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第一章
イデア①
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あの頃、あたしは多分―――――、
ううん、間違いなく、あなたと一生分の恋をした―――――
第一章 イデア
どこまでも広がる、絵に描いたような青い空と海。空では海鳥たちが賑やかに舞い、海ではイルカたちが優雅に戯れる。
遥か向こうに見えるのは丸みを帯びた神秘的かつ優美な水平線。それは人間がこの雄大な自然の中で、いかにちっぽけな存在であるかを思い知らせてくれる。
ゆえに、古来よりこの海に浮かぶ島々の住民たちは、海の彼方にこそ神々の住む楽園があると考え、そこをニライカナイと名付けて信仰の対象としたのだろう。
その大海原をゆくのは大自然に似つかわしくない武骨なシルエットの一群。
圧倒的な威圧感を漂わせ、悠然と進む様は明らかに客船や貨物船といった類のものではない。そして一群の中心に鎮座するのは一際巨大なグレーの艦影。全通式の広い甲板にアイランド型の艦橋、艦尾にはためく真紅の旭日旗。
海上自衛隊が誇る航空機搭載護衛艦・DDH183「いずも」だ。
いわゆる「軽空母」とも言える陣容を誇るこの海上自衛隊史上最大の戦闘艦は、東アジア周辺諸国からは軍国主義復活の懸念と共に常に警戒の対象とされる一方、東南アジア諸国からは強力に軍拡を推し進める中国に唯一対抗できる存在として、そのプレゼンスが期待されていた。
そんな良くも悪くも国内外の衆目を集めるこの巨大な戦闘艦の艦橋の裏手で、ひとりキャットウォークの落下防止柵に肘をつき、思い詰めた表情で大海原を見つめる白い制服姿の女性。
吹き荒ぶ冬の津軽海峡で、かつ連絡船のデッキであればその姿はもっと様になったのかもしれないが、ここは穏やかな風と陽気がとても心地良い春の南西諸島沖。物憂げな表情が似つかわしくないことこの上ない。
年の頃は二十代半ば、背丈は一六〇前後といったところか? 黒髪のショートボブでなかなかに愛らしい顔をしている。街中であればきっと男どもが放っておかないだろう。そう、彼女の職業にドン引きする男でなければ。
彼女は神月夕陽三等海尉。
「いずも」航空隊戦闘飛行隊に所属する、自衛隊初の女性戦闘機パイロット。TACネーム(部隊内通称)は「イデア」。そして彼女が搭乗するのは世界最強との呼び声高い、第五世代の最新鋭戦闘機・F35BライトニングⅡだ。
急速に軍拡が進む周辺諸国との軍事的均衡を保つため、急遽、海上自衛隊初の戦闘機による飛行隊が創設され、本来ヘリコプター搭載護衛艦であった「いずも」に配備されたのは今から一年半ほど前のこと。もっとも機体は米国からの完成輸入で何とか間に合わせたものの、パイロットの方は独自の錬成ノウハウがあるわけも無く、航空自衛隊の若手戦闘機パイロットの中からの選りすぐりで編成されることになったのだった。
ゆえに、「いずも」戦闘飛行隊に所属していること自体がエリートパイロットの証であり、彼女もまた、女性でありながら前所属の航空自衛隊千歳基地二〇一飛行隊でトップガンの称号を手にした期待の若手精鋭パイロットだったりする。
だが、当の本人達には全くその自覚はないようで―――――
「なんだ、ここにいたのかよ」
背後からかけられた男の声に彼女の肩がピクリと震える。
「何の用?」
誰なのかは声で分かる。振り返ることなく、海を見つめながらぶっきらぼうに呟く。
「ツレねえな。ちょっとは俺の話聞けよ」
彼が肩に手をかけようとするのを払いのけると、夕陽は振り返って彼を睨んだ。
「気安く触わんないでよ、この浮気男!」
その強気そうに見える目には涙が滲んでいる。
「あたしのこと遊びなら遊びって言って欲しかった! あたしばっかり本気になって初めてまで捧げて……バッカみたい!!」
彼女は一気に感情を押し出すと、その場から走り去ろうとして彼に抱き止められた。
「ちょっ、離して!」
「……誰が遊びだって?」
「あんたよ! どうせあたしはその他大勢の一人なんでしょ!?」
「あいつに何言われた?」
「……あんたと結婚するから手を引けって」
その言葉に彼は盛大に溜め息をつくと、真剣な眼差しで夕陽を見つめた。
スラリとした長身に端正な甘いマスク。制服姿でなければ、男性モデルと言われても疑う者は誰一人いないだろう。彼の手が頬にかかる。その熱に心臓がトクンと跳ねてしまうのがとても悔しい。
「遊びなのはあいつの方だ。俺が愛してるのは夕陽、お前だけだ」
「嘘!」
「嘘じゃない。遊びなら面倒くさい処女なんかに手ェ出さねぇよ」
「………面倒臭くて悪かったわね」
「あ、いや今のなし。失言。えっと、ああもう、とにかく俺はお前のことが好きなの! マジで!!」
開き直ってばつが悪そうに頭をガシガシとかく様子は、先ほどまでの二枚目キャラとは打って変わって子供のようだ。
彼は門真敏生二等海尉。
夕陽と同じく「いずも」所属のF35BパイロットでTACネームは「ガイア」。
一見ちゃらんぽらんな印象の彼だが、高卒の航空学生出身である夕陽と違い、防衛大学校を優秀な成績で卒業した後、米国空軍での教育課程を経てパイロットとなった筋金入りのエリート。年齢も彼の方が二つ上だ。
そして特筆すべきは彼が「航空自衛隊始まって以来の天才パイロット」という称号を得ていること。
「いずも」転属で初めて彼と出会ったとき、「北空の魔女」と呼ばれ腕に覚えのあった夕陽にとって、噂に聞いていた彼は倒すべきライバルだった。だが、何度手合わせをしても彼には全くもって歯が立たなかった。そして、その悔しさは圧倒的な実力差を前にしていつしか畏敬の念に取って代わり、それはやがて恋心に変貌を遂げた。
周囲からは必死に止められた。女にだらしがない。泣かせた女は数知れず。
空自時代、若くして一騎当千の猛者が集う新田原の飛行教導隊に所属していた彼の悪い噂は、彼女が遠く離れた千歳にいた頃からその腕前と共に耳にはしていた。
だが、一年半の長きに渡る彼のあまりにも熱いアプローチに、ついには初めての身体を許してしまった。
惚れた弱味。目の前に彼が寝た数多の女が現れ、嫌というほど現実を見せられようが、彼の言葉をどこかで信じたいと思ってしまう自分がいる。
「だって、だってあの女の人が……」
「黙ってて悪かったよ。でもな、俺が本当に愛しているのは夕陽、お前だけだ」
「でもっ……」
敏生は胸ポケットからスマホを取り出すと、夕陽に差し出した。
「出航前に全ての女に詫びを入れてきた。もう、俺にはセフレ一人いない。携帯番号も全て消した。女はお前の番号だけだ。確かめてくれてかまわん」
「敏生……」
真剣な彼の眼差し。二人の視線が絡み合う。やがて夕陽はそっと視線を外すと、ふっと鼻を鳴らした。
「……携帯、もう一つ持ってるでしょ?」
その冷たいひとことに敏生がギクリとした表情で目を逸らす。沈黙。
やがて敏生はイタズラを見つかった子供のように、しぶしぶポケットからもう一つの携帯を取り出した。
「す、好きにしろよ」
「敏生……」
夕陽はそれを受け取ると、何のためらいもなくポイッと海に投げ捨てた。
「あ゛―――――!?」
「何よ? 好きにしてよかったんでしょ?」
「あ、いや、その、海に捨てるのはまずいんじゃないでしょうか……、その、金属リチウムが生態系に及ぼす影響とかですね…」
長年に渡るナンパ人生の文字通り汗と涙の結晶を夕陽に瞬殺され、敏生はしばらくの間茫然としていたが、気を取り直すと夕陽を見つめた。
「好きだ」
彼女の頤を持ち上げ、そっと唇を重ねる。抵抗はない。柔らかいマシュマロのような唇がぎこちなく微かに震えている。ひと月ほど前に初めて抱いた身体。
空自初の女性戦闘機パイロットである「北空の魔女」の噂は彼がいた新田原にも届いていた。
男を一切寄せつけない無愛想で冷やかな態度とその無慈悲な戦いぶりに、先輩パイロット達から有名なロールプレイングゲームに登場する魔女の名前をTACネームとして名付けられてしまった彼女。
同業の女性は端から恋愛対象外であった敏生にとっては、そのエピソードも相俟って全く眼中にはなかった。だから初めて夕陽と出会った時の衝撃は今でも忘れられない。
ルックスもさることながら、戦闘機パイロットにしてはあまりにも小柄で華奢な体躯。
この娘が……千歳のトップガンだって?
完全な一目惚れ。男社会の厳しい世界を、小さな身体でもがき苦しみながらも必死に泳いできたであろう彼女に、一瞬のうちに心を奪われた。
自分のことを強烈にライバル視する彼女に怯むことなく、出会ってその日のうちに想いを告げた彼は、男性経験がなく逃げ惑う彼女に真正面から当たり続けた。たまに悶々とする思いから他の女達をつまみ食いはしたものの、一年半の時を経てようやく撃墜した大切な宝物。
口説き落とした瞬間、よそ見されてなるものかと、戸惑うウブな彼女を慮ることなく、ファーストキスから初体験までを一気に奪い去った。
女タラシの面目躍如。だが、脇の甘さもまた彼らしいといえば彼らしかった。次々と二人の間に現れる過去(?)の女達。夕陽の表情を曇らせたくない一心で、敏生は彼女達に一人一人会っては最後の一発をかましたい衝動を必死に抑え、別れを告げてまわった。
もっとも、人妻や彼氏持ちといった後腐れのない連中はキープしておこうと思っていたのだが、それももはや夕陽の手によって海の藻屑だ。
そう、俺にはもうこいつ一人だけなんだ!
そう考えるとなぜだか無性にムラムラしてきて、敏生は彼女の背中に添えていた右手を下ろすと、夕陽の形のよいヒップを鷲づかみにした。
「―――――!?」
突然の彼の暴挙に驚き、離れようとする夕陽をガッチリとホールドしてその唇を貪る。あまりの激しさに彼女の悩まし気な声が零れ、それが一層彼を煽る。
クソッ、何でこんなに可愛いんだよ!?
止まらなくなった彼は、彼女の制服の白いスカートをめくりあげると、その中に手を這わせて―――――
ゴンッ!!
「痛っ!」
突然繰り出された彼女の頭突き。
さすが米軍からも〝Northern Witch〟と称賛されるだけの女……。ってか、この色っぽいシーンで女が頭突きするか普通!?
「敏生のバカっ!」
額に手を当てながら視線を上げると、夕陽がスカートを押さえ、目に涙を溜めて自分を睨みつけていた。
「やっぱりあたしの身体だけが目当てなんでしょ!?」
「ちげえよ! ってか好きな女に欲情して何が悪い!」
パシンッ!!
左頬にヒットする彼女の強烈な平手。
「バカ! 敏生の助平! 時と場所考えろっ! もう知らないっ!!」
そう叫ぶと夕陽は目を擦りながらその場から逃げ出してしまった。
「いってぇ……」
頭突きに平手。面倒くさい女だと最初から分かってはいたが、まさかここまでとは。これまでの女達とは勝手が違い過ぎて、それが逆に彼の心を一層激しく揺さぶる。
「振られてやんの。ひでえ男」
背後から聞こえてきた笑いを含んだその声に振り向くと、防大の一期先輩で悪友の刑部太一二等海尉が馬鹿にしたような表情でこちらを眺めていた。
「こんなところでオッパジメようとするか普通。神月のことになるとお前、本当に見境ないのな」
「最後までするつもりはなかった」
「あれでか?」
刑部はクックッと笑いながら敏生の肩に腕をかけると、親指を立てて背後を指した。
「少なくとも〝こんごう〟のワッチは神月の白のパンツを見たぞ」
彼が指すその五〇〇メートルほど先には艦隊防空を司るイージス艦〝こんごう〟が遊弋していた。
「……つうことはお前も夕陽のパンツ見たのか!?」
「こんなところでめくりあげたお前が悪いんだろ」
それを言われてはグゥの音も出ない。刑部は、苦虫を噛み潰したような複雑な表情の敏生の頭をからかうように撫でまわした。
「空自一の天才パイロット、もとい、米軍からも稀代のWomanizerと謳われるお前があんなガキンチョに手をこまねいてる姿が純粋に笑える」
「マジで好きなんだから仕方ないだろ」
悪友に散々に馬鹿にされて敏生は子供のように膨れた。
「純愛だねぇ。まあでも既にやっちまったから純愛じゃねぇな。全く、めんどくせえ生娘に手ぇ出しやがって」
「遊んだ女とデキ婚した脇の甘いやつに言われたくねぇよ」
「おっと、俺はどうでもいい女とはナマでしねぇよ?」
刑部はニヤッと笑うとポケットからスマホを取り出して画面を敏生に見せた。
「どうだ? 俺の新しいオンナ。可愛いだろ? 肌なんかムチムチしててさ」
「まさかあの鬼畜なお前がここまで親バカになるとは」
彼とは防大時代からの付き合いで、それこそ休みのたびに二人でクラブに繰り出しては女漁りを繰り返していた仲。そんな男がスマホ画面に映る性別すら判然としない赤ん坊にアホみたいに目尻を下げている。
「いいぞ、娘は。この歳にして世の父親が嫁に行かせたくない理由が分かった」
「お前みたいな男には特にな」
「ぬかせ」
敏生の突っ込みに笑うと、刑部は胸ポケットにスマホをしまった。
「午後からは古巣との合同訓練だ。それまでに〝イデア〟の機嫌は直しておけよ。周りがやり辛くてしゃあない」
そう言って刑部は敏生を指差すと、艦橋の中に消えていった。
彼の言わんとしていることは分かっていた。海上自衛隊は基本的に艦内での恋愛はご法度だ。艦内における女性自衛官の居住区もよほどのことがない限り立ち入り禁止で、艦長ですら立ち入りを躊躇するくらいである。長期に渡る航海の中、禁欲生活を送らざるをえない乗組員達を刺激しないための海の掟。
そもそも個人携帯ですら防衛機密保持の観点から乗艦中は所持禁止となっている。持っていても大抵の場合は繋がらないのだが。
なので彼らの行為は世が世なら〝軍法会議〟ものなのだが、そこはごねる空自から統合幕僚監部の仲介で半ば強引に譲り受けた虎の子の戦闘機パイロット。空自サイドとしてはむしろ問題を起こして戻ってきて欲しいくらいに考えている手前、海自としては彼らの多少の言動は渋々ながらも黙認せざるを得なかった。
だからこそ極力目立つ言動は慎め、ということなのだろう。
さて、どうしたもんだか……。
敏生はボリボリと頭をかきむしると、溜め息をついて艦内へと戻っていった。
ううん、間違いなく、あなたと一生分の恋をした―――――
第一章 イデア
どこまでも広がる、絵に描いたような青い空と海。空では海鳥たちが賑やかに舞い、海ではイルカたちが優雅に戯れる。
遥か向こうに見えるのは丸みを帯びた神秘的かつ優美な水平線。それは人間がこの雄大な自然の中で、いかにちっぽけな存在であるかを思い知らせてくれる。
ゆえに、古来よりこの海に浮かぶ島々の住民たちは、海の彼方にこそ神々の住む楽園があると考え、そこをニライカナイと名付けて信仰の対象としたのだろう。
その大海原をゆくのは大自然に似つかわしくない武骨なシルエットの一群。
圧倒的な威圧感を漂わせ、悠然と進む様は明らかに客船や貨物船といった類のものではない。そして一群の中心に鎮座するのは一際巨大なグレーの艦影。全通式の広い甲板にアイランド型の艦橋、艦尾にはためく真紅の旭日旗。
海上自衛隊が誇る航空機搭載護衛艦・DDH183「いずも」だ。
いわゆる「軽空母」とも言える陣容を誇るこの海上自衛隊史上最大の戦闘艦は、東アジア周辺諸国からは軍国主義復活の懸念と共に常に警戒の対象とされる一方、東南アジア諸国からは強力に軍拡を推し進める中国に唯一対抗できる存在として、そのプレゼンスが期待されていた。
そんな良くも悪くも国内外の衆目を集めるこの巨大な戦闘艦の艦橋の裏手で、ひとりキャットウォークの落下防止柵に肘をつき、思い詰めた表情で大海原を見つめる白い制服姿の女性。
吹き荒ぶ冬の津軽海峡で、かつ連絡船のデッキであればその姿はもっと様になったのかもしれないが、ここは穏やかな風と陽気がとても心地良い春の南西諸島沖。物憂げな表情が似つかわしくないことこの上ない。
年の頃は二十代半ば、背丈は一六〇前後といったところか? 黒髪のショートボブでなかなかに愛らしい顔をしている。街中であればきっと男どもが放っておかないだろう。そう、彼女の職業にドン引きする男でなければ。
彼女は神月夕陽三等海尉。
「いずも」航空隊戦闘飛行隊に所属する、自衛隊初の女性戦闘機パイロット。TACネーム(部隊内通称)は「イデア」。そして彼女が搭乗するのは世界最強との呼び声高い、第五世代の最新鋭戦闘機・F35BライトニングⅡだ。
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ゆえに、「いずも」戦闘飛行隊に所属していること自体がエリートパイロットの証であり、彼女もまた、女性でありながら前所属の航空自衛隊千歳基地二〇一飛行隊でトップガンの称号を手にした期待の若手精鋭パイロットだったりする。
だが、当の本人達には全くその自覚はないようで―――――
「なんだ、ここにいたのかよ」
背後からかけられた男の声に彼女の肩がピクリと震える。
「何の用?」
誰なのかは声で分かる。振り返ることなく、海を見つめながらぶっきらぼうに呟く。
「ツレねえな。ちょっとは俺の話聞けよ」
彼が肩に手をかけようとするのを払いのけると、夕陽は振り返って彼を睨んだ。
「気安く触わんないでよ、この浮気男!」
その強気そうに見える目には涙が滲んでいる。
「あたしのこと遊びなら遊びって言って欲しかった! あたしばっかり本気になって初めてまで捧げて……バッカみたい!!」
彼女は一気に感情を押し出すと、その場から走り去ろうとして彼に抱き止められた。
「ちょっ、離して!」
「……誰が遊びだって?」
「あんたよ! どうせあたしはその他大勢の一人なんでしょ!?」
「あいつに何言われた?」
「……あんたと結婚するから手を引けって」
その言葉に彼は盛大に溜め息をつくと、真剣な眼差しで夕陽を見つめた。
スラリとした長身に端正な甘いマスク。制服姿でなければ、男性モデルと言われても疑う者は誰一人いないだろう。彼の手が頬にかかる。その熱に心臓がトクンと跳ねてしまうのがとても悔しい。
「遊びなのはあいつの方だ。俺が愛してるのは夕陽、お前だけだ」
「嘘!」
「嘘じゃない。遊びなら面倒くさい処女なんかに手ェ出さねぇよ」
「………面倒臭くて悪かったわね」
「あ、いや今のなし。失言。えっと、ああもう、とにかく俺はお前のことが好きなの! マジで!!」
開き直ってばつが悪そうに頭をガシガシとかく様子は、先ほどまでの二枚目キャラとは打って変わって子供のようだ。
彼は門真敏生二等海尉。
夕陽と同じく「いずも」所属のF35BパイロットでTACネームは「ガイア」。
一見ちゃらんぽらんな印象の彼だが、高卒の航空学生出身である夕陽と違い、防衛大学校を優秀な成績で卒業した後、米国空軍での教育課程を経てパイロットとなった筋金入りのエリート。年齢も彼の方が二つ上だ。
そして特筆すべきは彼が「航空自衛隊始まって以来の天才パイロット」という称号を得ていること。
「いずも」転属で初めて彼と出会ったとき、「北空の魔女」と呼ばれ腕に覚えのあった夕陽にとって、噂に聞いていた彼は倒すべきライバルだった。だが、何度手合わせをしても彼には全くもって歯が立たなかった。そして、その悔しさは圧倒的な実力差を前にしていつしか畏敬の念に取って代わり、それはやがて恋心に変貌を遂げた。
周囲からは必死に止められた。女にだらしがない。泣かせた女は数知れず。
空自時代、若くして一騎当千の猛者が集う新田原の飛行教導隊に所属していた彼の悪い噂は、彼女が遠く離れた千歳にいた頃からその腕前と共に耳にはしていた。
だが、一年半の長きに渡る彼のあまりにも熱いアプローチに、ついには初めての身体を許してしまった。
惚れた弱味。目の前に彼が寝た数多の女が現れ、嫌というほど現実を見せられようが、彼の言葉をどこかで信じたいと思ってしまう自分がいる。
「だって、だってあの女の人が……」
「黙ってて悪かったよ。でもな、俺が本当に愛しているのは夕陽、お前だけだ」
「でもっ……」
敏生は胸ポケットからスマホを取り出すと、夕陽に差し出した。
「出航前に全ての女に詫びを入れてきた。もう、俺にはセフレ一人いない。携帯番号も全て消した。女はお前の番号だけだ。確かめてくれてかまわん」
「敏生……」
真剣な彼の眼差し。二人の視線が絡み合う。やがて夕陽はそっと視線を外すと、ふっと鼻を鳴らした。
「……携帯、もう一つ持ってるでしょ?」
その冷たいひとことに敏生がギクリとした表情で目を逸らす。沈黙。
やがて敏生はイタズラを見つかった子供のように、しぶしぶポケットからもう一つの携帯を取り出した。
「す、好きにしろよ」
「敏生……」
夕陽はそれを受け取ると、何のためらいもなくポイッと海に投げ捨てた。
「あ゛―――――!?」
「何よ? 好きにしてよかったんでしょ?」
「あ、いや、その、海に捨てるのはまずいんじゃないでしょうか……、その、金属リチウムが生態系に及ぼす影響とかですね…」
長年に渡るナンパ人生の文字通り汗と涙の結晶を夕陽に瞬殺され、敏生はしばらくの間茫然としていたが、気を取り直すと夕陽を見つめた。
「好きだ」
彼女の頤を持ち上げ、そっと唇を重ねる。抵抗はない。柔らかいマシュマロのような唇がぎこちなく微かに震えている。ひと月ほど前に初めて抱いた身体。
空自初の女性戦闘機パイロットである「北空の魔女」の噂は彼がいた新田原にも届いていた。
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同業の女性は端から恋愛対象外であった敏生にとっては、そのエピソードも相俟って全く眼中にはなかった。だから初めて夕陽と出会った時の衝撃は今でも忘れられない。
ルックスもさることながら、戦闘機パイロットにしてはあまりにも小柄で華奢な体躯。
この娘が……千歳のトップガンだって?
完全な一目惚れ。男社会の厳しい世界を、小さな身体でもがき苦しみながらも必死に泳いできたであろう彼女に、一瞬のうちに心を奪われた。
自分のことを強烈にライバル視する彼女に怯むことなく、出会ってその日のうちに想いを告げた彼は、男性経験がなく逃げ惑う彼女に真正面から当たり続けた。たまに悶々とする思いから他の女達をつまみ食いはしたものの、一年半の時を経てようやく撃墜した大切な宝物。
口説き落とした瞬間、よそ見されてなるものかと、戸惑うウブな彼女を慮ることなく、ファーストキスから初体験までを一気に奪い去った。
女タラシの面目躍如。だが、脇の甘さもまた彼らしいといえば彼らしかった。次々と二人の間に現れる過去(?)の女達。夕陽の表情を曇らせたくない一心で、敏生は彼女達に一人一人会っては最後の一発をかましたい衝動を必死に抑え、別れを告げてまわった。
もっとも、人妻や彼氏持ちといった後腐れのない連中はキープしておこうと思っていたのだが、それももはや夕陽の手によって海の藻屑だ。
そう、俺にはもうこいつ一人だけなんだ!
そう考えるとなぜだか無性にムラムラしてきて、敏生は彼女の背中に添えていた右手を下ろすと、夕陽の形のよいヒップを鷲づかみにした。
「―――――!?」
突然の彼の暴挙に驚き、離れようとする夕陽をガッチリとホールドしてその唇を貪る。あまりの激しさに彼女の悩まし気な声が零れ、それが一層彼を煽る。
クソッ、何でこんなに可愛いんだよ!?
止まらなくなった彼は、彼女の制服の白いスカートをめくりあげると、その中に手を這わせて―――――
ゴンッ!!
「痛っ!」
突然繰り出された彼女の頭突き。
さすが米軍からも〝Northern Witch〟と称賛されるだけの女……。ってか、この色っぽいシーンで女が頭突きするか普通!?
「敏生のバカっ!」
額に手を当てながら視線を上げると、夕陽がスカートを押さえ、目に涙を溜めて自分を睨みつけていた。
「やっぱりあたしの身体だけが目当てなんでしょ!?」
「ちげえよ! ってか好きな女に欲情して何が悪い!」
パシンッ!!
左頬にヒットする彼女の強烈な平手。
「バカ! 敏生の助平! 時と場所考えろっ! もう知らないっ!!」
そう叫ぶと夕陽は目を擦りながらその場から逃げ出してしまった。
「いってぇ……」
頭突きに平手。面倒くさい女だと最初から分かってはいたが、まさかここまでとは。これまでの女達とは勝手が違い過ぎて、それが逆に彼の心を一層激しく揺さぶる。
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背後から聞こえてきた笑いを含んだその声に振り向くと、防大の一期先輩で悪友の刑部太一二等海尉が馬鹿にしたような表情でこちらを眺めていた。
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「あれでか?」
刑部はクックッと笑いながら敏生の肩に腕をかけると、親指を立てて背後を指した。
「少なくとも〝こんごう〟のワッチは神月の白のパンツを見たぞ」
彼が指すその五〇〇メートルほど先には艦隊防空を司るイージス艦〝こんごう〟が遊弋していた。
「……つうことはお前も夕陽のパンツ見たのか!?」
「こんなところでめくりあげたお前が悪いんだろ」
それを言われてはグゥの音も出ない。刑部は、苦虫を噛み潰したような複雑な表情の敏生の頭をからかうように撫でまわした。
「空自一の天才パイロット、もとい、米軍からも稀代のWomanizerと謳われるお前があんなガキンチョに手をこまねいてる姿が純粋に笑える」
「マジで好きなんだから仕方ないだろ」
悪友に散々に馬鹿にされて敏生は子供のように膨れた。
「純愛だねぇ。まあでも既にやっちまったから純愛じゃねぇな。全く、めんどくせえ生娘に手ぇ出しやがって」
「遊んだ女とデキ婚した脇の甘いやつに言われたくねぇよ」
「おっと、俺はどうでもいい女とはナマでしねぇよ?」
刑部はニヤッと笑うとポケットからスマホを取り出して画面を敏生に見せた。
「どうだ? 俺の新しいオンナ。可愛いだろ? 肌なんかムチムチしててさ」
「まさかあの鬼畜なお前がここまで親バカになるとは」
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「いいぞ、娘は。この歳にして世の父親が嫁に行かせたくない理由が分かった」
「お前みたいな男には特にな」
「ぬかせ」
敏生の突っ込みに笑うと、刑部は胸ポケットにスマホをしまった。
「午後からは古巣との合同訓練だ。それまでに〝イデア〟の機嫌は直しておけよ。周りがやり辛くてしゃあない」
そう言って刑部は敏生を指差すと、艦橋の中に消えていった。
彼の言わんとしていることは分かっていた。海上自衛隊は基本的に艦内での恋愛はご法度だ。艦内における女性自衛官の居住区もよほどのことがない限り立ち入り禁止で、艦長ですら立ち入りを躊躇するくらいである。長期に渡る航海の中、禁欲生活を送らざるをえない乗組員達を刺激しないための海の掟。
そもそも個人携帯ですら防衛機密保持の観点から乗艦中は所持禁止となっている。持っていても大抵の場合は繋がらないのだが。
なので彼らの行為は世が世なら〝軍法会議〟ものなのだが、そこはごねる空自から統合幕僚監部の仲介で半ば強引に譲り受けた虎の子の戦闘機パイロット。空自サイドとしてはむしろ問題を起こして戻ってきて欲しいくらいに考えている手前、海自としては彼らの多少の言動は渋々ながらも黙認せざるを得なかった。
だからこそ極力目立つ言動は慎め、ということなのだろう。
さて、どうしたもんだか……。
敏生はボリボリと頭をかきむしると、溜め息をついて艦内へと戻っていった。
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