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春風小路二番町胡桃堂こぼれ話
御新造と湯 其の三
しおりを挟む足が風呂へ向かったところで、くるみは中庭と廊下に面した襖を開けた。風呂上がりの自分の見苦しい姿が見えにくい、でもしっかりと光が入る所へ座布団を置く。
座敷童、旦那にやらせりゃよかったんじゃないかい。
重い髪に閉口しながら動いていると、ちょろちょろっ、とちい福が部屋へ入ってきた。風呂で洗った毛並みが輝いている。金色の福鼠は、座布団に座ったくるみの膝へのぼり、そのまま尻尾を揺らし左肩に駆け上がった。
足はわざわざ、私が髪を洗うからって、お仕事を早く片付けて来てくれたのよ。髷を解いて、お風呂を沸かして、あがれば湯冷ましまで用意してくれて……。甘えすぎてるもの。これくらい自分でやらなくちゃ。
事前に出しておいた裁縫箱と、足の羽織を引き寄せながら言うと、福鼠は首をかしげる。
そうかねぇ? 頼めば喜ぶだろ。あの旦那、座敷童をお姫様みたいに大事にしてるもんな。かわゆい鼠を握ってぶん投げるお姫様なんざ、この世にいやしないのにさぁ。……おっと。
くるみの視線に険が混じったのに気付き、ちい福は、慌てて小さな両手で口を押さえた。自分への揶揄で怒るほど、くるみの心は狭くない。鼠の失言には何も言わず、店の方はどうだった? ときく。
可もなく不可もなく、ぼちぼちってとこよ。チビどもが機嫌よく走り回ってたから、悪いことは起きねぇだろ。
ちんまりふくふく、可愛い姿に似合わぬ世慣れた口調で言いながら、金の福鼠はくるみの肩で立ち上がった。
座敷童は気にしすぎさぁ。今日だって、昼までずーっと休みも取らずに、そろばんとにらめっこだ。あれだけ働きゃ十分じゅうぶん。まさか毎日頭洗ってるわけじゃなし、たまにはのんびりすりゃあいいんだよ。
いたわるようにその鼻先をこすりつけてくる。ヒゲがくすぐったくて、くるみは小さく笑い声をあげた。
ま、旦那があがってきたら、のんびりもできねえだろうけどな! せっかく風呂に入っても、さっぱりきれいでいられるのなんか、ほんのちょっとの間に決まってらあ。どうせすぐ乳繰り合ふにゃっ!? ほわぁああーッ!?
くるみは素早く一言多い鼠を握って肩から離すと、中庭の方へぶん投げる。金のきらめきが、畑に生えた葉物野菜の影へ消えた。
くるみは赤くなったまま、ふ、と息を吐く。しかし鼠を握る手にあまり力がはいらなかったのは、くるみもまたちらりと同じことを思ったからだった。
足とふたりきりで、昼のひとときを過ごすのだ。甘い時間になることだって……。
いやいや。
みんなお店で仕事中なのだから、そんなことはいけない。
くるみは湿って重い頭を振ると、繕い途中の足の羽織を手にし、裁縫箱を開く。袖の裂け目は小さく、掛けはぎももうほとんど終わっている。
おととい足は、外回りの最後にお寺の和尚様へ顔を出した。失礼になるからと、店の半被から羽織へ着替えて行ったものの、荒れ放題の寺で袖を釘へ引っ掛け裂いたらしい。
足が幼い頃からお世話になっているという和尚様に、くるみも会ったことがある。小柄なお年寄りは、積み重ねた善行がそのまま気配になって現れていた。
この僧もまた、ひとならぬものが手出しすること許されぬ神仏のお気に入り。最近は脚が弱くなり、修行から戻ってきた都木名至一郎―――今は至円―――が日夜側に付き従い、世話をしている。
「至一郎様―――至円様がいてくださってよかったよ。あの荒れ放題の寺に和尚様ひとりでは、早晩体を壊しただろうからねえ」
ため息交じりに足が言うように、寺は傷んで荒れ放題。おふくがたびたび寄進をしているが、和尚様はその金を生活に困っている檀家のひとへ渡してしまうそうだ。本人は清貧の生活に徹しているとか。
足は、そんな和尚様を心配し、時折顔を出している。
せっせと手を動かし男物の縞の羽織を繕いながら、くるみは、足はやっぱり情の深いひとだと嬉しくなる。
くるみの旦那様は、自分よりひとのことばかり気に掛けているのだ。だからその分、くるみが足をたくさん大事にしてあげたい。足が、ひとり寂しく膝を抱えていたくるみをいざない、こうして側で大切にしてくれているように。
情が深くて優しい旦那様は、いつだって、くるみを笑顔にしてくれる。
足の愛情は、くるみを縛り付け息苦しくするようなものではない。ひとの暮らしの中、学び、働けば、足はがんばりを喜び褒めてくれる。くるみを守りつつも、少しずつ、くるみが世界を広げていくのを手伝ってくれている。それが嬉しい。
ただ、まあ、ちょっと……くるみが異性にもてる、可愛い、いい女だと信じ込んで、心配しすぎるきらいがあるが。心配なんてしなくていい、足より大好きなひとなんて、この世のどこにもいやしないのに。
一針ひとはり、心を込めて縫えば、それほど時もかからず羽織は繕い終わった。糸の玉を目立たぬよう始末して、くるみは出た糸くずをまとめ、針やはさみを道具箱へ全て片づける。
うん。大丈夫。
危険なものは全て片付け、畳の上はごみもない。きれいになった回りを見渡して、くるみはひとつ頷いた。直した羽織を広げてみる。
裂けていた跡は、指でたどっても、目を近づけても、表からはわからない。裏を見てようやくわかる程度だ。これならまだ当分着られるはずだ。
畳に広げてきちんとたたむ。
足はきっと喜んでくれるだろう。着るものにはあまり頓着しないのに、こうしてくるみの手が入ったものならば、宝物だと嬉しげに袖を通すのだ。
足はくるみが大好きだ、くるみが誰より特別だと、何度となく声で、態度で伝えてくれる。夫婦となってもなんら変わらない。
わたしも、おなじ。
足が大好き。
してあげられることがあるのが嬉しくて、たたみ終わった足の羽織へ頬ずりする。
「くるみ」
「!?」
間近に聞こえた足の声に、くるみは正座のまま座布団の上でぽーんと飛び上がった。びっくりした、胸がばくばくしている。驚きに放り出さずに済んだ羽織を握りしめ、目を見開いて、真っ赤になった顔を声の方へ向ける。
「直してくれたんだね、ありがとう」
とっても幸せそうな笑顔を浮かべ、足は湯上がりの体を妻へにぴったりつけて横へ座る。その熱と、愛する夫の木々のような淡い香りを感じ、くるみは動揺のままにうんうん、と何度も頷いた。
直した羽織を差し出してみる。
案の定、足は直した羽織を「宝物」と喜んでくれた。新品より嬉しい、大事に着ると側で言われて頬が熱い。顔が勝手に緩んでしまう。
ふと足が手を伸ばした。小さな音を立てて、中庭に向いた襖が閉められる。
「?」
なんだろうと襖を見た、くるみの体がかたわらへ座る足に引き寄せられる。大きな体がすっぽりと小柄なくるみを抱え込んだ。
「くるみ、くるみ、可愛いくるみ。おまえさんが、心の底から大好きだよ」
腕の中で振り返り、くるみは照れ笑いを足へ向けた。足の口調は柔らかいのに、見おろす目は熱を持ち、一瞬でくるみの全てを絡め取る。
風呂に入って、せっかく身綺麗になったのだ。睦み合えばまた湯に逆戻りである。それみたことかとちい福は笑うに違いない。まだ日も高い真っ昼間だし、お店ではみなが仕事の最中だ。しない方がいい理由なんてたくさんある。
なのに。
夫の熱いまなざし、ただそれだけで、くるみはとろけてしまう――。
「くるみ、くるみ、俺がいないときも、そんな風に可愛いことをしてるのかい。俺の羽織へ幸せそうに頬ずりなんかして……」
顔中へ、くちづけが降ってくる。
あらがう事などできないほどに、優しく甘いくちづけだった。
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