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最終話 女装しなくても女装めしっ!
しおりを挟む目の前には、姉さんが不満げに座っている。
ピリピリとした怒りをうちに溜めているのが、ここからでもよくわかる。
僕はそんな姉さんが怖くて、叫びたくなるのをぐっと我慢していた。
姉さんに叱られることはこれまでになかった。
こんなふうに不機嫌そうにしていることもなかった。
それでも話さなきゃいけない。
でも、何を?
もっと姉さんを怒らしそうなのに?
気後れする。何を話してもダメかもしれない……。
スクリーンに映されていた映画は、有名なシーンを映していた。ローマを遊ぶ記者とお忍びの王女。記者が石造の口に突っ込むと、手首から先がない。驚く王女。すぐに手首を元に戻す記者。ほっとした王女が記者をぽかぽかと叩く。
「このシーンいいよな。王女様が素で驚くのがまたチャーミングだ」
松浦さんがワインを片手につぶやく。
姉さんはむすっとして「どうせ私はチャーミングじゃないし」とすねたように言った。
姉さんはまだ怒っていたけれど、表情が少し緩んだように見えた。
いまなら、話せる。
僕は、思いを言葉に変える。
「姉さん、僕は姉さんから離れて暮らしたい」
「本気? 松浦に吹き込まれているんじゃない?」
「違う」
「嘘よ」
「ふたりじゃ、寂しさは埋め合わせられないんだ」
姉さんが僕をじっと見つめる。
「女の子になりたいのなら、姉さんと暮らしてもできるでしょ?」
「女装していたのは、僕にとってはライナスの毛布だったと思う。女の子の恰好をすれば受け入れられる。松浦さんの気が引ける。でも、いまの僕は寂しくない」
「松浦といるから?」
胸元に手を置く。
大丈夫。ちゃんと話さなきゃ。松浦さんがついてる。
「そうだよ。そして松浦さんは僕に選ばしてくれる。自分の気持ちを信じろって言ってくれる」
「だから?」
「だから、姉さんも寂しさを埋める方法を変えたほうがいいんだ」
ふっと姉さんが息を吐く。それからソファーの背に体を投げ出すようにもたれる。
「私達、どこでおかしくなったの?」
松浦さんはイチジクとチーズが乗ったパンを口に運び、もぐもぐとさせながら姉さんに応える。
「何を言っても正しい答えにはならんよ。真実の口でもあれば別だがね」
姉さんは楽しくなさそうに笑っていた。
僕はスカートの裾をつかみながら、そんなふたりをずっと見ていた。
スクリーンでは、いろいろな思いを断ち切り、王女が公務に戻っていた。あんなに気持ちを寄せていた記者からの質問に答える。ローマの休日が最高だった、と。
……僕も戻るんだ。
「僕は高校生を休んでた。姉さんの弟であることも休んでた。僕も王女と同じく、自分に戻るときなんだ」
「夏稀、それでいいの? ずっと苦労するよ。姉さんだって、いきなり大人の社会に放り出されてたいへんだった。同じ思いをさせたくないの」
「わかってる。でも、もう……」
僕は姉さんにはっきりと言った。
「姉さんとはもういっしょに暮らさない。距離を置く。それが姉さんのためなんだ」
姉さんは「ふーん」と言いながら、オリーブをつまんで口に入れる。それから愉快そうに言った。
「何を言うかと思ったら。私のためなら、いっしょに暮らしなさい。夏稀は何もできない。私が支えてあげる。だから、私といるべきよ」
松浦さんが座ったまま、姉さんに頭を下げた。
「自分の寂しさを夏稀君で埋めないでやってくれ。頼む」
「なら、誰が私の寂しさを埋めてくれるというの?」
「そうして欲しいのか? 君は寂しいことに酔ってると思ってた。寂しいことを、良き姉を演じることを、君はいつも言い訳にしていた。そうして何人もの男から愛をむさぼっていた」
口元がゆがむ姉さんに、僕はすがりついて願いを乞うように言った。
「姉さん。お願い。離れた僕を見守っていて欲しい」
僕の言葉に姉さんはふっと笑った。それから目をつむる。ソファーに身を預けながら、ふっとつぶやく。
「You must stay in the car and drive away. Promise not to watch me go beyond the corner.」
あなたはこのまま帰って。私の行き先を見ないと約束して。
それはスクリーンで、王女が悩んだ末に、愛していた記者と別れるときに告げた言葉だった。
「姉さん……」
名前がわからない感情が湧き上がる。僕はふっきれたような姉さんをただ見つめていた。
松浦さんが顔をあげた。苦笑いしながら姉さんに言う。
「キザな女だな」
「あなたがかつて愛していたのはそういう女よ」
姉さんがソファーから立ち上がる。ハンドバックを手に取り、ストラップを肩にかける。
「もう元に戻らない。母さんがいなくなったときと同じぐらい、もう、どうにもならないわ」
それからグラスの赤ワインをぐっと飲み干した。
「夏稀、元気でいてね。私はずっとあなたのことを心配してる」
衝動的に体が動く。去っていく姉を追いかけたい。
でも、僕は動きを止める。
僕は松浦さんといっしょにいることを取った。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
姉さんへの全部の気持ちが涙に変わる。
姉さんと笑い合ったこと、泣いたこと。作った夜食を褒めてくれたこと……。
みんな、もう……。
松浦さんがそばに来て、頬を伝わる涙を指先でそっと拭ってくれた。
「あとは大人の問題だ。このワインと同じように時が解決してくれる」
◆◇◆
あれから10年が過ぎていた。
開け放たれた大きな窓から流れる風が気持ちいい。湯上りの僕は、座敷にごろんと転がって、芽吹いた新緑の香りを感じていた。
この箱根の日帰り温泉には、もう何度も来ているところだった。貸し切りのお風呂もあって、僕には都合がよかった。20時を過ぎると、とくに人が少ない。しんとした部屋に、ときおり話し声が混じる。それが心地よかった。
座敷に置いてある、人をダメにするクッションに身を預け、僕は持ってきた文庫本を読み始めた。行きの電車で読み始めた小説は、もうエピローグに差し掛かっていた。
ふと思う。僕の……。僕のお話のエピローグはどうなるのかな……。
僕は女装をしていない。しているのかも? でも、そう言うと松浦さんに叱られる。「ただの女なんだから」って。
手術をしても女にはなれない。でも、僕はそうした。それが僕が信じた僕自身の願いだった。そして僕は、僕を信じてくれる松浦さんを信じた。
男だったもの、男だった過去は全部捨てた。それは奇妙なことに、とてもさっぱりとした。温泉にでも入ったあとみたく。
姉さんとは、お正月にだけ会っている。元気そうにはしている。最近は夜の仕事を辞めて、翻訳の仕事を始めたようだ。高校に通ってた頃、英語のテストでいつも100点取ってきてた姉さんには、ぴったりの仕事だった。
姉さんは僕から離れて、ようやく自分らしく生き始めたと思う。でも、僕はそこから先に踏み込まないようにしていた。姉さんには姉さんの、僕には僕の生き方があり、それをたいせつにしていた。
ふいにおなかが鳴る。どうしようかな。この近くで食べに行ってもいいけれど、僕には食べたいものがあった。なら、ごろごろするのはもうおしまい。跳ね起きると、ロッカーの鍵を手に取る。さあ、帰らなきゃ。
終わる時間が早すぎるバスは、だいぶ前に出て行っていた。いつもそうしていたように、フロントのところでタクシーを呼んでもらおうとしていたら、困ってる母娘がいた。娘さんはまだ幼稚園だろうか。眠たそうに小さな手で目をこすってる。
僕はなんとなくお母さんへ言った。
「タクシー呼んでもらうので、いっしょに駅まで乗りませんか?」
それを聞いたお母さんは、うれしそうにうなづいた。
ほどなくして来たタクシーの後ろに、僕達3人が乗り込む。真ん中に座った娘さんは、お母さんに寄り添うようにして眠りだした。その子をぽんぽんと叩きながら、お母さんは僕へ話し始めた。
「いろいろ回ったけれどあそこがいちばんね。娘がすごく気に入ってて」
「わかります。雰囲気がとてもいいですよね」
「そうなのよ。あなたはどうしてこちらに?」
「仕事に疲れちゃって。たまにこうして逃亡してます」
「ふふ。うちもよ。逃げ場所って重要なんだから」
お母さんは娘さんを抱き寄せながら、静かに語り出した。
「昔ね。たいへんな子がいて。学校には行かなくて。おいしいご飯ばっかり食べてる。自分でデリカシーないなって思ってたけれど、自分なりに応援してました。あの子は、いまでも元気かなって、ずっと思ってます」
「ええ、きっと、元気ですよ」
お母さんは丸山さんだった。声からわかっていた。
でも、僕ははっきりと会えて嬉しいとは言えなかった。
僕は、男だったことを知っている人、みんなから離れた。そうしないと女になれなかった。
丸山さんも気づいている。理由があってそうしたことに。
「私は結局この子をひとりで育てることになったけれど、それでもこうして温泉に行けるようになって……。いまは、とても幸せ、かな。あなたはいま幸せ?」
「旦那と暮らしています。ちょっといじわるな奴ですが、愛されてます」
「そうなの? 良かったわ。私の親友なんか、いまだに高校時代から付き合ってた旦那さんとラブで、子供を3人も作っちゃって」
「その人にお礼が言いたかったんです。小説を書くきっかけをくれてありがとうって。届けてくれますか?」
「もちろんだよ、ふっちー」
丸山さんは、少しだけお母さんから、あの高校時代の人懐っこい顔に戻っていた。
駅の入口で丸山さんたちと別れると、僕は近くのコインロッカーに向かう。預けていたお土産を取り出す。そこに入れておいたチーズかまぼこを一口食べると、ホームへ向かった。
東京へ行く電車に乗り、頬杖を突きながら、真っ暗な車窓を見つめる。自分の姿が鏡のように映る。100%の女にはなれないけれど、それでも自分は女だと認めた顔がそこにあった。
丸山さんたちの言う通り、僕のことを小説にして書いた。
それは印税や著作権料で都内に一戸建てが買えるぐらいにはなった。
作家という役が与えられても、僕は女の姿のままで食べ歩いていた。
電車は東京に着き、そのまままっすぐ中目黒の古いマンションへ帰る。玄関を開けると、松浦さんが待っていた。
「お帰り、夏稀」
「ただいま」
「少しはゆっくりできたか?」
「うん、だいぶ気分転換になった。ありがとうね」
「お礼を言われるぐらいのことは、何にもしてないよ」
「だって名編集長なんでしょ?」
「こないだのインタビュー記事か。してやられたな。著者校正させてもらえなかった」
「あの頃の僕は知らなかったよ。どんな仕事してるのかって」
「雑誌編集程度ではな。言う方が恥ずかしい」
「僕はそれでも助かったけれどね。僕だけじゃ書けなかったし。いつも助けられてばかりいる」
「そうか」
え、なに?
松浦さんが後ろに隠し持っていた持っていたシャンパンを僕に渡した。
「ドラマ化おめでとう」
「決まったの? 女装めしってタイトルのまま?」
「ああ。今日はお祝いだ」
僕は笑いながら、手にしていたトートバッグをシャンパンの代わりに渡した。
「ちょうどよかった。これお土産ね。紋次郎ローストビーフ、好きでしょ?」
「そうくると思って、ライ麦パンも買っといた」
「くいしんぼさんめ」
「お互いな」
あのとき感じた安堵の気持ち。
あのときから捨てた寂しい気持ち。
僕たちの居場所はここにある。
女装しなくても。
女装しても。
ふたりでなら。
僕たちは愛し合いながらグラスを鳴らした。
ふたりでおいしいご飯を食べられる。その幸せを祝った。
きっといまの僕は、松浦さんと同じ味だ。
Fin.
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