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秋沢奪還へ
白い魔女
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死にそう。心臓が口から出そう。
そろそろ会議室が始まる。
佐伯次長もいつものポジションに。
私の隣には予定通り同期の栗本。
そして相変わらず鬱陶しい事に、向かいの長机には冬野がだるそうに凭れている。
生産の遅れプラス、佐伯次長からの育児休暇という前代未聞の提案。不安だ。
この場では、何より次長というキャリアより、派閥で見られてしまうからだ。
確実に佐伯次長は反縁故側であり、ここで暴行の指示が出ずとも、夜道の独り歩きは危険……とまでありうるのだ。家まで押しかけて、わたしを錦総合病院へ入れるような暴挙が許されているのが現状。
その時。
ピリピリしていた空気が、廊下から聞こえてきた花のような声色に押しのけられ変化する。
「ここでいいわ。二人ともありがとう」
「いえ…… ! 」
「では、帰りも連絡ください。ロビーでお待ちしています ! 」
「ふふ」
椿 樹里 !
そうか。今日のE棟代表は彼女か。
取り巻きの女二人はたいして重くもない書類の荷物持ちとして同伴。その後ろから、ひっそりと杉山係長が歩いてくる。彼としては秋沢は手放したくなく、だと
からと言って揉め事も避けたい……そういうところだ。
そこで普段は来ないはずの樹里を連れてきた。
会議室の色が変わる。
彼女の所作、仁恵に劣らぬ美貌、そして細く女性性が強いながらも漂ってくる邪教神のような雰囲気。……強さの匂いだ。
樹里は私と目が合うと、スラッとした手をヒラヒラと向ける。
「あ、琴乃さんだわ ! よろしくね。ふふ」
「よ、よろしくお願いします ! 」
今の一言で全員の注目をわたしに集めた。
初めてだ。
会議の前に皆が殺気だっていない。
だが、どうにも樹里の美しさに見とれて……と言うわけではない感じがする。
怖い。
「では、朝礼報告を始めます」
全員、ダラダラと机に向かい、たいして興味の無い他部所の報告やら計画を受ける。
いよいよ、私の報告だが、誰も異論なし。
『あ、そう。頑張れば ? 』とでも言わんばかりの放任ぶりだ。
以前なら重箱の隅をつつくような仕打ちが待っているはずなのに。
続いて佐伯次長の育児休暇の件だが、流石にこれには待ったがかかる。
「今でも無い会社多いよな ? 」
「別に絶対欲しい制度じゃないし」
「育児してました……って、どう証明すんの ? 」
言ってることは分かるが、これに反論しなくてはならないのがコチラサイドのわたしであって……。
だけど、周囲で子供と言えばシェアハウスに預かってる子供くらいだし、そもそも新生児を触った記憶も薄い。最後に赤ちゃんに触ったのいつだっけって感じ。
フォローしたいのに言葉が出ない。
大変だから ! では、説明にならない。なにか……考えて置くんだったが、突然のことだったし。
しかし、何故か今日は反発の声もそう荒々しく無い。
冬野など、前方のプロジェクターを見たままの体勢で固まったまま、首は窓の外のカラスを目で追っている。
原因は当然。
「はい」
樹里が挙手。
「賛成です。現代のニーズにあっていますよねぇ。こういう制度は転職者にも企業のイメージが良い方向に作用しますし。
うちは女所帯なので、社員全員分まるっと賛成ですわ」
裏を返せば『てめぇら男にゃ分かんねぇだろ』と喧嘩を売っているようなものだが。
「……イメージ戦略かねぇ。
まぁ、最近の新卒をとる時も、必ず面接で休暇の制度をしつこく聞いてくるし……。
あれ増えましたよね」
「増えたね。
でも、すぐにというのはねぇ。その……椿芽君だっけ ? いきなり言われてもねぇ」
産まれる前ならまだしも、今すぐとなるとご最もとしか言えないが……。
「ですが、育児休暇自体がありませんし、申請のしようが無いのも事実です。
今回は遅れましたが、これを機に取り入れてみるのも…….」
私のふわふわした主張に、皆も聞き流すだけ。
もっとガツンと言わないと !?
これだからブラック企業は~って ? 無理だろ。他の会社がどんな制度あるか知らないし。
そこへまた、白い手が挙がる。
「私の意見としましては、椿芽さんだけ特別というわけでもありませんし、『育児休暇のある企業』として意見を固めるのが一番よろしいのでは ? 魅力的な企業です。
マニュアルや契約内容などの全ての基準や準備が整い次第……そうですね……インターンの方が今社内にいますので、早めに話を進めた方がいいかもしれませんね。若者の特性は情報の速さですから、この企業情報の更新は好印象にもなります。
既に申請希望の椿芽さんには、制度が出来るまで有給扱いにして、理由枠に『育児休暇の為』とすれば、あとからでも処理出来ます。それでよろしいかと思いますが……。
如何でしょうか ? 」
温和。
そう。話し方や崩れることの無い笑みは、一見温和なのだ。
だが、誰も反論しない。
これが他の女なら……すっこんでろ ! と、一蹴である。
なにか………… ?
なにか得がある…… ?
この女に逆らわない事で、皆になにか得るものがある…… ?
椿 樹里は縁故では無い。故に役職や権力の問題では無いはずだ。
得体がしれない…………。
だが、育児休暇の件がこのまま纏まるなら、それでいいだろう。
杉山係長が隣で身を潜めるようにしている。
ハラハラものだろう。
「まぁ、有給扱いならいいのでは ? 」
「その場合、有給を消化した上で、足りない分を育児休暇にするとか」
「いや、最初から最大何日と決めないと……」
育児休暇の設立。
これに関しては問題のなさそうな流れになってきたな。
**********
「琴乃さん」
皆が会議室から出ていく。
私も続こうとしたところを、その白スーツの魔女に止められる。
「私、琴乃さんほし~なぁ~」
「え ? は、はぁ……」
気に入られた ?
いや、E棟は女性社員の園。しかし、F棟の私なんか眼中に無いはずなのだが。
「人事に関しては、わたしに決定権無いですしね……それに、今秋沢さんもいないし」
「あぁ、そうそう。それが一番よね。
杉山係長にも聞いたんだけれど、この会社はなんにしても小狡い事ばかりで……ねぇ ? 」
「……」
一度持った荷物を椅子に下ろし、栗本も静かに樹里を伺う。
「ん~……。秋沢さんを、F棟に戻す……かぁ。
私なら出来ますわよ ? 」
「え !? 」
「要は、F棟から戦力やキーパーソンを削ぎたいのが彼らの望みなんでしょ ?
それなら、秋沢さんじゃなくてもいいと思うの」
「秋沢戻してやるから、別なやつ出せって事ですか ? 」
栗本が突き刺すような視線を向ける。
「だって連中もタダでとは行かないわよ。
ねぇ、だから琴乃さん、E棟に来ない ? 」
「……なぜ、私なんです ? 」
樹里は笑みを浮かべたまま、一瞬黙り込む。
「表向きは、あなたが女性だからよ。E棟は私が故意に女性で埋めてるの。
産休や生理休暇がこの会社にはあってないようなもの。ならば、欲しい人間たちでそれを守れる職場を作らないと。そうして有給は私が受理しているの」
女王。
蟻や蜂のように。
他の雌を守る振りをして、雌で壁を作っている。
「でも、あなたはハッキリ言われないと納得しない性分みたいだから言うけど。
本当は、F棟にいるには厄介な存在でしかない。
でも、社員としては三流よねぇ。技術も無く、まともな資格も無い、大卒でもないし、男にも媚びない。
F棟からあなたを引き剥がしたところで、現場では使い道に困るのよ」
「なっ…… ! 」
「反論できる ? 秋沢さん程の人望は ? 山口さん程の技術は ?
あなたはまだまだ発展途上ですもの」
キッパリと言い放たれる。だが、反論出来なかった。
「結局、F棟の戦力を削ぐことに変わりはないですよ、椿係長。
琴乃は主力になってます」
「なら、なぜ椿芽君の有給も育児休暇も、会議では佐伯次長におんぶにだっこなの ?
琴乃さんが欲しいのは本当よ。ふふ。単純に好みなの。でも、セクハラはいけないものね。
じゃあパワハラやモラハラは ? アルハラは ? ホワイト企業になれば何がどう変わるのか ?
栗本くん、寧ろ琴乃さんが今一番勉強が足りないところだと思うの。彼女は実行力も行動力も迅速。
でも、未経験なところでは、躊躇ってしまう。
秋沢さんを奪還できないのはね、F棟に集まる社員が元々決まっていたようなものだから。秋沢さんも、そして琴乃さんも元々居た人間だから。
自分の現場に、他の現場から有能な人を口説いて連れてくる、と言うのは本来たやすいものではないのよ。琴乃さんは方法を知らないのよ、栗本君。
社員が必要とされない現場より必要とされる現場に行くのはなぜ ? お給料が増える ? ないない。この会社でそれは無いわ。残業が無くなる ? 無理無理。既に十七時から二十時まではサビ残なのに。地位はそのままに、金でも無く、休日や残業でもないとしたら……それは働き心地よ。
安定した結婚生活。仕事をして、楽しい家族に楽しい職場。既婚の秋沢さんにはどちらが幸せなのかしら ?
現状、私はF棟に期待と応援はしてるけど、見ていて楽しそうには見えないわ」
「あなたがどうこう言おうと、それは秋沢さんがわたしたちに直接伝えることですし、事実だとしても、逃げるように異動したりするような方ではありませんから」
「あぁ~ん ! 怒らせちゃった ? 」
樹里は頬に手を当てて困ったように小さく溜息をつく。
「違うの ! 違うのよぉ !
本来、今私が言ったことを強行するようなら、琴乃さんじゃなくて椿芽君を引き抜くもの !
E棟にも貴重な男性社員はいるのよ。でも、厳重に精査してるつもりよ ! 女の子達を守るのが私の棟。既婚でラブラブ夫婦 ! それも育休取るくらいのね……そういう子なら安心かと思うし」
「樹里さんは役職も長いですもんね」
「ふふ。ええ。それなりにはね。歳には触れないでぇ ? 」
「……なら、仁恵さんの勤務中の事態には、何故動かなかったのですか ? 」
「…………」
その沈黙が、全ての答えだ。
この人は綺麗事を上手く操っている。
「かつて、本社の総合案内所もなかった頃、霜山 仁恵と同じ境遇にいたのが、今のE棟の社員の母親や姉にあたる人達よ。
琴乃さん世代より前、就職氷河期に縁故で流れて来た人たちの時代。
私は仁恵さんにも声をかけたわよ ? でも、仁恵を取るならE棟を差し出せ……それが冬野の答えだった。
渡していたら昔に逆戻りになるのは目に見えている。
女性社員は玩具じゃない。
E棟の社員をまともに稼がせたいだけ。
琴乃さん、私、間違ってるかな ? 」
「その話が本当なら、間違いとは思いませんが」
「うん ! 好き !
そのハッキリ割り切る姿勢 ! 好き !
はぁ~……従順な子はいっぱいいるけど、威勢のいい子はまた別。
欲しいなぁ~琴乃さん。栗本君、説得してくださる ? 」
「そこまで言うなら、ご自分で口説いてくださいよ。俺は知りません」
栗本は荷物を持ち直すと、エレベーターへ向かった。
わたしも行かないと ! この人と二人で残るの、なんか怖い !
「琴乃さん」
「はい」
「春子ちゃんって呼んでもいい ? 」
「構いませんが ? 」
「ふふ。秋沢さんと春子ちゃんと交換条件の件。少し考えて見てくれないかしら ?
E棟に異動してくれるなら、秋沢さんがF棟に帰れるように口添えしてあげられる」
「時間をください」
秋沢さんを返すと言う条件に、なぜ私が関わる ?
樹里は誰に話をつける気でいるんだ ?
誰かと繋がっている…… ?
分からない。
でも栗本もいる前で話したということは。ああ。そうか。
栗本はドライだ。慎也よりずっと理詰めで考えるタイプだ。必ず今のやり取りを出田や山口に話すだろう。
あの二人は……視野が広い分、賛成しかねない。私が経験不足なのは自他共に認める程だろう。
それで秋沢が返却となれば、私一人で秋沢とネコがF棟に戻って来るんだ。
皆が示唆するようなら、穏便に従う他無いかもしれない。
そろそろ会議室が始まる。
佐伯次長もいつものポジションに。
私の隣には予定通り同期の栗本。
そして相変わらず鬱陶しい事に、向かいの長机には冬野がだるそうに凭れている。
生産の遅れプラス、佐伯次長からの育児休暇という前代未聞の提案。不安だ。
この場では、何より次長というキャリアより、派閥で見られてしまうからだ。
確実に佐伯次長は反縁故側であり、ここで暴行の指示が出ずとも、夜道の独り歩きは危険……とまでありうるのだ。家まで押しかけて、わたしを錦総合病院へ入れるような暴挙が許されているのが現状。
その時。
ピリピリしていた空気が、廊下から聞こえてきた花のような声色に押しのけられ変化する。
「ここでいいわ。二人ともありがとう」
「いえ…… ! 」
「では、帰りも連絡ください。ロビーでお待ちしています ! 」
「ふふ」
椿 樹里 !
そうか。今日のE棟代表は彼女か。
取り巻きの女二人はたいして重くもない書類の荷物持ちとして同伴。その後ろから、ひっそりと杉山係長が歩いてくる。彼としては秋沢は手放したくなく、だと
からと言って揉め事も避けたい……そういうところだ。
そこで普段は来ないはずの樹里を連れてきた。
会議室の色が変わる。
彼女の所作、仁恵に劣らぬ美貌、そして細く女性性が強いながらも漂ってくる邪教神のような雰囲気。……強さの匂いだ。
樹里は私と目が合うと、スラッとした手をヒラヒラと向ける。
「あ、琴乃さんだわ ! よろしくね。ふふ」
「よ、よろしくお願いします ! 」
今の一言で全員の注目をわたしに集めた。
初めてだ。
会議の前に皆が殺気だっていない。
だが、どうにも樹里の美しさに見とれて……と言うわけではない感じがする。
怖い。
「では、朝礼報告を始めます」
全員、ダラダラと机に向かい、たいして興味の無い他部所の報告やら計画を受ける。
いよいよ、私の報告だが、誰も異論なし。
『あ、そう。頑張れば ? 』とでも言わんばかりの放任ぶりだ。
以前なら重箱の隅をつつくような仕打ちが待っているはずなのに。
続いて佐伯次長の育児休暇の件だが、流石にこれには待ったがかかる。
「今でも無い会社多いよな ? 」
「別に絶対欲しい制度じゃないし」
「育児してました……って、どう証明すんの ? 」
言ってることは分かるが、これに反論しなくてはならないのがコチラサイドのわたしであって……。
だけど、周囲で子供と言えばシェアハウスに預かってる子供くらいだし、そもそも新生児を触った記憶も薄い。最後に赤ちゃんに触ったのいつだっけって感じ。
フォローしたいのに言葉が出ない。
大変だから ! では、説明にならない。なにか……考えて置くんだったが、突然のことだったし。
しかし、何故か今日は反発の声もそう荒々しく無い。
冬野など、前方のプロジェクターを見たままの体勢で固まったまま、首は窓の外のカラスを目で追っている。
原因は当然。
「はい」
樹里が挙手。
「賛成です。現代のニーズにあっていますよねぇ。こういう制度は転職者にも企業のイメージが良い方向に作用しますし。
うちは女所帯なので、社員全員分まるっと賛成ですわ」
裏を返せば『てめぇら男にゃ分かんねぇだろ』と喧嘩を売っているようなものだが。
「……イメージ戦略かねぇ。
まぁ、最近の新卒をとる時も、必ず面接で休暇の制度をしつこく聞いてくるし……。
あれ増えましたよね」
「増えたね。
でも、すぐにというのはねぇ。その……椿芽君だっけ ? いきなり言われてもねぇ」
産まれる前ならまだしも、今すぐとなるとご最もとしか言えないが……。
「ですが、育児休暇自体がありませんし、申請のしようが無いのも事実です。
今回は遅れましたが、これを機に取り入れてみるのも…….」
私のふわふわした主張に、皆も聞き流すだけ。
もっとガツンと言わないと !?
これだからブラック企業は~って ? 無理だろ。他の会社がどんな制度あるか知らないし。
そこへまた、白い手が挙がる。
「私の意見としましては、椿芽さんだけ特別というわけでもありませんし、『育児休暇のある企業』として意見を固めるのが一番よろしいのでは ? 魅力的な企業です。
マニュアルや契約内容などの全ての基準や準備が整い次第……そうですね……インターンの方が今社内にいますので、早めに話を進めた方がいいかもしれませんね。若者の特性は情報の速さですから、この企業情報の更新は好印象にもなります。
既に申請希望の椿芽さんには、制度が出来るまで有給扱いにして、理由枠に『育児休暇の為』とすれば、あとからでも処理出来ます。それでよろしいかと思いますが……。
如何でしょうか ? 」
温和。
そう。話し方や崩れることの無い笑みは、一見温和なのだ。
だが、誰も反論しない。
これが他の女なら……すっこんでろ ! と、一蹴である。
なにか………… ?
なにか得がある…… ?
この女に逆らわない事で、皆になにか得るものがある…… ?
椿 樹里は縁故では無い。故に役職や権力の問題では無いはずだ。
得体がしれない…………。
だが、育児休暇の件がこのまま纏まるなら、それでいいだろう。
杉山係長が隣で身を潜めるようにしている。
ハラハラものだろう。
「まぁ、有給扱いならいいのでは ? 」
「その場合、有給を消化した上で、足りない分を育児休暇にするとか」
「いや、最初から最大何日と決めないと……」
育児休暇の設立。
これに関しては問題のなさそうな流れになってきたな。
**********
「琴乃さん」
皆が会議室から出ていく。
私も続こうとしたところを、その白スーツの魔女に止められる。
「私、琴乃さんほし~なぁ~」
「え ? は、はぁ……」
気に入られた ?
いや、E棟は女性社員の園。しかし、F棟の私なんか眼中に無いはずなのだが。
「人事に関しては、わたしに決定権無いですしね……それに、今秋沢さんもいないし」
「あぁ、そうそう。それが一番よね。
杉山係長にも聞いたんだけれど、この会社はなんにしても小狡い事ばかりで……ねぇ ? 」
「……」
一度持った荷物を椅子に下ろし、栗本も静かに樹里を伺う。
「ん~……。秋沢さんを、F棟に戻す……かぁ。
私なら出来ますわよ ? 」
「え !? 」
「要は、F棟から戦力やキーパーソンを削ぎたいのが彼らの望みなんでしょ ?
それなら、秋沢さんじゃなくてもいいと思うの」
「秋沢戻してやるから、別なやつ出せって事ですか ? 」
栗本が突き刺すような視線を向ける。
「だって連中もタダでとは行かないわよ。
ねぇ、だから琴乃さん、E棟に来ない ? 」
「……なぜ、私なんです ? 」
樹里は笑みを浮かべたまま、一瞬黙り込む。
「表向きは、あなたが女性だからよ。E棟は私が故意に女性で埋めてるの。
産休や生理休暇がこの会社にはあってないようなもの。ならば、欲しい人間たちでそれを守れる職場を作らないと。そうして有給は私が受理しているの」
女王。
蟻や蜂のように。
他の雌を守る振りをして、雌で壁を作っている。
「でも、あなたはハッキリ言われないと納得しない性分みたいだから言うけど。
本当は、F棟にいるには厄介な存在でしかない。
でも、社員としては三流よねぇ。技術も無く、まともな資格も無い、大卒でもないし、男にも媚びない。
F棟からあなたを引き剥がしたところで、現場では使い道に困るのよ」
「なっ…… ! 」
「反論できる ? 秋沢さん程の人望は ? 山口さん程の技術は ?
あなたはまだまだ発展途上ですもの」
キッパリと言い放たれる。だが、反論出来なかった。
「結局、F棟の戦力を削ぐことに変わりはないですよ、椿係長。
琴乃は主力になってます」
「なら、なぜ椿芽君の有給も育児休暇も、会議では佐伯次長におんぶにだっこなの ?
琴乃さんが欲しいのは本当よ。ふふ。単純に好みなの。でも、セクハラはいけないものね。
じゃあパワハラやモラハラは ? アルハラは ? ホワイト企業になれば何がどう変わるのか ?
栗本くん、寧ろ琴乃さんが今一番勉強が足りないところだと思うの。彼女は実行力も行動力も迅速。
でも、未経験なところでは、躊躇ってしまう。
秋沢さんを奪還できないのはね、F棟に集まる社員が元々決まっていたようなものだから。秋沢さんも、そして琴乃さんも元々居た人間だから。
自分の現場に、他の現場から有能な人を口説いて連れてくる、と言うのは本来たやすいものではないのよ。琴乃さんは方法を知らないのよ、栗本君。
社員が必要とされない現場より必要とされる現場に行くのはなぜ ? お給料が増える ? ないない。この会社でそれは無いわ。残業が無くなる ? 無理無理。既に十七時から二十時まではサビ残なのに。地位はそのままに、金でも無く、休日や残業でもないとしたら……それは働き心地よ。
安定した結婚生活。仕事をして、楽しい家族に楽しい職場。既婚の秋沢さんにはどちらが幸せなのかしら ?
現状、私はF棟に期待と応援はしてるけど、見ていて楽しそうには見えないわ」
「あなたがどうこう言おうと、それは秋沢さんがわたしたちに直接伝えることですし、事実だとしても、逃げるように異動したりするような方ではありませんから」
「あぁ~ん ! 怒らせちゃった ? 」
樹里は頬に手を当てて困ったように小さく溜息をつく。
「違うの ! 違うのよぉ !
本来、今私が言ったことを強行するようなら、琴乃さんじゃなくて椿芽君を引き抜くもの !
E棟にも貴重な男性社員はいるのよ。でも、厳重に精査してるつもりよ ! 女の子達を守るのが私の棟。既婚でラブラブ夫婦 ! それも育休取るくらいのね……そういう子なら安心かと思うし」
「樹里さんは役職も長いですもんね」
「ふふ。ええ。それなりにはね。歳には触れないでぇ ? 」
「……なら、仁恵さんの勤務中の事態には、何故動かなかったのですか ? 」
「…………」
その沈黙が、全ての答えだ。
この人は綺麗事を上手く操っている。
「かつて、本社の総合案内所もなかった頃、霜山 仁恵と同じ境遇にいたのが、今のE棟の社員の母親や姉にあたる人達よ。
琴乃さん世代より前、就職氷河期に縁故で流れて来た人たちの時代。
私は仁恵さんにも声をかけたわよ ? でも、仁恵を取るならE棟を差し出せ……それが冬野の答えだった。
渡していたら昔に逆戻りになるのは目に見えている。
女性社員は玩具じゃない。
E棟の社員をまともに稼がせたいだけ。
琴乃さん、私、間違ってるかな ? 」
「その話が本当なら、間違いとは思いませんが」
「うん ! 好き !
そのハッキリ割り切る姿勢 ! 好き !
はぁ~……従順な子はいっぱいいるけど、威勢のいい子はまた別。
欲しいなぁ~琴乃さん。栗本君、説得してくださる ? 」
「そこまで言うなら、ご自分で口説いてくださいよ。俺は知りません」
栗本は荷物を持ち直すと、エレベーターへ向かった。
わたしも行かないと ! この人と二人で残るの、なんか怖い !
「琴乃さん」
「はい」
「春子ちゃんって呼んでもいい ? 」
「構いませんが ? 」
「ふふ。秋沢さんと春子ちゃんと交換条件の件。少し考えて見てくれないかしら ?
E棟に異動してくれるなら、秋沢さんがF棟に帰れるように口添えしてあげられる」
「時間をください」
秋沢さんを返すと言う条件に、なぜ私が関わる ?
樹里は誰に話をつける気でいるんだ ?
誰かと繋がっている…… ?
分からない。
でも栗本もいる前で話したということは。ああ。そうか。
栗本はドライだ。慎也よりずっと理詰めで考えるタイプだ。必ず今のやり取りを出田や山口に話すだろう。
あの二人は……視野が広い分、賛成しかねない。私が経験不足なのは自他共に認める程だろう。
それで秋沢が返却となれば、私一人で秋沢とネコがF棟に戻って来るんだ。
皆が示唆するようなら、穏便に従う他無いかもしれない。
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