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第二章

深海までは何マイル?①

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 運河の見えるカフェで、夕陽は目の前に置かれたカプチーノに口をつけることなく、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
 一か月に渡る訓練航海を終え、乗組員達は交代で五日間の休みを与えられた。
 その上陸休暇の初日。
 話がある、と言われてこのカフェを指定してきたのは敏生だった。航空隊の基地がある綾瀬から、わざわざ離れたみなとみらいでの待ち合わせ。
 あの演習での一件以来、二人の間にはどことなく気まずい空気が流れていた。
 自分の非を認め、必死に赦しを乞う夕陽に、敏生は途中から目を合わせてもくれず、
「もういい、分かったから!」
 と、話を畳まれてしまった。
 あれから一か月。
 あんなにことあるごとにアプローチしてきていた彼が明らかに自分を避けているそのよそよそしい態度に、夕陽の気分は沈んでいく一方だった。そして昨日、下艦時に気まずそうな表情で渡されたカフェの場所と時間を書いたメモ。
 何でみなとみらい? デートの時は最寄りのさがみ野駅で待ち合わせしてたのに。
 もしかして、別れ話……?
 それなら合点がいく。隊関係者に修羅場なんか見せられないだろうから、わざわざ離れたこんな場所を指定してきたのかもしれない。もともと女には全く不自由しない彼。こんな面倒くさくてちんちくりんな自分なんか、さっさと見切りをつけられて当然かもしれない。
 あたし、もうダメなのかな……。
 じんわりと涙が浮かんでくる。待ち合わせの時間まであと十分。彼と会うのが怖い。
 でも……逃げちゃダメだ。
 ぐるぐると頭の中で思考を巡らせていると、目の前の席にドカっと男が腰を下ろした。
 誰? コイツ……。
「キミ、かわいいねぇ。ね、ヒマしてんなら俺と遊ばない? おごってあげるよ?」
 大学生くらいだろうか? そこそこのイケメンには見えるが、これで勘違いしているとあっちゃ痛すぎる。
 はぁ……。本当に最悪。ウザい……。朝っぱらから。
 こういうアホなやつはガツンと分からせてやるに限る。
「いいわよ。ただし、あたしに腕相撲で勝ったらね」
「えっ? マジで? よっしゃあー」
 自衛官とさえ言わなければ誰もが振り向く華奢でかわいい女の子。実年齢よりも若く見える彼女は、これまでもこの手の輩をたくさん相手にしてきた。
 夕陽はカプチーノを右側・・に寄せるとテーブルに肘を立てた。
「え? それじゃあコーヒーこぼれちゃうよ?」
「いいのよ、どうせあたしが勝つんだから。ほら」
 夕陽がバカにしたように大学生を挑発すると、彼はムッとした表情で夕陽の手を取った。
「キミのようなかわいい娘とデートできるんだ。手加減しないよ?」
 夕陽は溜め息をつくと窓の外に目をやった。
「いいから早く始めなさいよ。時間ないんだから」
 その言葉でカッとなった彼が一気に力を入れた。が、夕陽はびくともしない。
 当たり前じゃない。あんたみたいな優男に負けて九Gの中操縦桿を握れるかっつーの!
 バァン!!
 店内にオオッ、と歓声が上がる。
 結果は夕陽の完勝で、大学生の彼は苦痛に手首を握り締め、顔を歪めていた。
「おととい来なさい? ボウヤ」
 周りでクスクスと女性達の笑い声が聞こえ、彼は恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にすると、夕陽を睨みつけた。
「お、俺は手加減したんだ! な、なのにツケあがりやがって!」
 ゴンッ!!
 突然響き渡る鈍い音。
「はいはーい、それまで。彼女を誘いたいならもっと男を磨いてこようね? ボクちゃん?」
 その声で夕陽が顔を上げると、敏生が笑顔を浮かべながら大学生の頭をテーブルに押さえつけていた。
「あ、強くなりたいならこれあげるよ。ただいま水兵さん募集中♪」
 そう言って、敏生が自衛官募集のチラシを彼の前に差し出すと、大学生は敏生の筋肉質なガタイと絶対的なルックスに分が悪いと判断したのか、慌てて転げるように店を逃げ出していった。
「なんだよ、せっかく親切に誘ってやったのに」
 敏生はつまらなさそうに呟くと、夕陽の前に腰を下ろした。
 その色男の派手な登場に周りの女性客達がチラチラと彼を盗み見しているのが癪に障る。
「よお」
「おはよ…」
「なんだよ、シケたツラして。あ、そこの綺麗なお姉さん、おしぼり二つもらえるかな?」
 敏生に声をかけられた女性店員が頬を上気させながら、慌てておしぼり二つと水を持ってきた。
 ちょっと、なに店員に色目使ってんのよ!? 面白くない。全くもって面白くない。
 敏生をキッと睨むも、彼は全く我関せずといった様子でおしぼりの封を切り、
「夕陽、右手」
 と言ってこちらを見た。
「え?」
「いいから」
 わけも分からず右手を差し出すと、敏生は夕陽の手をゴシゴシと拭き始めた。
「他の男の手垢なんかつけやがって。全くもって気に食わないね」
 それって……。
 夕陽は耳まで真っ赤になった顔を敏生に見られないよう、慌てて俯く。そして左手を胸に手をやり、軽く呼吸を整えると、
「で、話って何?」
 と、努めて冷静に尋ねた。
「ん? ああ、まあなんだ。その、夕陽とデートしたかっただけ。普通に誘っても来てくれるか不安だったからさ」
 ………は? なんじゃそりゃ……?
「いや、ほら、あれ以来俺ら、なんとなく気まずかっただろ?」
「ちょっと待って! あの後、あたし敏生に謝ったじゃん! でも、敏生ずっと怒っててあたしに対してずっとよそよそしくて!」
「ああ、それはその……オトナの事情ってやつ?」
「…………あたしがガキだって言いたいの?」
「あ、いや、今の失言! ゴメン! 元はと言えば俺が悪かったんだ! この通り謝る!!」
「ちょっとやめてよ! こんなところで!」
 突然テーブルに手をついて額を擦り付けた敏生に夕陽は慌てふためいた。
「いや、やめない! お前が許してくれるまで!」
「分かった! 分かったから! もう頭を上げて―っ!!」
 この光景、デジャヴだ。完全にデジャヴだ。
 彼と付き合い始めてから幾度となく繰り返された光景。彼の女タラシたる所以ゆえん。でもあたしはこの先、たとえどんな目にあっても、きっと何度でも彼のことを信じてしまうのだろう。だって、彼のことが好きだから。好きで好きでたまらないから。
 本当にあたしってバカなオンナだよね…。
 夕陽は自嘲気味に溜め息をつくと、敏生から視線を逸らした。
「大体、何でこんなところで待ち合わせなのよ?」
 ああ、と、敏生はホッとした様子で体を起こすとテーブルに肘をついて身を乗り出した。その仕草に夕陽の心臓が跳ねる。
 そのカッコウ、やめれ。かっこいいとか思っちゃうから。
「いや、お前の観たがってた映画、ここら辺じゃもうここしかかかってなくてさ」
 今回の出航前にぽろっと呟いた話。そんなの覚えててくれたんだ……。
「じゃ、じゃあ、さがみ野から一緒に来ればよかったじゃない」
 キュンと鳴る胸が悔しいのでとりあえずは突っ込んでみせると、彼はガシガシと頭をかいた。
 気まずい時に出る彼のクセ。こんなところがつい可愛いと思ってしまう。アバタもエクボとはよく言ったものだ。
「先にちょっと用事を済ませておきたくてさ」
「用事……?」
 敏生は姿勢を正すと夕陽を見つめた。
「ちゃんと別れてきた。あいつと。ほら、今回の出航前にお前に喧嘩売ってきた……」
 そのひと言に夕陽の時間が止まった。やがて胸に、目頭に、熱いものがこみ上げてくる。
 もう、だからコイツは……。
「バカ……。言ってくれたらあたしも一緒にいったのに」
「俺が蒔いた種だ。お前にこれ以上嫌な思いはさせたくない」
 敏生はおもむろに立ち上がると、俯く夕陽の横に歩み寄り頭を撫でた。
「行こう。映画始まっちまうよ」
 夕陽はコクンと頷くと、滲んだ涙を指で拭い立ち上がった。
「もーう、今日は一日楽しませろよ?」
「お安い御用です、姫」
 敏生は笑うとスッと手を差し出す。夕陽はその手を取ると、少しはにかんで彼のエスコートに身を任せた。紆余曲折の末の、久しぶりの二人のデートの始まりだった。
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