拾われ子の恋

2:違う生活の始まり

「ごめんな……睦むつ、ごめん」
「……おじさん……？」

なんとか出した声は蚊の鳴くような小さな声だったけれど、ピクリと反応した男にはそれが聞こえたようだった。

「睦？　起きたのか？」

睦が寝ている布団の腰元で、いつも食べ物をくれて話しかけてくる男が悲痛そうな顔をして睦を見ていた。

「もう何も心配しなくて良い。何も嫌な思いも不自由な思いもさせないから、俺と一緒に暮らそう」
「……なんで……？」

男は他人で、たまに話したり食事をくれたり、ただそれだけの間柄だ。
助かってはいたけれど、これ以上助けてもらう謂れはない。

「なんででも、だ」
「でも俺、そんなことをされてもおじさんに何も返せないよ」
「これは俺の自己満足だ。あー、だから何て言うか、このまま何もしないんじゃ寝覚が悪いっていうか。睦は何も考えなくて良い」
「ふーん」

睦は掠れた声で頷いた。
男と暮らすようになることも、特に何も感じなかった。
ただ、男は食事を与えてくれるし、今までよりはもしかしたら快適に過ごせるかもしれないなんて思ってみたりもしたけれど、やっぱりそれもどうでも良いことのように思えた。

男がどういう手続きをしたのか、睦には分からなかったが男はしっかりと有言実行して睦は男の家で暮らすことになった。

「ただいま～、翔子～」

睦の暮らしていたアパートよりかなり小綺麗なマンションの６階の端っこ。それが男の家らしい。男が玄関のドアを開いて奥に呼びかけると、トットットッと軽快な足音が聞こえ、すぐに綺麗な女性が奥に見える扉から顔を覗かせた。

「おかえりぃ、勤つとむ」

ニッと笑って男を見た後、翔子と呼ばれた女性は睦の前にやってきて両膝をついて睦の目線になると、こほんこほんと大袈裟に喉を整えた。

「初めまして、睦くん。私は尾崎翔子と言います。勤の奥さんで、これから勤と一緒に睦くんの
保護者になりました」
「翔子さん……よろしくお願いします。あの」
「ん？」
「勤って……？」

睦が訪ねると翔子は一瞬訳がわからないというように惚けた顔をして、少ししてプッと吹き出した。

「勤っていうのはこのコワモテの男のこと。勤、自己紹介もしてなかったの？」
「したんだけど、覚えてなかったよな」

男は勤という名前だったらしいと、睦は初めて知ったような気がしたけれど、確かに一番最初に出会った時に名前を言っていたような気もした。
勤は睦が名前を覚えていなかったことにも、やはり気を悪くした様子はなく、翔子と同じように睦の目線にしゃがんだ。

「尾崎勤といいます。よろしくな」
「……倉田睦です。よろしくおねがいします」

なんだか今更自己紹介をしあうなんて、気恥ずかしいような気がして、照れ臭かった。

「睦はこの部屋を自由に使ってくれ、こっちがトイレ、こっちがリビングで、冷蔵庫に入れる時に他の人に食べられたくないものは名前を書く決まりだ」
「はい」

部屋の中を一通り案内されて、睦に割り当てられた玄関から一番近い部屋に入ると中には新しそうな家具が揃っていた。

「翔子と一緒に選んだんだ。気に入ってくれたか？」

睦はその部屋に圧倒されてただ、静かに頷いた。
木でできた枠組みにふかふかそうなマットレスと水色のシーツ。同級生が持っているのを見たことがあるキャラクターが描かれた紺色のカーテンに、それと同じキャラクターの絵が透明なシートに差し込んである学習机。
まるで普通の家の子供みたいに睦だけに用意された空間。

「ありがとう、ございます。勤さん、翔子さん」
「ふふ。いいえ」
「喜んでくれてよかったよ」

２人は嬉しそうに見つめあって、それから夕飯を作るからと２人でリビングの方に向かっていった。