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春風小路二番町胡桃堂こぼれ話
旦那と童女 其の三
しおりを挟む吹きさらしの川辺、小舟の上で、大の男がふたり号泣である。
目立つ。
戻ってきた手代のひろ吉は目を丸くし、後から来た渡し守は怪訝そうな顔をした。それでも泣くふたりは気にも留めない。
すぐ側の童女は、膝を抱えおとなしい。気配さえ感じさせないほど静かとは、この年頃には異様だった。
足は涙でぐしょぐしょの顔を手ぬぐいで拭き、ついでにちーん、と鼻をかんで息をつく。そうして、ぐいぐいと手で顔をこすっている痩せた男へ向き直った。
「……それでもね、親父さん。話を聞いた上で言うけれど、やめておいた方がいい」
痩せた男が手を止める。その顔が険しいものに変わった。
「いや、人を売り買いするもんじゃないとか、この娘さんが可哀想だからとか、親父さんへ説教する気は毛頭ないんだ。そんな偉そうな事が言いたいんじゃない。そうじゃあなくてね」
どう説明したものか。
手元を見て、天を仰いで、しばらく言葉を探してから足は言った。
「ぼんやりしている俺にまで、悪い噂が届くような店だ。親父さん、悪いことは言わない。その店だけはやめたがいいよ」
◇
渡し場の辺りには旅人相手に商う茶屋が立ち並んでいる。
もっと話したい、と足はそのひとつに皆を連れて入った。
くるみの元へ早く帰りたいのは山々だが、こんな話を聞いて放っておけるほど、足の精神は図太くない。
早く帰るべく渡し守と交渉してくれたひろ吉には、悪いことをした。しかし彼は謝る足へ「お気になさらず」と穏やかに応じた。「川風に冷えた体に、熱い茶はありがたいですねえ」と笑った顔に、大世渡屋で小僧をしていたときの心細そうな面影はすでにない。
いい青年に育ったものだ。
過ぎる年月のはやさを思わずにはいられない足である。
ゆっくり話せるように奥の席へ座り、川風で冷えたからと皆に熱い茶を、童女にはぜんざいも頼んだ。与えた飴を無言で食べていたし、この子は甘いものを嫌いではないだろう、と見越してのことである。
痩せこけて、痛々しいほどちっぽけな娘だ。
「さ、冷めないうちにお食べ。甘くて美味しいよ。ね?」
足の隣に座った童女は、ぜんざいを見て、足を見て、男を見て、そうしてようやくそろそろと甘味へ手を付けた。
売られていくという、年の頃は十もいかないだろうその娘の、遠慮がちな様子がなんとも哀れで、足はきゅっと口を引き結んだ。
どうしてこの子が売られていくのかは、先ほど舟の上で号泣しながら聞いた話で、あらかた理解できている。
数年前に流行った病は、方々に爪痕を残した。座敷童であるくるみがいた隠れ里もそうだ。そして、男の住む山向こうの集落も、多くの働き手が命を落としたのだという。
生活は苦しくなるが、それでも、皆で残された子どもたちを育てていこうと誓い合い、彼らはなんとか今までやってきていた。頑張ればそのうちにきっと、生活も楽になる、という、儚い希望を持ちながら。
しかし生活は簡単には楽にならず、無理は積もり積もって皆の暮らしを蝕んでいった。
「もう、保たねえんだ」
伝兵衛と名乗った男は、子どもを挟んで足の隣に座り湯呑みを見つめながらぽつりと呟く。この男は童女の叔父にあたるらしい。兄夫婦が亡くなってから、代わりに育ててきたという。
「今、この時期にかい? 娘ごを売るってのは普通、刈り入れの後、年貢を納める頃だろう? 女衒もその頃に合わせてあちこち巡っていると聞いたよ」
年貢が納められなくて、借りたものが返せなくて、秋の終わりから冬にかけて、女衒へ娘を売る農民が出るのだ。こんな梅雨前の時期には珍しい。
「それは」
足の疑問を受け、躊躇いがちに口を挟んだのはひろ吉だった。
「霜ですね」
「霜?」
「今年は、田植えが終わった時期に、急に冷えて霜が降りた日がありましたでしょう? たぶん、こちらの方のお里は、その害が大きいものだったのでは……」
ひろ吉の言葉に、伝兵衛は弱々しく頷く。
「植えた苗が霜にやられて枯れた。残ったものも葉が白くなっちまった。まともに育たんだろう。俺たちは百姓だ、たとえ実らねえのが判っていても、田んぼ仕事をせにゃならん。でももう、集落の皆の気が保たねえんだ……」
男は黙々とぜんざいを食べる姪から顔をそむけ、自分に言い聞かせるように続けた。
「あんたはわかるか? 今年の米が不作になる、来年にはきっと飢えに苦しむと判っていながら、望みのない田んぼ仕事をする気持ちが。せめて少しでも金や蓄えがありゃあ、来年のことに怯えずに済むんだ」
だから、姪を売って、皆が飢えないようにする。
言葉こそ口にされなかったが、重苦しい沈黙がそう語っていた。
伝兵衛のところにも子どもがいるという。裕福ではない中、懸命に姪も養ってきたのだろう。大事にしてきたからこその、舟の上でのあの嘆きや涙ではないかと足は思う。
きっと、おのれの家だけの苦しみなら、この男は姪を売ろうとしなかっただろう。集落の皆の苦しみが、来年くるはずの飢えがあったから、決心したのだ。
「それでもね、親父さん」
なればなおさら、見過ごせない。
「さっきも言ったけど、やっぱりその店はよくないよ。いくらで買うとか、覚え書きはあるかい」
「覚え書きはない。ただ、いくら出せるかは言っていた」
その値段を聞いて、足はひろ吉と顔を見合わせる。
「前払いの年季奉公として考えるなら高いけど……」
「女郎屋への身売りであれば、かなり安いです。しかも口約束だ。たぶん、買い叩かれてもっと安くなるでしょう」
「なんだって」
「自腹を切ってでも湊町へ売りに来るほど、切羽詰まっている。となれば足元を見られるでしょうね」
「しかも評判の悪い店だよ」
元々色町で遊ぶのが苦手だった足だ、くるみと一緒になってからは一度も行っていない。そんな自分へも悪評が届くような店なのだ。ろくなところではないだろう。
「普通、売られた娘は見習いの期間があるもんだ。色町の事を教えながら、ある程度育つのを待つ。でもあそこは見習いもなくて、買った端から客をとらすそうだよ。どんなに小さな子でも……」
男たちの目がひとり、黙ったままの童女へ注がれた。男たちの会話が判っているのかいないのか、ぜんざいが冷めるのも構わず、甘味を惜しんでちびりちびりと食べている。
この子がすぐに客を取らされるなど、想像するだに胸が痛い。
「畜生……」
伝兵衛が湯呑みを握りしめたまま呻いた。どうにもならない苦しみがにじんだ声だった。
足は黙って目を閉じる。
今、足の懐には金がある。職人に怒られて突き返された支度金だ。これに、足の財布から足せば、娘が売られる値段とほぼ同額になる。
しかしこれは店の金だ。使い込むことはできない。ただ、立て替えということにして、湊町に戻ってから足の金から補填すれば―――まあ、店の皆からお目こぼしをしてもらえるだろう。
ありがたいことに店は順調だ。祖母様に借りたものを返しながらでも、そう派手に金を使わなければ、くるみと満足に暮らしていける。
可愛い可愛い、大事なくるみ。
今は身重だ、もう三月と待たずに子が産まれる。家族が増える。無事にお産が済んだら、祝いに、お宮参りの晴れ着を買ってやりたいと思っていた。そのくらいの甲斐性はある、あるのだが、ここで払えば甲斐性なんぞ露と消える。
でもきっと、くるみは。
(この子を放っておいて晴れ着を買っても、喜ばないだろうねえ……)
そういうくるみだからこそ、足は愛おしくてたまらないのだ。
もう足の気持ちは九分九厘決まった。決まっているが、最後のあがきと、側に控える供の青年を見る。
「ひろ吉、どう思う?」
「旦那様のしたいようになさってください」
ひろ吉は、困ったようにため息をつく。
「本当ならこういう時、旦那様をお止めするのが手前のつとめなのでしょう。でも、手前は、旦那様がこうして縁もゆかりもないひとに心を寄せるような方だから、胡桃堂で働きたいと願ったんです」
そうして彼は、いいじゃないですか、と明るい声を出した。
「樺細工の職人に、つてもできました。店は順風満帆です。きっと大丈夫ですよ、旦那様。今まで以上に稼ぎましょう。手前も励みます」
何のことかと戸惑う男と童女へ目を注いでから、ひろ吉は足に笑いかけた。
「どうぞ、旦那様の望むように」
そうして、足の心は決まった。
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