと教わるものではあるし、虐げる夫は少数だった。
ブレットが思っている以上に、彼は社交界で顰蹙を買っており、妻は同情されていることを、当事者である夫婦二人とその愛人だけが気付いていないのだった。
† † †
窓の外は寒凪の、外出には良い日和だった。
心が晴れやかだと、何もかもが輝いてみえるわ……
夫の居ぬ間に、どう行動したら良いのかと悩んでいたが、離縁を決意しない間は、そのまま日常生活を続けた方が良いとアーヴァイン大司教から言われた。何も知らないときと同じような生活を続ける自信はなかったが、案外なんとかなるものだった。
きっと夫がいないというのが良かったのだろう。
不安に苛まれたのは、たったの数日だけだった。夫の顔色を窺わないで済む日々は、とても心安らかで解放感に満ち満ちている。孤児院への慰問や聖堂への祈りに行く頻度は変わらないものの、告解室での愚痴は格段に減った。孤児院や女子修道院で売る物の中に、エミリアが趣味で刺した刺繍小物を混ぜているが、針の進みも早く、普段の倍以上の数の小物を仕上げられた。早速とばかり孤児院に行くと、子供たちから「良いことがあったのー?」などと聞かれる。そんなに浮かれているのかと思いながら使用人に「どうかしら?」と尋ねると「何も問題はありません」と返ってきた。
そんな充実した日々の中、お茶会への誘いが増えたのは、自然なことだったのかもしれない。
「お招きありがとう」
「よくいらしてくれたわ。冬の王都は人が少なくて困るもの」
主催者である夫人に挨拶をすると、にこやかに言葉が返ってくる。
久しぶりに招待されたお茶会は、同じ派閥の夫人の集まりだった。夜会などでもよく集まって一緒に話すことが多いので、さほど緊張はない。
これが違う派閥の夫人であれば人数合わせで呼んだとも取れる言葉ではあるが、夫人の人柄からすれば「お友だちが少ない上に、冬場は来てくださる方が減り過ぎて困っているの。来てくれてありがとう、とても助かるわ」くらいの気安い感謝の言葉だ。高度な腹芸が不要な集まりなので、エミリアとしてもお茶会そのものを楽しめて、気晴らしにちょうど良い。
暖炉に火がともる暖かな部屋の中で、砂糖漬けの果物を多く使った茶菓子と、少し甘めのお茶をいただく。寒い日には嬉しいもてなしだ。
「そういえば、エミリア様のご主人は王女殿下の護衛として、サーレイ城に行かれたのですって?」
「そうみたいですわね。あちらは王都よりも暖かいですから、過ごしやすいみたいです。滞在は半月の予定とのことでしたが、これからもっと寒くなりますし、一月か一月半くらいは向こうで過ごすかもしれませんわ」
にこりと笑いながら答える。
王女の行動は機密でも何でもないし、誰でも知っている内容だ。
そもそも夫がエミリアに機密に触れるような話をすることもない。まったく信用していないからだ。当初の予定では一か月の王都不在だった。往復の移動に半月と滞在に半月。
それがどうやら延びるらしいと知ったのは、アーヴァイン大司教経由だ。疎ましく思っている妻に、ブレットが予定の変更を伝えることはない。
「あちらは何もないとはいえ、過ごしやすいのは良いことですわ」
夫のことが話題になって少し緊張したが、すぐに王女が向かわれた地方の話になってほっとする。
「暖かい地方は開放的になりやすいですし、何もない方が気楽で良さそうですわね」
「そうでもないみたいですよ。最近では冬の間をずっと、あちらの別荘で過ごす方も増えているようですの。王都を離れて、夜会三昧なんて話もありますわ」
サーレイ城のある地方に関しては、温暖な風土だということしか知らない。元は療養目的で長期滞在する王族のためのものだったらしいが、今では避寒目的で冬場に利用されることが多い。王女は寒さが苦手なのか、ここ数年は毎冬滞在している。今回も同様に旅行を楽しんでいるのだろう。
その随行員の一人として、夫が選ばれたのは喜ばしい限りだ。
主に顔を合わせなくて済むという意味で。
「――そういえばエミリア様、最近少しふっくらとされましたわね?」
またエミリアが話題に上る。
「寒くて部屋にこもることが多いから、太ったのかしら?」
「いいえ、肌色が明るくてなんだか元気になられたみたい。以前が不健康そうという訳ではないのだけど……」
ドレスがキツいことはない。自分ではわからないが、友人たちは気付いたのだろうか?
「そうね、最近の流行が細身の女性とはいえ、エミリア様は少々細すぎたから、今くらいが良い感じなのではないかしら」
確かに自分は細いと自覚している。たおやかな柳腰が羨ましいと言われたことはない。女性的な優美さに欠けた貧弱な体形で、少々恥ずかしい。
「そうかしら? 自分ではあまり自覚はないのだけど……」
「綺麗になったわ」
「確かに綺麗になったと思うわ。大人の魅力が出てきたのかしら?」
そう言われると、恥ずかしさはそのままに、嬉しい気持ちが芽生えてくる。顔が火照るのを感じつつ、小さく礼を言った。
友人たちとの楽しいひと時を過ごし屋敷に戻る。結婚してからずっと帰宅が憂鬱だったが、今は何とも感じない。
それどころか今日の夕食を気にする余裕も出てきた。
やはりブレット様が居ないのは良いことだわ……
平民の間では「亭主元気で留守がいい」という言葉があるらしいが、まったくその通りだ。もうずっと帰ってこなくても良いのにという気持ちになる。
だが願いというのは長くは叶わないものだ。
「――!!」
居ないはずの夫を家の中で目撃して、くらりと目の前が暗くなった。
帰宅している……
一瞬にして楽しい気持ちが霧散する。
夢の時間は終わったのだわ。
自然と顔が強張るのがわかった。
落ち着いて……平常心で対応しなければ。
動揺を気取られないように注意を払いながら出迎えの言葉を口にする。
「おかえりなさいませ。長い間、お仕事お疲れ様でした」
強張った顔をできるだけ戻すことに注力する。口ごもりながらも挨拶を済ませると、以前のようにそそくさと自室に戻るべく足を動かした。
「どうしましょう? ブレット様がお戻りになったわ」
居室に戻るのと同時に、侍女のテレーサに相談する。
「落ち着いてくださいませ、エミリア様」
「でも……!」
焦る気持ちはなかなか落ち着かない。
「大丈夫ですよ」
動揺するエミリアに、侍女は優しい言葉で語りかけた。
「急ぎアーヴァイン大司教に連絡を取ります。ブレット様がアイヴィー殿下の護衛から外されたという情報は聞いておりません。立場が変わっていないのであれば、無体なことはできないでしょうから、焦る必要はありませんわ」
テレーサの言うことはもっともだ。年頃の姫の護衛であれば、妻に手を上げるなんてことはできない。
もし姫の耳に入れば、仕事を外されるのは想像に難くない。動揺からすぐにでも酷いことをされるのではと恐怖に震えたが、そんなはずはないと思い直した。
「焦り過ぎたわ……。もし今すぐ私をどうこうしようとしているのだったら、大司教が先回りしておしえてくれるはずだもの」
「猊下よりも頭が回る方を、私は知りません。ブレット様ごときが裏をかくなんて無理です」
主人に対するとは思えないテレーサの評価だったが納得してしまう。
夫の行動はきっと予測済だ。誰もがアーヴァイン大司教の掌で踊っているのだろう。
「お食事は部屋で摂られますか?」
「ええ、そうしてもらえるかしら」
侍女の気配りに感謝しながら、居室で摂ると返す。
だがその日、夕食が喉を通らなかった。
「エミリア様、夜分に失礼します」
テレーサが滑り込むように入室した。
「連絡があったのかしら?」
寝台に横たわっていたものの寝付けなかったエミリアは、扉が開く音で身体を起こした。
「ブレット様ですが、アイヴィー殿下付のままであり、今もエミリア様に無体なことはできないだろう、とのことです」
「そう……では大丈夫なのね」
ほっとして息を吐く。
† † †
知らず溜息が出そうになるのを慌てて止める。
馬車の中はエミリア一人ではない。ブレットも同席している中で溜息を吐けば、なんと言われるかわからなかった。
今夜はアイヴィー姫が帰還したことを祝う夜会だ。ただの避寒地からの帰還なのだから、大仰にする必要はまったくといってない。
だが多くの貴族が領地に戻っている季節、夜会や茶会などが少ない。娯楽が少ないために、国王が適当な理由を付けて夜会を開いたのだ。
娯楽、という理由以外にアイヴィー姫その人にも理由がある。王女は齢十五、そろそろ出会いがあっても良いだろうという国王の配慮だ。
この時代、女性は十代の間に結婚するのが普通だ。二十歳を過ぎれば行き遅れの誹りを受ける。貴族の婚姻は婚約期間から最短でも半年以上置くのが慣例だ。それなりに支度もあるため、実際には一、二年は式が先になる。逆算すれば十六、七歳くらいまでに婚約しなければ、十代のうちに結婚できない。
そんな訳で国王は娘が伴侶となる男と出会う機会をつくるべく、夜会を開くのだった。
エミリアは夫が満足するような、老婦人が着るような地味なドレスを身にまとった。夫に同伴するときの定番ドレスだ。
不在の間は年齢相応の明るい色の衣装を着る機会もあったが、当分は望めないだろう。小さく嘆息した。
馬車を降りてからは、夫の後ろについて王宮の広間に入る。会場入りと同時に、心得ているとばかりにそっと離れて隅の壁に移動する。
そこにはすでに友人たちが話に花を咲かせていた。
「ご主人、帰っていらしたのね」
エミリアの身なりを見て状況を察した夫人方は、それ以上のことを言わない優しさを見せた。
誰に聞かれても良いような当たり障りのない雑談をしながら、時間が過ぎるのをただひたすらに待つ。夫が帰ってきた途端、全てが色褪せて見えた。今までなら友人たちとの話に花を咲かせるくらいに楽しんでいたが、今夜はどことなく言葉が思考の上澄みをすくう感じでぼんやりと過ごしてしまう。
最初はそう悪いことでもないと思った。
大司教の計らいにより、夫がエミリアを普通の妻のように扱うなら、結婚を継続するのも悪くはないのだと。
だが顔を見てしまったら駄目だった。久しぶりに顔を見たあの日、ブレットの存在を意識した途端、嫌悪感に全身を支配されて気持ち悪くなった。
今日も夜会に参加するために乗った馬車の内で、いつも通りブレットとはできるだけ距離を取るように隅の方に身を寄せていたが、閉じ切った空間に二人きりだというだけで、気分は落ち込み頭痛を起こす有様だった。
「あちらでゆっくりとおしゃべりをしませんか?」
扇で指ししめされたところはソファ席だった。
若くて元気な参加者だけではなく、壮年を迎えた紳士や夫人もいる。座りながら談笑できる席だった。
「冬場のドレスの良い所は、皺になりにくいところね」
「夜会のドレスは少し肌寒くありますが、厚地なのが楽だわ」
柔らかな天鵞絨は、少々座ったところで皺になりにくい。最近はボリュームの少ないドレスが流行だから、多少はソファに深く腰掛けられるのも楽だった。
「あまりお行儀はよろしくないかもしれませんが、ここは皆で深く腰掛けて楽を致しませんか?」
「賛成ね、深く座った方が暖かいもの」
寒さを理由に仲良く皆で腰掛けているが、エミリアへの配慮だというのは一目瞭然だった。今まではどれほど寒い夜でも、誰もこんな提案をしなかったのだから。
さり気ない友人たちの気遣いに心の中で感謝する。気配り上手な友人たちが味方をしてくれるなら、もう少し頑張れそうだ。
† † †
夜会から数日後、友人から気分転換にと誘われたお茶会だった。大きな窓から入る日差しに、冬場とは思えないほど部屋は暖かだ。一時的ではあったが、友人との他愛ないおしゃべりは楽しく、憂鬱な気分が少し晴れる。
来て良かったわ……
貴族の友人がこれほど頼りになるなんて、思いも寄らなかった。ブレットが帰宅してから、誘いを受ける頻度が上がったのは、気のせいばかりではないだろう。無理がない程度の日程で、エミリアの得意な刺繍の会を開いてもらったり、珍しいお菓子をいただきながら異国の話を聞いたりと、趣向を変えマンネリ化しないように工夫した集まりは、気が紛れて沈みがちな気分を浮上させてくれる。
気持ちが落ち着いたらお礼をしなくては。手巾か、今の季節ならストールでも良いかしら?
薄手のものなら春先まで使えるもの。
友人たちへの贈り物のことを考えていると、憂鬱になりがちな帰り路も大丈夫だった。
だが馬車を降りて屋敷の前に立つと、どれほど気分が良くても気鬱になる。
やっぱり駄目ね。
夫を生理的に受け入れられなくなっている。
このまま結婚生活を続けられるのだろうか?
結婚して三年、エミリアは十六歳になった。
あと何十年もブレット様と暮らしていくのは難しい。
跡取りだって必要だ。恋人の絶えない夫のことだから、外で産ませた子を跡継ぎに据えるかもしれない。妻としては屈辱的だが、エミリアにとってはその方が気が楽でいい。あの夫と一つの寝台で夜を過ごすのは、耐えられそうにない。
こんな気持ちがずっと続くのなら、アーヴァイン大司教の言う通り、離縁することを前向きに検討した方が良いわね、きっと。
溜息を一つついて、屋敷に入った。
ブレットと顔を合わせる前にさっさと居室に入ろうと、足早にホールを抜け階段を上る。
大司教は当たり前のように話したが、一介の聖職者や貴族ができる範疇を超えているのではと思う。さすが、王族より権力を持っていると噂されるオルグレン家の出身だけある。とても頼もしい味方だ。
「そういう訳で貴女との離縁のために動くことはしばらくできません。上官からも王女殿下の傍に侍っている間は、妻への当たりをもう少し考えるようにと忠告を受けることでしょう」
アーヴァインの心強い言葉に、知らずほっと息を吐く。
思っていた以上に、緊張していたのだと気付いた。
「ありがとうございます。ようやく希望の光が見えてきた気がします」
自分の想像以上に、夫が自分を毛嫌いしているのを理解した今、完全に日常が戻ったとは言いがたい。
でも考える時間は与えられた。
今はそれだけでも十分だった。
屋敷に戻った直後、帰宅したブレットと鉢合わせになった。外出したのが一目瞭然である。
「――!!」
こんなに早い帰宅なんて、何かあったのかしら?
反射的に身を強張らせる。嫌味を言われる程度なら平気だが、遅くまで遊び歩いた罰と称して暴力を振るわれることはよくある。
今日のところはブレットが普段以上に早い帰宅なだけで、エミリアはいつも通りの帰宅時間だ。
とはいえそんな理屈が通用する相手ではない。だが身構えたエミリアの横をブレットが素通りする。新年を迎えた夜会の後、初めて顔を合わせたが、拍子抜けするほどあっけなかった。
「ブレット様は明日より当面の間、留守にされます。その準備のためにお早い帰宅になったのでございましょう」
足を止めたエミリアに、執事がさり気なく事情を説明する。
本来、エミリアは奥様、ブレットは若旦那様と代替わりしていない主人の敬称で呼ばれるものだが、ブレットがエミリアを妻として頑なに拒絶しているため、執事以下すべての使用人が主人夫婦を名前で呼んでいる。体裁は悪いが、そう呼ばなければブレットの機嫌が悪くなるからだ。
――猊下の言う通りになったのね。
ブレットが一月もの間、家を留守にするというだけで気持ちが軽くなる。屋敷どころか王都にもいないのだ。解放感に思わず顔が綻んだ。
「良かったですね、エミリア様」
「ありがとう、本当に良かったわ」
テレーサの労いに小さく同意する。問題は解決しておらず先送りしただけだったが、アーヴァイン大司教が作ってくれた猶予を、有効活用する時間はできたのだ。
まだ自分は何を選択すれば良いのか、どういった未来を掴みたいのかわからないことだらけだったが、ひとまず落ち着くことだけはできた。
† † †
エミリアがアーヴァイン大司教から策を伝えられたのとほぼ同時刻――
ブレットは直属の上官から、大司教が語っていたほぼ同じ内容の命令と忠告を受けていた。
「カーティス、配置換えだ。明日よりアイヴィー殿下の護衛につけ。それと急な話であるが、殿下は明日よりサーレイ城に行かれる、同行しろ」
アイヴィー姫は国王陛下の次女にあたり、齢十五になる姫だ。王家の特徴である茶色の髪と、わずかに黄色がかった明るい緑の瞳を持つ、愛らしく国民から絶大な人気を誇る王女だ。
明日からの遠出に同行するのは急な話だ。公的な行事よりも少ない人員で構成される、私的な旅行に随伴するのは、自分が選ばれたということだろうと、ブレットは判断した。
「拝命します」
ブレットは敬礼しながら返答する。
努力した結果が出た……!
ブレットは自分が報われたのだと思った。
王太子殿下やその弟のイアン殿下の護衛ではないものの、直系王族の護衛である。一介の王宮警備担当の近衛騎士から、王族の側仕えに抜擢されたのは出世といえる。
「しかし――」
ブレットの興奮冷めやらぬところに、上官が言葉を続ける。
「お前に妙な噂が流れている」
身に覚えのないことに、ブレットは首を傾げる。
唯一あるとすれば、恋人であるカーラとのことだけだが、何人もの女と同時並行の関係を持っている訳でもなく、両者合意の上での大人の関係だ。人に後ろ指を指されるようなことではない。
「心当たりはありませんが……」
「本当に心当たりはないか? 夫婦間の話だ。妻との関係が上手くいっていないと聞いている」
妻という単語を聞いて、少しだけ納得した。
エミリアとの関係があまり良好でないことは、特に隠してはいないからだ。
「妻とは政略結婚です。結婚後に良好な関係を築く夫婦もありますが、そうでない夫婦も多いではありませんか。我が家もそうであるだけです」
「本当にそれだけか? 知るのはごく少数だろうが、悪い噂が流れているぞ。お前が妻を追い出す計画を立てていると」
上官は探るようにブレットを見る。隠し事があれば、全て暴いてやろうという目だ。
「何でも雇った男に妻を襲わせた挙句、不貞と称して屋敷から追い出すというものだが」
「……」
二人の間に微妙な空気が流れた。
上官の言葉は事実だ。
しかし自分と恋人のカーラと二人しか知らない秘密である。カーラは爵位を持つ男か、跡取り息子との結婚を望んでいる。親よりも年上だった夫の遺産を手にしたおかげで、生活には困らない。とはいえ王都の社交界を渡り歩くような、華やかな生活は望めない。貴族であることをやめたくないから、次男以下の爵位を望めない男との再婚は望んでいない。
ブレットは次期伯爵であるし、近衛騎士として王都で暮らしている。
自分はカーラの希望通りの男なのだ。
ブレットにとってもカーラは妻に望ましい。
彼女は豊満な肢体を持つ華やかな美女だ。元々自分は話術に富む艶やかな女を妻に望んでいる。抱き心地が良く、連れ歩くにも申し分がない女だった。
エミリアを襲えと命じた私家騎士も、上官の言う噂が事実であることを知ってはいる。だが、誰かに漏らすとは考えにくい。女主人を襲うような男というのは、護衛にとって致命的な噂だからだ。依頼を持ちかけられたというだけであってもだ。
「……身に覚えがありません」
「そうか」
上官は部下の言葉に納得したのかしていないのか、言葉を濁す。
「王女殿下は政略結婚をご納得されているとはいえ、結婚生活に夢を見たいお年頃であられる。たとえ初対面同士の夫婦であっても、優しくされ愛されることをご所望だ。惨めに打ちひしがれている妻を見るのが趣味という夫が、当たり前などと思いたくないのだ。ましてや気に入らない妻を叩き出すために凌辱して身ぐるみを剥ぐような唾棄すべき男など、見るのも御免だろう。お前は剣の腕は確かだし、見た目も良い。莫迦な真似をして出世を棒に振るようなことをせぬように」
国王夫妻の方針で、子供たちは全員、政略ではなく自分の選んだ相手と結婚する予定とはいえ、情勢によっては王子や王女本人が望まなくとも外交の駒として嫁ぐ可能性は残っている。事実、家臣からはアイヴィー姫を隣国に嫁がせる動きがあった。
ブレットが色気も何もない、自分を束縛する存在なだけの妻を追い出そうと考えたのは半年ほど前、しかもたった一度しか謀っていない。
計画とも呼べぬような、軽いものだ。
実際に行動したのは、見目の良い護衛を雇い、エミリアを誘惑しろと命令したことと、誘惑に乗らなければ籠って既成事実を作れと言ったことくらいだ。
何故、隊長が知っている……?
「怪訝そうだな。日頃からのお前の妻への態度と派手な女遊びを知っていれば、そんな噂の一つや二つは立って当然だ。離縁したいという話は一年以上前だ。身ぐるみを剥いで、できるだけ惨めな姿で追い出したいというのは少し前からだな。一番新しいものは、金で雇った男たちに妻を襲わせて浮気と称してその日のうちに叩き出すというものだ。目立つということは足を掬われることが多い。火のない所に煙を立てる、何なら火をつけさえする輩もいる。身に覚えがないのなら、一層、身を引き締めろ。しばらく王都を離れるから、噂が王女殿下の耳に入ることはない。同行するのは噂話などに動じない、確かな者で固めてある。お前はくれぐれも軽率な真似をして、出世の道を閉ざさないように気を付けておけ」
厳しい言葉だったが、同時に部下を思いやる優しさの籠った言葉だった。
実際、ブレットは優秀な騎士だった。見目の良さと剣の腕だけではなく、そこそこに頭の回転も速くて使える男だ。女性関係が華やかだと言っても、恋人が切れることなく常にいるというだけで、付き合うのは一度に一人だし別れ方も悪くない。唯一、妻に対する態度の悪さが、評判を下げているだけなのだ。妻は夫の所有物として見られることが多いとはいえ、大抵は親から大切にしろと教わるものではあるし、虐げる夫は少数だった。
ブレットが思っている以上に、彼は社交界で顰蹙を買っており、妻は同情されていることを、当事者である夫婦二人とその愛人だけが気付いていないのだった。
† † †
窓の外は寒凪の、外出には良い日和だった。
心が晴れやかだと、何もかもが輝いてみえるわ……
夫の居ぬ間に、どう行動したら良いのかと悩んでいたが、離縁を決意しない間は、そのまま日常生活を続けた方が良いとアーヴァイン大司教から言われた。何も知らないときと同じような生活を続ける自信はなかったが、案外なんとかなるものだった。
きっと夫がいないというのが良かったのだろう。
不安に苛まれたのは、たったの数日だけだった。夫の顔色を窺わないで済む日々は、とても心安らかで解放感に満ち満ちている。孤児院への慰問や聖堂への祈りに行く頻度は変わらないものの、告解室での愚痴は格段に減った。孤児院や女子修道院で売る物の中に、エミリアが趣味で刺した刺繍小物を混ぜているが、針の進みも早く、普段の倍以上の数の小物を仕上げられた。早速とばかり孤児院に行くと、子供たちから「良いことがあったのー?」などと聞かれる。そんなに浮かれているのかと思いながら使用人に「どうかしら?」と尋ねると「何も問題はありません」と返ってきた。
そんな充実した日々の中、お茶会への誘いが増えたのは、自然なことだったのかもしれない。
「お招きありがとう」
「よくいらしてくれたわ。冬の王都は人が少なくて困るもの」
主催者である夫人に挨拶をすると、にこやかに言葉が返ってくる。
久しぶりに招待されたお茶会は、同じ派閥の夫人の集まりだった。夜会などでもよく集まって一緒に話すことが多いので、さほど緊張はない。
これが違う派閥の夫人であれば人数合わせで呼んだとも取れる言葉ではあるが、夫人の人柄からすれば「お友だちが少ない上に、冬場は来てくださる方が減り過ぎて困っているの。来てくれてありがとう、とても助かるわ」くらいの気安い感謝の言葉だ。高度な腹芸が不要な集まりなので、エミリアとしてもお茶会そのものを楽しめて、気晴らしにちょうど良い。
暖炉に火がともる暖かな部屋の中で、砂糖漬けの果物を多く使った茶菓子と、少し甘めのお茶をいただく。寒い日には嬉しいもてなしだ。
「そういえば、エミリア様のご主人は王女殿下の護衛として、サーレイ城に行かれたのですって?」
「そうみたいですわね。あちらは王都よりも暖かいですから、過ごしやすいみたいです。滞在は半月の予定とのことでしたが、これからもっと寒くなりますし、一月か一月半くらいは向こうで過ごすかもしれませんわ」
にこりと笑いながら答える。
王女の行動は機密でも何でもないし、誰でも知っている内容だ。
そもそも夫がエミリアに機密に触れるような話をすることもない。まったく信用していないからだ。当初の予定では一か月の王都不在だった。往復の移動に半月と滞在に半月。
それがどうやら延びるらしいと知ったのは、アーヴァイン大司教経由だ。疎ましく思っている妻に、ブレットが予定の変更を伝えることはない。
「あちらは何もないとはいえ、過ごしやすいのは良いことですわ」
夫のことが話題になって少し緊張したが、すぐに王女が向かわれた地方の話になってほっとする。
「暖かい地方は開放的になりやすいですし、何もない方が気楽で良さそうですわね」
「そうでもないみたいですよ。最近では冬の間をずっと、あちらの別荘で過ごす方も増えているようですの。王都を離れて、夜会三昧なんて話もありますわ」
サーレイ城のある地方に関しては、温暖な風土だということしか知らない。元は療養目的で長期滞在する王族のためのものだったらしいが、今では避寒目的で冬場に利用されることが多い。王女は寒さが苦手なのか、ここ数年は毎冬滞在している。今回も同様に旅行を楽しんでいるのだろう。
その随行員の一人として、夫が選ばれたのは喜ばしい限りだ。
主に顔を合わせなくて済むという意味で。
「――そういえばエミリア様、最近少しふっくらとされましたわね?」
またエミリアが話題に上る。
「寒くて部屋にこもることが多いから、太ったのかしら?」
「いいえ、肌色が明るくてなんだか元気になられたみたい。以前が不健康そうという訳ではないのだけど……」
ドレスがキツいことはない。自分ではわからないが、友人たちは気付いたのだろうか?
「そうね、最近の流行が細身の女性とはいえ、エミリア様は少々細すぎたから、今くらいが良い感じなのではないかしら」
確かに自分は細いと自覚している。たおやかな柳腰が羨ましいと言われたことはない。女性的な優美さに欠けた貧弱な体形で、少々恥ずかしい。
「そうかしら? 自分ではあまり自覚はないのだけど……」
「綺麗になったわ」
「確かに綺麗になったと思うわ。大人の魅力が出てきたのかしら?」
そう言われると、恥ずかしさはそのままに、嬉しい気持ちが芽生えてくる。顔が火照るのを感じつつ、小さく礼を言った。
友人たちとの楽しいひと時を過ごし屋敷に戻る。結婚してからずっと帰宅が憂鬱だったが、今は何とも感じない。
それどころか今日の夕食を気にする余裕も出てきた。
やはりブレット様が居ないのは良いことだわ……
平民の間では「亭主元気で留守がいい」という言葉があるらしいが、まったくその通りだ。もうずっと帰ってこなくても良いのにという気持ちになる。
だが願いというのは長くは叶わないものだ。
「――!!」
居ないはずの夫を家の中で目撃して、くらりと目の前が暗くなった。
帰宅している……
一瞬にして楽しい気持ちが霧散する。
夢の時間は終わったのだわ。
自然と顔が強張るのがわかった。
落ち着いて……平常心で対応しなければ。
動揺を気取られないように注意を払いながら出迎えの言葉を口にする。
「おかえりなさいませ。長い間、お仕事お疲れ様でした」
強張った顔をできるだけ戻すことに注力する。口ごもりながらも挨拶を済ませると、以前のようにそそくさと自室に戻るべく足を動かした。
「どうしましょう? ブレット様がお戻りになったわ」
居室に戻るのと同時に、侍女のテレーサに相談する。
「落ち着いてくださいませ、エミリア様」
「でも……!」
焦る気持ちはなかなか落ち着かない。
「大丈夫ですよ」
動揺するエミリアに、侍女は優しい言葉で語りかけた。
「急ぎアーヴァイン大司教に連絡を取ります。ブレット様がアイヴィー殿下の護衛から外されたという情報は聞いておりません。立場が変わっていないのであれば、無体なことはできないでしょうから、焦る必要はありませんわ」
テレーサの言うことはもっともだ。年頃の姫の護衛であれば、妻に手を上げるなんてことはできない。
もし姫の耳に入れば、仕事を外されるのは想像に難くない。動揺からすぐにでも酷いことをされるのではと恐怖に震えたが、そんなはずはないと思い直した。
「焦り過ぎたわ……。もし今すぐ私をどうこうしようとしているのだったら、大司教が先回りしておしえてくれるはずだもの」
「猊下よりも頭が回る方を、私は知りません。ブレット様ごときが裏をかくなんて無理です」
主人に対するとは思えないテレーサの評価だったが納得してしまう。
夫の行動はきっと予測済だ。誰もがアーヴァイン大司教の掌で踊っているのだろう。
「お食事は部屋で摂られますか?」
「ええ、そうしてもらえるかしら」
侍女の気配りに感謝しながら、居室で摂ると返す。
だがその日、夕食が喉を通らなかった。
「エミリア様、夜分に失礼します」
テレーサが滑り込むように入室した。
「連絡があったのかしら?」
寝台に横たわっていたものの寝付けなかったエミリアは、扉が開く音で身体を起こした。
「ブレット様ですが、アイヴィー殿下付のままであり、今もエミリア様に無体なことはできないだろう、とのことです」
「そう……では大丈夫なのね」
ほっとして息を吐く。
† † †
知らず溜息が出そうになるのを慌てて止める。
馬車の中はエミリア一人ではない。ブレットも同席している中で溜息を吐けば、なんと言われるかわからなかった。
今夜はアイヴィー姫が帰還したことを祝う夜会だ。ただの避寒地からの帰還なのだから、大仰にする必要はまったくといってない。
だが多くの貴族が領地に戻っている季節、夜会や茶会などが少ない。娯楽が少ないために、国王が適当な理由を付けて夜会を開いたのだ。
娯楽、という理由以外にアイヴィー姫その人にも理由がある。王女は齢十五、そろそろ出会いがあっても良いだろうという国王の配慮だ。
この時代、女性は十代の間に結婚するのが普通だ。二十歳を過ぎれば行き遅れの誹りを受ける。貴族の婚姻は婚約期間から最短でも半年以上置くのが慣例だ。それなりに支度もあるため、実際には一、二年は式が先になる。逆算すれば十六、七歳くらいまでに婚約しなければ、十代のうちに結婚できない。
そんな訳で国王は娘が伴侶となる男と出会う機会をつくるべく、夜会を開くのだった。
エミリアは夫が満足するような、老婦人が着るような地味なドレスを身にまとった。夫に同伴するときの定番ドレスだ。
不在の間は年齢相応の明るい色の衣装を着る機会もあったが、当分は望めないだろう。小さく嘆息した。
馬車を降りてからは、夫の後ろについて王宮の広間に入る。会場入りと同時に、心得ているとばかりにそっと離れて隅の壁に移動する。
そこにはすでに友人たちが話に花を咲かせていた。
「ご主人、帰っていらしたのね」
エミリアの身なりを見て状況を察した夫人方は、それ以上のことを言わない優しさを見せた。
誰に聞かれても良いような当たり障りのない雑談をしながら、時間が過ぎるのをただひたすらに待つ。夫が帰ってきた途端、全てが色褪せて見えた。今までなら友人たちとの話に花を咲かせるくらいに楽しんでいたが、今夜はどことなく言葉が思考の上澄みをすくう感じでぼんやりと過ごしてしまう。
最初はそう悪いことでもないと思った。
大司教の計らいにより、夫がエミリアを普通の妻のように扱うなら、結婚を継続するのも悪くはないのだと。
だが顔を見てしまったら駄目だった。久しぶりに顔を見たあの日、ブレットの存在を意識した途端、嫌悪感に全身を支配されて気持ち悪くなった。
今日も夜会に参加するために乗った馬車の内で、いつも通りブレットとはできるだけ距離を取るように隅の方に身を寄せていたが、閉じ切った空間に二人きりだというだけで、気分は落ち込み頭痛を起こす有様だった。
「あちらでゆっくりとおしゃべりをしませんか?」
扇で指ししめされたところはソファ席だった。
若くて元気な参加者だけではなく、壮年を迎えた紳士や夫人もいる。座りながら談笑できる席だった。
「冬場のドレスの良い所は、皺になりにくいところね」
「夜会のドレスは少し肌寒くありますが、厚地なのが楽だわ」
柔らかな天鵞絨は、少々座ったところで皺になりにくい。最近はボリュームの少ないドレスが流行だから、多少はソファに深く腰掛けられるのも楽だった。
「あまりお行儀はよろしくないかもしれませんが、ここは皆で深く腰掛けて楽を致しませんか?」
「賛成ね、深く座った方が暖かいもの」
寒さを理由に仲良く皆で腰掛けているが、エミリアへの配慮だというのは一目瞭然だった。今まではどれほど寒い夜でも、誰もこんな提案をしなかったのだから。
さり気ない友人たちの気遣いに心の中で感謝する。気配り上手な友人たちが味方をしてくれるなら、もう少し頑張れそうだ。
† † †
夜会から数日後、友人から気分転換にと誘われたお茶会だった。大きな窓から入る日差しに、冬場とは思えないほど部屋は暖かだ。一時的ではあったが、友人との他愛ないおしゃべりは楽しく、憂鬱な気分が少し晴れる。
来て良かったわ……
貴族の友人がこれほど頼りになるなんて、思いも寄らなかった。ブレットが帰宅してから、誘いを受ける頻度が上がったのは、気のせいばかりではないだろう。無理がない程度の日程で、エミリアの得意な刺繍の会を開いてもらったり、珍しいお菓子をいただきながら異国の話を聞いたりと、趣向を変えマンネリ化しないように工夫した集まりは、気が紛れて沈みがちな気分を浮上させてくれる。
気持ちが落ち着いたらお礼をしなくては。手巾か、今の季節ならストールでも良いかしら?
薄手のものなら春先まで使えるもの。
友人たちへの贈り物のことを考えていると、憂鬱になりがちな帰り路も大丈夫だった。
だが馬車を降りて屋敷の前に立つと、どれほど気分が良くても気鬱になる。
やっぱり駄目ね。
夫を生理的に受け入れられなくなっている。
このまま結婚生活を続けられるのだろうか?
結婚して三年、エミリアは十六歳になった。
あと何十年もブレット様と暮らしていくのは難しい。
跡取りだって必要だ。恋人の絶えない夫のことだから、外で産ませた子を跡継ぎに据えるかもしれない。妻としては屈辱的だが、エミリアにとってはその方が気が楽でいい。あの夫と一つの寝台で夜を過ごすのは、耐えられそうにない。
こんな気持ちがずっと続くのなら、アーヴァイン大司教の言う通り、離縁することを前向きに検討した方が良いわね、きっと。
溜息を一つついて、屋敷に入った。
ブレットと顔を合わせる前にさっさと居室に入ろうと、足早にホールを抜け階段を上る。
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