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第10話 代官山のカフェレストラン

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 桜の季節になると、中目黒はにぎやかになってくる。目黒川沿いの桜の並木道を見ながら、いちご入りのスパークリングワインを飲んだりするような人が、大勢やって来るから。

 僕はそれも好きだけど、近くの静かな公園にある、大きな桜の木を眺めるのも好きだった。垂れ下がった枝には、たくさんの桜の花が咲いて、それは白いわたあめのようだった。
 この場所を教えてくれたのは松浦さんだった。最初に見に行ったのは真夜中で、ぼんやりとした白い花が闇の中で咲き誇り、幻想的というのはこういうことを現わすための言葉なんだろうと思った。

 今日は、お昼におにぎりと唐揚げと玉子焼きのお弁当を作って、この公園で松浦さんといっしょに簡単なお花見をした。公園のベンチで足をぶらぶらさせながら、僕が「また来年も見られるといいな」とつぶやくと、松浦さんは「見られるさ」とそっけなく言っていた。

 それからの僕は、そわそわと夕方になるのを待った。紺色のブラウスに黒い巻きスカートへ着替えながら、置き場のない気持ちに困っていた。

 僕はこれから姉さんと会う。
 僕のこれからをどうするのか。それを話し合う。

 日が暮れていくのを窓辺でぼんやりと見ていた。松浦さんが「行こうか」と明かりをつけずに言った。僕は立ち上がると、松浦さんに「はい」とオレンジ色の中でうなづいた。

 駅近くのお店は花見客で混雑していて予約ができず、結局代官山にある、僕達がよく行くカフェレストランで会うことになっていた。半地下の少し広い場所。打ちっぱなしのコンクリートの壁に、いろいろなソファーが置かれ、少し暗めの照明がそれを照らしている。この時間は女のお客さん達が多い。ケーキやサラダ、いろいろなものを食べながら、楽しそうにおしゃべりしている。

 最初にこの店へ来た時、松浦さんが「ここは何を食べてもおいしいんだ」と言ってたけれど、本当にその通りだった。生姜焼きとかミートソースのスパゲッティとか、そうしたなんでもない普通のものがすごくおいしかった。僕がいちばんびっくりしたのは、ピザトースト。具材もよくあるものばかりなのに、すごくおいしい。トリックアートを見たときのような、とても不思議な感じがした。

 僕らはお店の人に促されて、いつもの青い革張りのソファーがある席に通された。近くの壁にはスクリーンがあって、昔の映画を映している。こうやって松浦さんに寄りかかりながら、ぼんやりとそれを眺めているのが、いつの日か僕たちの幸せになっていた。

 今日の映画は『ローマの休日』だった。字幕を目で追いながら、僕は松浦さんが頼んだ温かいレモネードを飲んでいた。王女様はベンチで寝転がり、通りががった新聞記者が困り果てて自分の家に連れてくる。ちょっと僕みたいだなと思ってたら、松浦さんも同じことを思ったようだった。

 「夏稀君は俺の家の前で寝ていたな」
 「あのときは疲れちゃって。ずっと走っていたし。松浦さんと連絡取れたから安心したのかも」
 「公園のベンチで寝なくて良かったな」
 「新聞記者に連れていかれてしまいますね」
 「ドライブには連れ出したけどな」
 「あれは楽しかったです。富士山がとてもきれいでした。松浦さんには迷惑かけちゃいましたが……」

 僕はレモネードのグラスをテーブルに静かに置く。それから松浦さんを見ずにたずねた。

 「心配してますか?」
 「無論だ」
 「姉さんは、話を聞いてくれるでしょうか……」
 「わからん。だが、このまま逃げっぱなしというわけにもいかない。夏稀君の将来のためには、君のお姉さんと話をする必要がある」
 「はい……」

 姉さんは僕を取り戻したい。法的なことも言っている。
 松浦さんは僕に将来を選ばせたい。そのためにずっと平行線の話し合いを姉さんとしている。

 だから、僕が話さないといけない。

 スクリーンでは王女様がソファーから起きて、見知らぬ部屋のようすにびっくりしていた。新聞記者がそんな王女に手を焼いている。

 「あまり聞かないようにしてたが、夏稀君は何か決めたことはあるのか?」

 僕はレモネードのカップを取り、一口だけ甘酸っぱさを味わう。

 あの日に言われた丸山さんの言葉が正解なんだろうと、最近は思っていた。こうして松浦さんに触れてるだけで、僕は安心している。それは多くの人が思うような恋ではないけれど……。

 たぶん、そういうことなんだろう。

 僕は松浦さんへ甘えるように体を預ける。それから考えてたことを話し出した。

 「いまの僕を食べたらどんな味なんでしょうね。フニュル味なのか、ガラニャム味、ポップン味、はたまたムシュル味なのか……。もしかしたら味がしないかも……」
 「食べてみないことにはわからないな」
 「なら、食べて……みませんか……」

 松浦さんはくすりと笑い出した。

 「誘ってるのかい?」
 「いや、違っ……くもない……」

 僕は恥ずかしさで真っ赤に染まる。うつむきながら、松浦さんの言葉を待つ。聞けたのは、あきれたような声だった。

 「まったく。どこでそんなことを覚えたのやら」
 「恋人に惑わされるのが好きなんでしょ?」
 「君と悠香は違うよ。そんなことをしなくてもいい」
 「でも、松浦さんは姉さんのことが……」
 「悠香と付き合ったのは、俺が破滅したかったからだ」
 「破滅?」
 「仕事に追い立てられ、誰にも頼れなかった。逃げても現実ばかりが追いかけてくる。そんなときに君のお姉さん、悠香に出会った。振り回されているときは、気が紛れた。そしていつか俺を殺してくれると思ってた」

 それはここまでいっしょに暮らしていて、なんとなくわかってた。
 他人ではなく、自分の気持ちだけを信じろと松浦さんは言ってた。でも、僕は、松浦さんに信じて欲しかった。

 「殺せないです。好きな人は。僕にはできないです。松浦さんだってそうでしょ?」
 「ああ、そうだな。君を殺したら、おいしいものが食べられなくなる」
 「……なら、もっと食べてみたくありませんか? ふたりならもっといろんな味を……」

 松浦さんが僕をそっと抱き寄せる。

 「仕方ないな。そうしよう。夏稀君がどんな味をするのか、楽しみだ」
 「じゃ……」
 「ずっとたいせつにするよ」

 肩に回された松浦さんの腕を僕はぎゅっとつかむ。
 泣きそうになる。
 僕は、このままで、こうしていていいんだ……。

 ぱしゃりという音とともに冷たい水が降りかかった。
 振り向くと姉さんがいた。空のコップを握り締めたまま、僕達をにらみつける。その顔は氷のように冷たく、怒りで震えていた。

 「どう? 冷えた?」

 松浦さんが僕からそっと離れる。僕をかばうように体を向けると、立ったままの姉さんに苦笑いする。

 「やあ、悠香。いい男にしてくれてありがとう」
 「私の生きがいを奪った罰よ。ねえ、人の弟を寝取るのってどんな気持ちなの?」
 「弟? 悠香こそ夏稀君をよく見ていない。夏稀君は夏稀君だ。悠香の所有物ではない」
 「そう。気分がよくないわ。帰る」

 姉さんが怖かった。怖くて仕方がなかった。

 でも、嫌だ。
 このままじゃ嫌だ!

 僕が思っていることを全部、話す。
 僕のこれからのために!

 「姉さん、行っちゃダメだ。話そう!」
 「嫌よ」
 「なら、ごはんだけでも、いっしょに食べようよ!」

 僕の必死な声に、姉さんが動きを止める。振り返ると、僕を見つめながら冷ややかに笑った。

 「夏稀。だいぶ変わったね。昔のほうがかわいかった」
 「お願いだから!」

 姉さんは、ハンドバックのストラップを握ると、ため息をついた。

 「いいわ。この映画が終わるまでね」
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