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第7話 神奈川のサービスエリアにあるフードコート
しおりを挟む無機質な光が真夜中の駐車場を照らしていた。
僕は、その片隅に立ち尽くしていた。
「ごめん……。姉さんは悪くないから……。気にしてない。うん、いまは……友達といる……」
姉さんと電話している。声が耳に滑り込むけど、言葉の意味を知る前に、家で聞いてしまった姉さんの喘ぎ声を思い出す。肌寒い嫌悪感が僕の体をずっと蝕んでいる。
「うん、いるよ。川上とか……。同じ高校の……。うん……」
車のヘッドライトが僕を照らして、また去っていく。ここは足柄サービスエリアと言うらしい。連れてきた松浦さんは「俺の秘密の逃亡先」と言ってた。
「女の子の恰好していたのは後で説明させて。いまはちょっといっぱいで……。ごめん……」
僕はうつむく。ずっとうつむいたままでいる。
人が来た。顔を上げると松浦さんだった。咥えたタバコが口元で赤く灯ると、紫煙が夜に紛れてく。
僕はまたうつむく。目を合わせたくはなかった。
「うん、うん……。ちゃんと帰るから。うん……。じゃあ……」
通話を切った。スマホを手にしたまま、僕は何も考えられずにいた。
タバコの灰を携帯灰皿に落とすと、松浦さんはぼんやりとしていた僕にたずねた。
「もう、いいのか?」
「はい……」
「君の姉さんに嘘をついてしまったな」
「松浦さんは友達だから……」
「ふむ……。そういうことにしとくよ」
世界が揺らいでいる。
女の子の姿をしていたのを見られた。
女になっていた姉さんを見た。
あんなに僕をやさしく見守ってた姉さんがこんな……。
松浦さん以外の人と……。
そして、同じ欲望が僕にある。
抱かれたいという欲求が体の中にある。
気持ち悪い。
男なのに。
吐きそうになる。
自分を殺したくなる。
こんな自分、早く死ねばいいのに……。
スマホをまっすぐ見つめたまま、僕はぽつりとつぶやいた。
「僕は、どうしたらいい……のかな……」
「どうしたらいいんだろうな」
「もう、わかりません……」
松浦さんの手が僕の頬に触れる。
「だいぶ冷えたな。そのワンピースでは寒かろう」
着ていた黒いコートを脱ぐと、僕にかけてくれた。
「少しはいいか?」
「はい……、あったかい……です……」
少し恥ずかしい。その気持ちを隠すように、両手でコートをつかんで引き寄せる。
「夏稀君、遠くへ行きたいって言ってたが……。どうだ、少しは気分が良くなったか?」
「……よく、わからないんです」
「頭の中で考えるよりも、いま思うことをそのまま吐き出したほうが楽になれるぞ」
そんなことしても、何も……変わらない。変わるはずがない。
のんきなアドバイスをする松浦さんに僕は怒った。
「松浦さんはいいの? なんで! 姉さんに浮気されたんだよ!!」
僕の肩を、ぽんと松浦さんが叩いた。
「腹が減った。飯を食うぞ」
◆◇◆
サービスエリアの建物の中は、少し薄暗く、そして寂しかった。磨かれた床のタイルが、所在なさげに広がっている。昼間はたくさんの人でにぎわっていたはずなのに、いまは静かな時間が流れている。
細長いおみやげ売り場のを先に進むと、薄い机と椅子が並んでいるのが見えた。フードコート、なのかな。そのまわりには、わずかなお店が開いていた。おなかが鳴りそうな、いい匂いがしている。
松浦さんは無精ひげをさすりながら言う。
「さて、どうしたものか。ラーメンはつらそうだな。ああ、うどん屋が開いている。あそこはうまかった。夏稀君、うどんでいいか?」
「はい、でも……。いまはそんなに食べられないかも……」
「残してもいいぞ。何でもいいからあったかいものを体に入れるんだ。そうしないと変な考えに取り憑かれる」
「変な考えなんか……」
「同じものでいいか?」
「え、あ……。はい……」
松浦さんが注文しに行く。僕は座ろうと、近くの椅子を引いた。ギギギという床を引く音が、がらんとした建物の中に響く。
座る。冷たい椅子の温度を感じる。体が少しずつ冷えていく。
「待たせたな」
僕の前に置かれたこげ茶色のトレイには、熱々の丼が乗っていた。その中には、白いうどんの波とつゆの海に、大きなかき揚げの島が浮かんでいた。
「赤いのはエビ……ですか?」
「桜海老だそうだ。名産地がここから近いからな。もう少し待っててくれ。俺のぶんも持ってくる」
「手伝います」
「まあ、座ってなさい」
そう言われて、浮きかけた腰をまた下ろした。
それから僕は、そのままじっとうどんを見つめていた。
白い湯気が薄暗い空気の中へ、ふわりと上がっていく。それは渦巻き、からみあい、そして消えていく。
僕もこんなふうに消えたい。消えてしまえば楽になれるのに。みんな楽になれるのに……。
トレイをテーブルに置くことりという音で、戻ってきた松浦さんに気がついた。僕の前の椅子に座ると、箸を持って「さあ、食べようか」と声をかける。僕はうなずくと、箸を持つ。では、いただきます。
ちゅるんとする! ふにゅっとする!
くにゅくにゅしちゃう!
みんな温かくなって心が溶けだしちゃうよ……。
だしつゆがあっさりとしている。うどんは少し柔らかめだけど、僕の冷たい体にはこれぐらいが嬉しかった。
そしてこのかき揚げ。ばりばりとしている。これをあたたかいめんつゆに浸してほろほろにさせる。それがうどんに絡み合うと最高においしい。エビの香ばしさも、衣のコクも、つゆのうまみも、みんないっしょになって僕を喜ばせる。
ほっとする。
じんわりとしたうどんの温かさが、体の中に巡っていく。
それは僕の冷たく縮こまった心を、少しずつ解きほぐしていく。
ふと松浦さんのほうを見ると、もうひとつ丼があった。
「こっちはシラス丼、ですか?」
「ああ。食べられそうなら、半分食べなさい」
どんな味なのか、興味がある。
僕は食べかけの丼をそのままもらう。
箸で一口取り、口に入れる。ん……、おいしい。醤油の風味がシラスにからむと、うまみをさらに引き出す。それにこのシラス……。身が大きいし、味が濃い。
「うまいか?」
「おいしいです」
「タンパク質に醤油は合うんだ。家では、クリームチーズにもおかかとわさびと醤油かけて食っている。これがまたうまい」
「おいしそうですね」
「よく晩酌のつまみにしてるよ」
僕達は今日初めて笑い合った。
「こういうご飯もいいですね。僕は好きです」
「ああ。俺もそう思う。ふたりだけだからな」
「誰もいませんしね……」
「行きづらい店で女の姿をした夏稀君と食う飯もいいが、こうしてふたりきりで食う飯も悪くない」
ここには誰もいなかった。
松浦さんと僕しかいなかった。
女装しなくても良かった。
それでもこうして女の恰好をしたまま、松浦さんとご飯を食べている。
「そう……ですね……」
僕は何のために女装していたのだろう。
僕の中の女は、いつ頃育ったのだろう。
いまの僕は何味、なのかな……。
うどんのつゆを飲み干すと、松浦さんはにこりと言った。
「飯食って腹が突っ張ったら、たいていの問題はどうでもよくなるもんだ」
「そんな単純な……」
「人間はそういうふうにできている。逆らうからひどい目に合う」
「姉さんもそうなんですか? あんなことしてる姉さんも……」
ざさなみ模様がついたコップの水を飲み干すと、松浦さんは僕を射貫くように見つめた。それから静かに、姉さんのことを教えてくれた。
「君の姉さんはそういう女なんだ。俺はそれを承知で付き合ってる」
「知ってたんですか?」
「ああ。俺以外の彼氏は、少なくても3人はいるようだな」
「なんで……」
「そんな彼氏たちの中でも、俺だけは弟の夏稀君に会えている。一歩リードしていると思っているが……」
姉さんはどうしてそんなことを……。僕は自分を責めながら、言葉を吐き出す。
「僕のせいなんですか……」
「どうだろうな。君の姉さんは、愛情が欲しくて飢えている。むやみに求めている。それは仕方のないことだ。誰かひとりの愛で埋め合わせられるほど、君の姉さん……悠香は強くない」
「そんなこと、僕には一言も……」
「言うわけはないだろう。君の女装と同じだ。言っても仕方ないことだ。お互い寂しいくせに、お互いを頼れない。代償行為をお互いに知ったら、そのことで傷つく」
「わかりません……」
「世の中は、わからないことのほうが多い」
姉さんと僕。
姉さんと松浦さん。
僕と松浦さん。
お互いのことを知ってしまった。
知らないふりをすることも、もうできない。
「僕は姉さんにどうしてあげれば良かったんでしょうか……」
松浦さんは僕に向かって、少し怒ったように言い始めた。
「いいか、夏稀君。他人のことはどうでもいい。いつでも信じられるのは自分の気持ちだけだ。他人のではなく、自分のだ。悠香ですら、所詮は他人だ」
「姉さんと僕はふたりきりなんです。僕がいることで、姉さんにずっと負担をかけている。松浦さんにだって。僕が消えたほうがいいのなら……」
「消えるな!」
松浦さんがあげた大きな声で、僕はびくっとする。
「でも……」
「人に左右されるな。君はわがままになるべきだ。だから……」
そんなことできない。だって僕は……、男なんだし。
見つめたまなざしの先で、松浦さんはしっかりと答えてくれた。
「夏稀君は女の恰好をしていてもいいんだ。それが君の本当の姿ならな」
◆◇◆
うどんを食べ終えたあと、松浦さんが「上へ行こう。いまの時間は、いい景色が見える」と言うので、ふたりで屋上にある展望デッキへ行くことにした。広い階段を上り、屋上につながるガラスのドアを開ける。山の匂いがする冷たい空気が、僕を通り抜けていく。
朝が来ていた。
黒い夜空は薄紫色へ変わり、地上のなにもかもを同じ色に染めようとしていた。
駐車場に停まる車も、アスファルトの道も、あたりに広がる木々も、みんな薄紫色にしていた。
「ほら」
松浦さんが指差すほうを見た。
夜明けの富士山がそこにいた。
かぶっている白い雪も、ふもとの黒い森も、みんな空と同じ薄紫色に包まれていた。
それは異世界のように思えた。ここではないどこか違う世界の景色に思えた。
僕は自然と感情が口からこぼれた。
「きれい……」
「この風景を見てきれいだと思うんなら大丈夫だ。その気持ちを信じるといい」
染められていく富士山を、ずっと眺めていた。
手すりにつかまりながら、ずっと見つめていた。
松浦さんは、そんな僕を見守ってくれていた。
でも、もう……。
「もう、終わりですよね」
「そうしたいのか?」
「いえ……。姉さんも心配するでしょうし、松浦さんへ迷惑をかけるのも……」
これ以上は許されない。
だから、もうここでおしまいにしたほうがいい。
そういうふうに信じ込む。
「夏稀君。いま本当に思ってることを言ったほうがいい。俺はそれを待つよ」
この人は……。
ずっと僕を見ていてくれた。
憎まれ口を叩かれようと、ずっと自分のそばに寄り添って……。
泣きそうになる。
なんで、この人は……。こんな僕なんかに……。
うつむいたまま、許されないと思ってた想いを、僕は途切れがちに言った。
「しばらく……松浦さんといたい……です。まだ……気持ち悪くて……。まだ……帰りたくなくて……」
「わかった」
松浦さんはタバコを口に加え、慣れた手つきで火をつけた。
「それなら好きなだけいていい。悠香にはあとで話しておく」
あふれないようにがんばっていたのに、僕はとうとう泣き出してしまった。しずくは頬を伝わり、ウッドデッキへ何度も落ちていく。僕は泣いてしまった言い訳を必死に考えながら、松浦さんにたずねた。
「ねえ、なんで……。なんで、そんなに優しいの、かな……。優しすぎ……」
松浦さんが僕に近づく。袖で涙をぬぐう僕を見ながら、少し困ったように言う。
「なんでだろうな。まあ、言えるのは……。これが俺が信じてる気持ちだよ」
「浮気している彼女の……弟なのに?」
「夏稀君だからだよ」
その言葉を聞いた瞬間、僕は無意識に松浦さんの袖を引いていた。
「ごめん……」
謝った。そして誤ってる。
でも、そうして欲しかった。
松浦さんは、ただ、こう言った。
「今日だけだぞ」
抱き寄せられる。
ゆっくり包まれる。
タバコの匂いがした。
あれだけ嫌っていた男の人の匂いがした。
それがいまの僕を安心させている。
女の子のきれいなところ。
女の子の汚いところ。
僕の中にはいまそれが両方ある。
姉さんと同じように両方ある。
僕は矛盾してる。
僕は何なんだろう。
僕はどうしたらいいんだろう。
抱き締められながら、何度も自分に問いかけていた。
松浦さんが手にしていたタバコから煙が上がる。あのうどんの湯気と同じように渦巻いて、薄紫の世界に消えていった。
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