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授かりもの顛末
御新造と御新造 其の二
しおりを挟む婿入りを直前でご破算にする、などという大それたことを、あのぼんやりした男に決心させた娘。
山の出でありながら、読み書きそろばん、筆も達者。水天宮のおふくに気にいられ、口がきけずともかまわぬと、手ずから教えを受けた者。
ずっと興味があったのだ。
胡桃堂の嫁とは、どんな人間だろうかと。
「あたしは成鐘屋のお久美さ、あんたの旦那に袖にされた元許婚だよ」
お久美の名乗りに、胡桃堂の女将は目をいっぱいに見開いた。こちらを見上げ驚きを露わにしている。なんとも無防備で幼げな顔だ。
(―――うん、可愛いねェ)
人妻に可愛いも何もないものだが、こう、何というか、頬のひとつもつついてかまってやりたくなる相手である。
もう臨月が近いという腹は、小柄な身に不釣り合いなほど大きい。その身にもたたずまいにも、愛される者の幸福がにじみ出ているようだった。
まあ、子宝こそないが、幸せなのはあたしも負けちゃいないね、とお久美は心の中で呟き胸を張る。
そう、お久美も人妻。見合いで知り合った夫とは、今では相思相愛の仲なのだから―――。
◇
材木問屋・成鐘屋は、焼け太り、成金と陰口を叩かれる店だ。火事に乗じて手広く商い、店を大きくした成り上がりである。
新参者ゆえ仕事は選ばず、お高くとまった同業者達が眉をひそめるような商売もする。もっともっと店を大きくして、大きな商いを、という意欲と勢いだけは人一倍の店だ。
お久美はそんな成鐘屋の一人娘だ。母は早くに亡くなって、父に溺愛されて育った。
溺愛といっても、甘やかされて育った訳ではない。ただ、どこへ行くにも一緒だった。父は幼いお久美を背中に負ぶい、木場だろうがどこだろうと出掛けていったし仕事をした。
材木の商いは男の世界だ。腕っぷし自慢の人足たちを束ね、商売相手と丁々発止のやりとりをする。
お久美は父の背中からその仕事を眺め、商売を覚えていった。
「おめぇはほんとに、根っからの商売人だなァ、お久美よ。さすが俺の子だ!」
そう言って、父はお久美が商売に関わることを喜んだ。女らしくしろ、とか、女が商売なんて、という言葉を、お久美は親から一度も聞いたためしがない。お久美の気の強さも商才も、何もかもを父は大事にしてくれた。
お久美はそのまま婿を取って、今と変わらず商売に精を出すつもりだった。自分が店に口を出すことを、嫌がらない婿なら誰でもよかった。そうして、お久美が年頃になったとき、父はあの話を持ってきたのだ。
材木問屋・大世渡屋の三男坊との見合い話を。
大世渡屋は、この湊町でそこそこの大きさの材木問屋。歴史は古く、お上の役に立ち世渡の姓を頂いた、商人仲間では格の高い家だ。
そして何より、お久美にとって重要なのは、この店の先代が水天宮のおふくとその夫だ、ということだった。
お久美と同じく材木問屋の一人娘であったおふくは、女だてらに店を切り盛りした、この湊町で知らぬものがいない女商人だ。
古くからある店ゆえに、得意先も身分が高く、注文も難しい。それを軽々さばいていたという彼女は、密かにお久美の憧れであった。店を引退した今も、商売仲間と手広く稼いでいるのだから恐れ入る。
婿が、おふくとその商才を愛し、自分は一歩後ろに控えておふくを支えた、というのもいい。彼の口癖――「お前さんはすごいねえ。商売の女神様だよ、弁天様だ」が、水天宮のおふく、という彼女の二つ名になったというのは有名な話である。
憧れのひとと親族になれる―――。
そんなときめきを胸に挑んだ見合い。
「ええと、はじめまして。大世渡屋の三男、足と申します」
困ったように笑った相手は、生きてるのか死んでるのかわからないような、気配の薄い冴えない男だった。
◇
甘味処の机の前で仁王立ちし、お久美はにんまりと笑みを浮かべてみせた。
「あんたと話してみたいと思ってたのさ。お冬も奉公人同士、こっちの子と話すことあるだろ。奥でふたりで葛餅食べてな」
「へえ」
供の娘にあごで店の奥を示せば、娘はお久美の望みを叶えるため、相手の供の腕を無造作に掴んだ。無理矢理立たせ、奥へ引っ張っていく。
「ささ、参りましょ」
「えっ、そんな、私、奥様の側にっ、ああっ、おくさまぁー!」
相手の供の娘は、今生の別れのごとく胡桃堂の女将へ手を伸ばし、ずるずる引きずられていく。
「別に取って食やしないよ」
ここでどうこうする気などない、心配無用である。お久美は鼻で笑い、先程までおたえの座っていた席へ腰掛ける。
「女将! ここに蜜白玉ふたつ、あの子たちに葛餅ね」
「はっ、はい、ただ今」
お盆を抱いて、こちらをはらはらと見ていた甘味処の女将が、慌てて中へ入っていく。この界隈は古くからある店が多く、新参者の成鐘屋よりも、大世渡屋やその縁者の肩を持つものが多い。
大工小路からむこうなら、成鐘屋のひいきが多くいるのだが。
「それで、あんた名前はくるみだったっけ?」
こちらを一心に見つめていた胡桃堂の女将は、我に返って頷いた。そのまま今度は机に両手をついて、ペコペコ頭を下げる。ごめんなさい、ごめんなさいと、謝罪の言葉さえ聞こえてきそうな謝り方だ。
まあ確かに、お久美は目の前の女に、婿を取られた形だが。
「あんたコメツキバッタかい? 頭なんか下げなくったっていいよ。あたしはあんたに感心してるんだ」
え、と目を見開く顔に笑いかけてやる。
「あんた、随分なあげまんさね、あやかりたいくらいだよ」
あげまん、の意味が分からなかったか、くるみは小さく首をかしげた。かまととぶっている様子もない。
こういう世慣れないところが、男どもには堪らないのかねえ? とお久美は思う。商売人が世慣れていないなど、普通ならあり得ない話だ。だが、町中とは無縁の山の出、そういうこともあるだろう。
「あんたの旦那、足はね、婿になる奴だって紹介されたとき、薄ぼんやりした覇気のない奴だったのさ。こんなのがうちの店に来てやってけるのかって思ったもんだよ」
見合の席であんまり驚いたお久美は、ろくでもないものを掴まされたかと、後日自分で足のことを調べた。
銘木の検分が得意で、山に足繁く通っている。下働きの者達から慕われている。そしてどうやら、商売を厭うている男らしいとわかった。
婿には都合がよくとも、商売人としてはあまり褒められた者ではない。それが当時のお久美の感想だった。
「材木問屋の息子ではあるけれど、とても商売人として動ける奴とは思えなかった。そんな奴が、今じゃひとかどの商人だ。小さいながらも新しく店をはじめて、うまくいってる。あたしの所へ婿に来てたら、生きてるか死んでるかわかんないままだったろうさ!」
流されるばかりの男と見えた。こちらが断ることがあっても、断られたりしないだろう、と高をくくっていたお久美である。祝言間近に断られ仰天した。
誰でもいいと思っていた婿だから、驚いても悲しいとは思わなかった。女の評判に傷うんぬんも気にならず、むしろ、同情顔であれこれ言う輩を鼻で笑っていたくらいだ。
ただ、騒動の中で、尊敬するおふくが成鐘屋の商売を嫌っていたと知って、少し寂しい気がした。
それだけだ。
収まらなかったのは父である。
新参者の成り上がりだからと軽く扱われ、愛娘まで馬鹿にされた、と怒り狂い、大世渡屋に無体なほどの償いを要求した。
悪いのは先方でも、要求が過ぎればこちらの株を落とす。
当時、お久美は父をなだめるのに必死で、裏で足が店へ謝罪に来ては、塩だの水だのをかけられ追い返されているとは知らずにいた。
まあ、知ったところで放っておいたかもしれない。
あの、ぼんやりした男に祝言の取りやめなどという大胆なことをさせ、厭うていた商売へ精を出させた。
自分にはできなかっただろうことをしてのけた相手に、お久美は敬意を込めて呼びかける。
「男は女で変わるもんだっていうけど、こうも変わられちゃ文句も出ない。あんた、いい女だねぇ」
くるみは真っ赤になって、とんでもないと両手や首をぶんぶん振る。
(―――やっぱり可愛い)
お久美は、赤く染まった目の前の頬をつつきたがる、自分の指をおさえるのにずいぶんと苦労した。
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