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7章:背中

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 涙を拭いてそっと研究室に戻ると、鈴鹿先生が私の両手を握った。

「本当におめでとう!」
「ち、ちがうんですぅ……!」
「あら、マリッジブルーね! わかるわぁ。私も経験あるもの」

「違いますぅうううう!」

(勝手に同じ経験にしないでください! 全然違うんですっ!)

 泣いて告げても、鈴鹿先生は全く信じている顔をしてくれない。
 それどころか、

「何が不満よぅ。ちょっと……腹の中は真っ黒だけど、腕はいいし、研究者としても成功してる先生よ?」と微笑む。

「私はそんな腹黒そうな成功者より、優しくて、普通の男の人がいいんですぅううううう……! っていうか、そもそも恋愛したくないし、結婚なんてもっとしたくありません」
「どうして? 押し付けるつもりはないけど、私は結婚して良かったと思ってるわよ?」
「それは……」

 結婚はしたくはないけど、今でも憧れはある。

 だって20歳のあの時までは……ずっと修と恋愛して結婚するものだと思っていたから。

 私が黙り込むと、先生は優しく微笑む。


「それに、あんな楽しそうな顔の猪沢くんはじめて見たし。くるみちゃんのことがよっぽど好きなのねぇ」
「あれは私をいじめるのが好きなだけですよ……」

 そうだ。
 修は、私が騙されて翻弄されるのを、ただ楽しんで見ているだけだ。


 そのとき、栗山先生が研究室に戻ってきた。
 私は思わず栗山先生に近づき、

「栗山先生。あの……」

 と声をかけたが、それから何を言えば信じてもらえるんだろうと思って言葉に詰まってしまった。

 そんな私を見て、栗山先生は苦笑し、
「いや、うん。やっぱりそうだよね……」と言う。

(絶対誤解されてる!)

 そう思ったところで、鈴鹿先生が口を挟む。

「栗山先生。くるみちゃんの結婚祝いするけど、参加してくれない?」

「ぶっ!」
「け、結婚……」

 私は吹き出し、栗山先生は、何度も『結婚……』と呟いていた。

「そう。医学部に戻ってきた猪沢先生がお相手よ」

 栗山先生と目が合う。私は先程のこともあり、思わず目をそらしてしまった。

 栗山先生はここに来てから、私と仲良くしてくれて、私はその存在に助けられていたのに。

 そんな先生に相談もできず、突然こんな話なんて……。
 私は全部ちゃんと話して、そうではない、と否定したかった。なんなら今後どうすればいいのか、相談したかった。

 でも何から話せばいいのか、どう話せば信じてもらえるのか……全部混乱したままで、先生たちの話はどんどん進んでいく。

「僕は……金曜のほうが都合いいです」
「そうね、じゃ今週か来週の金曜日で」
「はい」

 とにかく少し落ち着いて、ゆっくり話せば……いいよね。栗山先生ならきっとわかってくれる。
 私はそう思い直していた。
 その日、栗山先生がいつもより早く帰宅して、私はそれを見て慌てて自分も帰り支度をして後を追った。

 今日一日、栗山先生も忙しくて……さらに少し避けられいるようで、なかなかゆっくり話す機会もなかったのだ。


 ちょうどアパートの前まで来た時にやっと追いついて、私は栗山先生を呼び止める。

「栗山先生! あのっ……猪沢先生のことなんですけど」
「いや、うん。わかってるよ。夏目さんに彼氏がいないわけないよね」

 栗山先生は少しだけ振り返ってそう言うと、もう一度後ろを向きそのまま部屋に入ろうとする。

「違うんです! 待っ、うぎゃっ……!」

 そして、栗山先生を引き止めようと慌てて走り出した私は、その場で思いっきり転んでしまったのだった……。

(なんて日だ……!)

 もう全てがおかしい。
 修のせいだ。全部全部、修が帰ってきたからだ……!

「い、痛いぃ。もうやだぁあああ!」
「大丈夫⁉」

 先生が慌てて大泣きし出した私に走り寄ってきた。
 そのまま私の右腕を見ると、心配そうに言う。

「右腕、血が出てる」

(どうりで痛いと思った!)

 昔から少しでも痛いのはダメで、またわんわん泣きたくなったけど、さすがに栗山先生にこれ以上迷惑をかけられないと思い直して、なんとか涙を拭って顔を下に下げる。

「ぅぅううう……! す、すみません……。大丈夫です。ちゃんとうちに救急箱もあるので自分で手当てしますから……」
「でも、右腕でしょ? どうやって消毒するの?」
「……そ、そう言えば」

 私がつぶやくと、栗山先生は息を吐いて、僕が手当てしてもいい? と聞く。

 私はその言葉に頷いていた。

 私の部屋に栗山先生が来てくれて、そのまま救急箱を取り出して、洗って消毒してくれる。
 私は私の右腕を消毒している栗山先生に、頭を下げた。

「すみません」
「いや……僕こそ、部屋に押しかける形になってごめんね」

 この先生は、自分が全然悪くないのにこうやって謝る癖がある。
 私は最初に会った時を思い出して、思わず吹き出した。

「最初会ったときみたいですね」
「え?」
「ほら、栗山先生が引っ越してきたとき。まさか同じ研究室の先生がお隣に越してきたと思わなくて、研究室で驚いて私、足を机にぶつけて」
「あの時もケガさせちゃったんだよね」
「あの時も私が勝手に怪我しただけですけどね。先生悪くないのに今みたいに謝ってたし」

「でも、僕はこっちに来たばかりで一人だったし、緊張もしてたから……夏目さんが隣にいてくれて随分安心したんだ」

 先生はバンソウコウを貼り終えて、思い出したように目を細めた。

ーーー私だって、久しぶりに男の人とちゃんと話せたのは、栗山先生だったのだ。

「あのね……」

 先生が何か言いかけたのに気づかず、私は、立ち上がり、キッチンに向かう。

「ありがとうございます。あ、良かったら、りんごが実家から来てるんで持って行きませんか?」
「いや、待って! そんなことよりっ……あ、ごめ……」

 なぜか栗山先生も突然立ち上がって、その拍子に、近くにあったゴミ箱が倒れて中身がそこにぶちまけられた。

 そして、すっかり忘れていた……『あるもの』が、あろうことか、栗山先生の足元に落ちる。

(ぺらっぺらのヒモのやつーーーーーー!)


 そう、修が誕生日プレゼントだと冗談交じりに最初に渡し、私がゴミ箱に投げ捨てた下着が出てきたのだ。


(なんなの! これは何の呪いなのっ⁉)

 私は泣きそうになりながら、それを素早く拾う。

「いや、これはっ! 修が勝手に!」
「猪沢先生が?」
「とにかく、こんなの私、はいてませんから!」

 否定するところはそこではなかったのかもしれない。
 でも、私は真剣にそれを見せて叫んでいた。

 栗山先生はじっと私とそれをみて、顔を赤くしたと思ったら

 ……次の瞬間、鼻血を出したのだった。

「え、ちょ、鼻血……⁉ 大丈夫ですか⁉ どこかぶつけました⁉」

 慌てて鼻血をふこうとして、それがその下着であることに気づいて、私はさらに慌てる。それに比例するように、栗山先生の顔も余計に赤くなった。

(さらに鼻血も出てきたし!)

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