彼の理想に

いちみやりょう

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夜になり、月で契約している電動自転車を駅前の駐輪場へ返却し、配達用の大きなバッグをコインロッカーにしまったタイミングで、桜介のスマホが鳴った。

『おう、仕事は終わったか?』
「うん! 今ちょうど終わったとこ」

桜介はスマホ越しに聞こえる蓮の声に胸を高鳴らせ答えた。

『じゃあ、いつもの店で待ち合わせな』
「分かった!」
『ははっ、お前、元気よすぎだろ。気をつけて来いよ』
「分かってるって!」

桜介は通話の切れたスマホを胸に歩き出した。
いつも蓮と一緒に行く居酒屋はここから5分も歩かないところにある。

店が見えて来て、桜介は店の前にもう蓮が待っているのを発見して駆け寄ろうとして立ち止まった。

蓮の目線の先に、泣いている子供に優しい笑顔で話しかけている女性がいた。
近づくと、その会話から子供と女性は知り合いではないことが分かった。

子供は迷子で泣いていて、女性はその子供を連れて近くの交番を目指して歩いている途中で、子供がぐずり出したようだ。

「桜介悪い。あの2人と一緒に交番に行ってくるから少し待っててくれるか? 先に入って好きなもん飲み食いしてていいから」

桜介の存在に気がついた蓮が、桜介に近寄って来て両手を合わせて頼んだ。

「うん、もちろん」
「悪いな、ありがとう」

笑顔で了承した桜介に、蓮はホッとした様子で笑って2人の元に走って行った。
蓮が子供を抱き上げて肩車をしてやると、ぐずついていた子供は一気にご機嫌になり、きゃっきゃと笑い声を上げている。
その様子を隣で見ている女性は頬を染めていた。
全くの他人の3人が、端から見ると幸せな家族のようで桜介の心に影がさした。

ーーああ、まただ。また、目の前で蓮さんが違う人のものになる

子供の頃から何度も見ていた光景に、桜介の心は慣れることはなかった。
幸せな家族の光景から目を逸らし、いつもの居酒屋に足を踏み入れると、元気な「いらっしゃいませー」の掛け声が上がる。酔っ払って声が大きくなっている客の声や、厨房から聞こえる声の騒がしさに、桜介の心は落ち着いて行った。

「あれ? 今日は一人?」
「いや、待ち合わせ。あとで来るって」
「なんだ残念。じゃあいつもの席でいいんだよね?」
「うん。ありがとう」

桜介を案内したのは、この居酒屋TENTの店長の佐々木だ。佐々木は相手が男でも女でも、軽いノリで誰でも口説くようなことを言う。
蓮が桜介の告白を冗談として受け取るのも、この店長の影響が大きいのではと、桜介はひっそりと思っていた。

「注文は何にする?」
「えーっと……まずはビール。あとだし巻き卵と塩炒り銀杏」
「あいよっ。お客さん、渋いねぇ~」

桜介が毎回銀杏を頼むたびに茶化してくる佐々木は、今回もまた揶揄うようにそう言って半個室の席から出て行った。

程なくしてビールとだし巻き卵が運ばれて来た。

「んっ……んはぁ、うま」

一日中自転車で走り回っている桜介にとって一日の終わりに飲むビールは格別だ。
一気に喉に流し込めば嫌だと思っていることも気にならなくなる。

だから桜介は先ほどの蓮と女性の表情を思い出していた。
蓮は女性の優しそうな笑顔に、女性は蓮の男らしく優しい姿に惹かれあっていた。
少なくとも桜介の目にはそう見えた。
もしも女性に付き合っている人がいなければ、蓮と女性は付き合うことになるかもしれない。

ーーもしも俺が女だったら、蓮さんは俺の告白も冗談としてじゃなくてちゃんと受け入れてくれたのかな

桜介は、もう今まで何回考えたか分からないような不毛な考えで頭の中を埋め尽くした。

「はいっ、塩炒り銀杏お待ちっ」
「うわっ、店長。急にびっくりさせないでよ」
「何? また考え事してたからびっくりしたんでしょ。あんまり考え事するとハゲるよ~」
「うるさいなぁ」
「ね、俺が剥いてあげようっか?」
「いい。自分で剥く」
「遠慮すんなって~」
「あ、もう」

佐々木はペンチのような形状の銀杏割り機でパチパチと銀杏を割っていき、その一つを桜介の口の中に放り込んだ。

「んっ、もう、自分でやるからいいってば」
「まぁまぁ、どう? うまい? 人に剥いてもらった銀杏もうまいでしょ?」
「もう、変わらないよ!」

軽口ばかりの適当な佐々木に、ついに桜介が声を荒げると佐々木は笑いながらそそくさと席を離れて行った。
見ると店内もかなり混雑してきており、佐々木も戻った後はテキパキと働いている。
桜介が考え込んでいる様子を見て、佐々木が気を使ってくれたことに気がついて桜介は気恥ずかしくなった。

「悪ぃ、待たせたな。お、また銀杏か。もっと高いもん沢山頼んでよかったんだぞ」
「お疲れさま。高いものって……。もう俺も学生じゃないんだからそんなに沢山は食べられないよ。それで、さっきの子供は大丈夫だったの?」
「ああ、交番に親が来ててな。すぐ解決した」
「良かったね」
「おう」

子供のこと以外にも嬉しいことがあった様子の蓮に、桜介の読みは確信に変わりそうだった。
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