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第5話 気になる人へ作るハンバーグ

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 どうしよ……。

 知らない台所の前に、僕はぽつんと立っていた。小さなまな板、切れない包丁、ボールがない、菜箸がない……。普段使っている我が家の台所と、こうも違うものかと困り果てていた。

 「何か手伝うか?」

 カウンターキッチンの向こうから、松浦さんが心配そうに声をかけてくれた。僕は小さな鍋を流しの下から取り出し、ちょっと怒ったふりをしながら言い返した。

 「ボールと菜箸を買ってください。あと鍋つかみも。まな板は木のがいいです」
 「エプロンは買ってあるだろ?」
 「そうじゃなくて……。次に僕が来るまでに買っといてください。いいですね?」
 「ああ、わかった。また夏稀君のエプロン姿が見られる、ということだな」

 僕をじろじろと見ながら、松浦さんがにやにやと言う。今日の僕は、デニムシャツに夏色のスカート、その上に松浦さんから借りた猫柄のエプロンをつけていた。彼氏の家に来た彼女ぽい格好……と、自分では思っている。ちょっとだけ。ちょっとだけだから。
 僕は苦笑いの表情を作り、まだ真新しいエプロンの端をつかみながら言う。

 「もう。それはどうでもいいです」

 いつもの僕と、いつもの松浦さん。ただ、それだけで、僕の体はほんにゃり味になっていく。

 ああ、もう。急がなきゃ。浸ってる時間なんてない。ないものはなにかで代用しよう。よし、臨機応変。うんうん。

 近くのスーパーで買ってきた食材を手早く買い物袋から出していたら、スマホがカウンターの上でぶるっと震えた。丸山さんからだ。画面には「肉だ。奴に肉を食わせとけ! 早く食わせとけ! まだかー! 結果を送れー!」というメッセージが表示されていた。

 委員長の言葉に打ちのめされたあと、丸山さんたちに元気にさせられて、それからふと「松浦さんにお礼をしなくちゃ」と思った。松浦さんは、僕が困りそうなことを姉さんには告げずにいてくれた。家まで送ってもらったり、これまでだって……。だから、何気なく丸山さんへ「男の人へのお礼って何がいいのかな?」とメッセージを送ってしまった。そしたら、すぐに電話が来て「肉だ肉。男なんか肉を食わせておけば、おーるおっけーだっっっ!」とまくし立てられた。

 肉……。肉、ね……。

 いろいろ考えてみたけれど、結局我が家特製のハンバーグを食べてもらうことにした。あれならハズレがない。どうせなら、熱々のところを食べて欲しいけど……。そんなふうに松浦さんへ話したら「なら、うちで作るか?」と言い出した。僕は「ありがとう。でも、ただのお礼だから変な考えにならないでね」と、松浦さんへむすっと告げる。勝手を知らないお勝手で、勝手に作るハンバーグ。でも、なんだかちょっとだけ、そうできることが嬉しかった。

◆◇◆

 小さな鍋をボール代わりにして、そこへ合い挽き肉をどさっと入れる。塩をひとつまみ加えたら、右手にビニール袋をかぶせて肉を揉みこむ。ひゃー、冷たい。耐えきれなくなったらお湯でちょっとだけ手を温める。粘り気が出てねっとりしてきたら、家であらかじめ作っておいた、バターで炒めた玉ねぎ、牛乳につけて柔らかくした食パンを入れ、卵もひとつ割り入れる。

 カウンター越しに興味深そうに見ていた松浦さんが、僕に向かってぽつりと言う。

 「手際がいいな」
 「姉さんはハンバーグが好きで、よく作ってますから」
 「なんだか……ずっといっしょに暮らしてる奥さんのようだ」
 「そこは新婚さんとか言ってくださいよ」
 「だめだ。手つきが玄人すぎる。お、いま入れたのはなんだ?」
 「ウスターソースです。ナツメグとか胡椒とかよりも、味が良くなるんです」
 「ほう。すごい工夫だ」
 「ほかは基本に忠実ですけどね」

 むちゃむちゃと鍋の中身を混ぜていく。滑らかになると少し触り心地がいい。できたタネを三等分にして鍋に戻す。ラップをかけながら、松浦さんにたずねる。

 「そろそろ姉さんは着く頃ですか?」
 「ああ。今日は店を早引けしたらしい。夏稀君のことが心配なんだろう」
 「……ごめんなさい」

 迷惑をかけたのはわかっている。だから、姉さんにも、お礼として、このハンバーグを作っている。でも、松浦さんのは意味が違くて……。
 それ以上何も言えなくなった僕へ、松浦さんが冗談ぽく声をかける。

 「残念だな。夏希君のいまの姿がもうすぐ見納めになるとは」
 「そんなの、別にいいじゃないですか」
 「女の子の姿にエプロンの組み合わせは、とてもよく似合っているんだがな」
 「残念でしたね。下はスカートですけど、上はユニだから男物でも女物でもないんです」
 「変わらんよ、その姿じゃ……」

 ピンポーンという音が台所に響いた。姉さんだ。やば。

 「ト、トイレで着替えてきます!」
 「ああ、そうしてくれ」

 僕はリビングの椅子にかけといたトートバッグをひったくる。すぐに中身を探す。

 「あ、あれ……」

 ない、ズボンがない。
 ないっっっっ!

 まさか家に忘れてきた? しまい忘れないようにソファーにかけといたのに! もう一度探そう。……やっぱり、なーい!

 「どうした?」
 「着替えを……忘れて……」

 スカート姿の僕は、半泣きのまま松浦さんを見つめた。いらいらとした呼び鈴の音が、僕をますます焦らせる。

 「仕方ないな」

 ……え?
 松浦さんがベルトに手をかけ、がちゃがちゃとズボンを脱ぎだした。ボクサーパンツとワイシャツという、なんとも言えない姿になった松浦さんが、脱いだズボンを僕に手渡す。

 「これを履いておくといい」
 「ちょ、ちょっと、松浦さん!」

 すたすたと松浦さんは玄関の方に歩いていく。そのまま玄関を開けようとしている。
 ああ、もう!
 僕はあきらめた。すぐにスカートをばさりと脱いで、トートバックの奥へ突っ込んだ。

 玄関のドアが開く。暗い夜空を後ろにして、少しいらっとしていた姉さんが立っていた。何か言いかけたあと、松浦さんの姿を見て、ぷふと吹き出す。

 「何それ。パンツ一丁で何してんの?」
 「ああ。それはだな」

 僕は松浦さんの後ろから顔を出す。ズボンが落ちそうになるのを必死に手で抑えながら、嘘をつく。

 「りょ、料理中に濡らしちゃって! だから松浦さんからズボン借りてた」
 「ほんとに?」

 疑わしそうに姉さんは僕をのぞき込む。

 「ほんとだよ」
 「ああ、そうだ。でも、夏稀君にはちょっとぶかぶかだったな」

 そう言った松浦さんに向かって、姉さんは犯人を問い詰めるようにたずねる。

 「変なこと、してないんでしょうね?」
 「して、どうする」
 「あやしい」

 そう、言われても……。
 僕が困っていたら、姉さんは急にゲラゲラと笑い出した。

 「あはは、ふたりでなにしてんだか。ばかみたい」
 「……ごめんなさい」
 「ねえ、夏稀、ごはんにしよ。おなか空いたんだ。店で何も食べれなくて」
 「うん。いま支度するよ」

 姉さんはにっこりと僕へ微笑んでくれた。少しも疑わずに、いつもと変わらないように。

◆◇◆

 白い布をかけたテーブルの上には、湯気がふわりとあがる大きなハンバーグ、瑞々しいクレソンのサラダ、家で作ってきたマッシュルームのポタージュ、つやつやなライスが並んでいた。
 我ながらいい出来。100点出してもいいんじゃないかな。
 松浦さんがハンバーグを見ながらつぶやく。

 「なんというか、でかいな。店で食うやつの3倍ぐらいはありそうだ」
 「うちのハンバーグは、いつもこの大きさなんだよ」
 「そうなの。美味しんだから。さ、温かいうちに食べよっか」

 姉さんはよだれを垂らしそうになりながら、僕たちをうながす。
 ナイフとフォークを持って、いざ。いただきます。
 はむっ。


 ふぐぅぅっっっ……って、姉さんが見ているから控えめで……。
 じゅわりと肉汁が口の中にあふれちゃうっっ!
 うんっっっ。好き、これ好き……。ふにゅっっっ。


 ハンバーグはやっぱりおいしい。ナイフで切って口に運ぶ。噛む。よく肉をこねたから弾力がある。それから肉が焼けた香ばしい臭いと、ズンと来るうま味が口の中であふれ出す。
 つなぎがない100%お肉のハンバーグもいいけれど、やっぱり炒めたたまねぎが加わったこの味のほうが、僕はだんぜん好きだ。
 ステーキも肉汁がじわりと出るけれど、ハンバーグのそれとは違う。これはうま味を足して、さらに肉汁を逃さないようにつなぎを入れたハンバーグだからこそのおいしさだ。

 松浦さんが「うまいな」とつぶやきながら、口をもぐもぐさせてる。
 良かった……。僕はちょっと安堵する。
 好きな人に好きなものを作って食べてもらう。それは僕をうれしくさせる。すごくうれしくなる。

 おいしいお肉を食べれば、丸山さんが言う通り、おーるおっけーのようだ。それは料理を作った僕もそうだった。ハンバーグを何度も口に運んでおいしそうに食べてる松浦さんを見ながら、僕はそんなふうに思った。

 ハンバーグに絡むソースをフォークの先にとって口に運ぶと、松浦さんが僕へたずねる。

 「ソースはケチャップとウスターソースか?」
 「そうだよ。ハンバーグを焼いていたフライパンでちょっと煮詰めただけ。あ、バターを少し入れてる。そうすると味がまとまるんだ」
 「このポタージュもうまいな。キノコがこんなにおいしいとは思ってもみなかった」
 「軽く炒めてから蓋をして、弱火で汗をかかせてる。そうすると甘味が増すよ」
 「クレソンのサラダも夏っぽくていい」
 「スーパーで安かったんだ。粒マスタードにオリーブオイルとレモン汁を混ぜて絡めてる。少し酸味があるほうがハンバーグに合うかなって思って」
 「すごいな。どこでそんなことを覚えてくるんだ?」

 どこって……。テレビとかネットで動画見て……。
 学校にも行かずにそんなことしてる僕は変かな……。

 どう話そうと困ってたら、姉さんが自慢するように言った。

 「ふふーん。夏稀においしいものを食べさせると、こうやっておいしいものを作ってくれるの」
 「ああ。それはなんというか、正解だ」
 「でしょ? だから、これからも夏稀をいろんなとこに連れてってあげてね」
 「ああ、それは良いが……」

 松浦さんは姉さんを見つめながら、少しおどけたように言う。

 「なあ、悠香。夏稀君を嫁にくれ」
 「だーめ。私のなんだから」

 姉さんはくすりと笑った。
 それは仲の良い恋人同士の、じゃれあうような会話だった。

 少しぶかぶかなズボンの端をぎゅっとつかむ。

 ……だめだよ。笑わなきゃ。そうしないとおかしいよ。

 僕はふたりを見守るように微笑む。それでも思ってはいけないことが、じわりと染み出る。

 ……松浦さんといたい。ご飯をいっしょに食べたい。ふたりだけでずっと……。

 心にあふれ出した想いを肉汁といっしょに、僕は喉の奥へ流し込んだ。
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