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第4話『選択と希望』
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夕方になったということもあって、昼間よりも爽やかな空気になっている。弱くも風が吹いているので、歩いていると気持ちがいい。
「やっぱり、桜海の空気はいいなぁ」
「そう言ってくれると、生まれてからずっと桜海の僕は嬉しいよ」
「ふふっ、引っ越した先に友達がいるのっていいよね。東京には10年間いたしそれなりにけれど、桜海の方が自然いっぱいで空気が美味しいし、何だかのんびりとした雰囲気があって好きだよ。あと、東京よりも早い時間に涼しくなるかな」
「歩いて行くのはキツいけど、海に面しているからね。東京のように高いビルとかもないしね」
「東京ってビルばかりだと思うでしょ? 確かに、都心の方は高層ビルでいっぱいだけれど、あたしが住んでいたところは住宅街で、ちょっと遠くには標高500mくらいの山が見えるんだよ。冬も雪が降る日は少ないけど、30cmくらい積もったときもあったかな」
「へえ……」
僕のイメージしている高層ビルばかりな場所は23区だで、郊外は結構落ち着いた感じなのかな。あと、桜海よりも雪が降るんだ、東京って。桜海なんて10cm積もれば大雪で、明日香や芽依が大喜びだよ。
「段々と懐かしい景色も見えてきた。桜海は10年ぶりだけど、意外と覚えているもんだね」
「10年の間に新しい建物やお店が色々とできたけど、雰囲気はさほど変わっていないかな。ずっと桜海で暮らしているからかもしれないけど」
「ふふっ、一番変わったのは翼や明日香かもしれないね。翼はとってもかっこよくなったし、明日香は胸が大きくなったし……」
あははっ、と咲希は苦笑い。
まあ、10年前はさすがに明日香の胸は平坦だったからな。比べていいかは分からないけれど、咲希より明日香の方が大きそうだ。
「今、あたしよりも明日香の方が大きいって思ったでしょ」
「そ、そうだね。ただ、咲希もそれなりにあるんじゃないかな」
「ははっ、フォローされちゃったよ。あたしも翼の側にずっといれば、明日香のように胸が大きくなったりして」
「僕は胸の神でもないし、胸のパワースポットでもないと思うな」
それに、僕の側にずっといて胸が大きくなるのなら、芽依の胸だって大きくなるはずだと思う。芽依は咲希よりも小さいんじゃないだろうか。まさか、咲希が帰ってきて早々、胸のことを考えるとは思わなかった。
「そういえば、この道順って僕や明日香の通学路だけれど……」
もう明日香の家が見え始めているぞ。ちなみに、彼女の家から100mくらい先に僕の家がある。
「ふふっ、実は翼の家のちょっと先にあたしの新しい家があるんだ。だから、登下校するときは2人の家を通るんだよ。それが凄く嬉しいの」
「へえ、そっか」
僕も明日香も引っ越していないから、咲希にとっては安心できるか。
それから程なくして僕の家を通り過ぎる。高校に通い始めてからはこっちの方向に歩いたことはあまりないけど、小学校と中学校の通学路だったのでよく覚えている。明日香が僕の家で待って、一緒に登校したっけ。
「さっ、ここがあたしの新しい家だよ」
「素敵なお家だね」
以前の家と同じように白い外観が特徴的な一軒家だ。僕の家から3分くらいのところにあるから、前よりもだいぶ近くなったな。
咲希に連れられて僕は彼女の家の中に入る。
「ただいまー」
「お邪魔します」
僕らがそう言うと、すぐに1人の女性が僕達の前に姿を現した。僕と目が合うと彼女は嬉しそうな笑みを見せてくれた。
「おかえり。あら、もしかして、あなた……翼君?」
「はい、おひさしぶりです。ええと……夏希さん」
「久しぶりね。ふふっ、立派にかっこよく成長したのね。それに、若い男の子から名前で呼ばれると、私……ときめいちゃうな」
「もう、お母さんったら……」
咲希は呆れた様子だ。
そう、この女性は咲希のお母さんの夏希さん。10年前は家に遊びに行くと、手作りのお菓子をよく食べさせてくれたっけ。
「夏希さんは……10年前とあまり変わっていませんね」
「あらぁ、褒め言葉として受け取っておくわ。引っ越してからも、咲希はずっと翼君のことが好きだったのよ。そんな娘の気持ちが分かる気がするわ。もし、咲希と結婚するつもりなら、将来の咲希の姿ってことで私のことを見に来てくれていいからね」
「……とりあえず、そのお気持ちは心に留めておきますね」
娘の咲希よりもうっとりとした表情を浮かべているな、夏希さん。
「……さっそくあたしの部屋に連れてってあげるね」
「ありがとう、咲希。お邪魔します」
今の夏希さんのことがあってなのか、僕は咲希に手を強く引かれる形で彼女の部屋へと連れて行かれる。
「ここがあたしの部屋だよ」
「いい雰囲気のお部屋だね。広くてゆったりとできそうだ」
僕の部屋よりも広いかもしれない。
引っ越してきて間もないからか、部屋の中はとてもスッキリとした状態になっていた。ベッド、勉強机、タンス、テーブルなど一般的な家具の他はあまりない。シーツや絨毯の色が白やピンク系統で統一されていて女の子らしいなと思う。
「翼、コーヒーと紅茶と緑茶なら出せるけれど何がいい?」
「じゃあ、温かいコーヒーをお願いしてもいいかな。ブラックで」
「うん、分かった。じゃあ、適当にくつろいで待っててね。まあ……翼はしないと思うけれど、タンスの中とかは見ないでね。翼のことは好きだけれど、下着とか見られるのはさすがに恥ずかしいから」
「分かったよ。そこは節度を持ってくつろぐから安心して」
そう言うと、咲希はすぐに普段の爽やかな笑みを浮かべ、
「うん。じゃあ、待っててね。頑張って淹れてくるから」
張り切った様子で部屋を出ていった。コーヒーを淹れることに頑張りが必要なのか疑問だけど。ただ、その頑張りは善意から来ているのは確かだろう。あと、さっきの咲希が、バイトの年上の後輩の女性に似ていた。
テーブルの側にクッションがあったので、僕はそこに腰を下ろした。
芽依はもちろんのこと、明日香の部屋にも時折お邪魔しているし、常盤さんの部屋にも何度か行ったことはあるけれど……何だか、今が一番緊張しているかも。咲希と2人きりで来て、1人で彼女が戻ってくるのを待っているからかな。
「……これ、なんだろう?」
明るい緑色のメモ帳がテーブルの上に置かれている。
見てしまっていいのか分からないけれど、気付けば右手でメモ帳を掴んでいた。下着じゃなくてメモ帳だし……まずそうな内容だったらすぐに閉じてテーブルの上に置けばいいんだ。そんなことを自分自身に念じながら、ゆっくりとメモ帳を開けた。
『高校卒業≒平成最後 までにやりたいこと
・翼や明日香と再会したい
・翼や明日香と遊びたい
・翼に好きだと告白したい。キスしたい。できれば口と口で
・翼と恋人として付き合いたい
(もし、翼や明日香と同じ学校なら)
・文化祭や体育祭を楽しみたい
・一緒に受験勉強したい』
そんなことが、箇条書きの形で書き記されていた。
きっと、故郷である桜海に引っ越すことが決まったことで、やりたいことが次々と思い浮かんだんだろうな。桜海には僕や明日香も住んでいるから、こんなにたくさんあるんだろう。およそ平成最後っていうのは……そうか、遅くとも来年の4月末までに平成という元号が終わるからか。
「……あぁ、見られちゃった」
気付けば、コーヒーやクッキーを乗せたトレーを持った咲希が戻ってきていた。怒った様子は全く無く、むしろ笑みを浮かべているほどだった。
「ごめん、咲希。テーブルの上に置いてあったから、興味本位で見ちゃった」
「翼ならいいよ。それを見られても恥ずかしくないって言ったら嘘になるけれど。嫌じゃないからね。はい、温かいブラックコーヒー。クッキーがあったから持ってきた」
「ありがとう」
僕は咲希のメモ帳を閉じ、そっとテーブルの上に戻した。咲希が淹れてくれたブラックコーヒーを飲む。
「うん、美味しい。きっと、うちのマスターもお客さんに出していいって言ってくれると思うよ」
「ふふっ、そういう風に褒められたのは初めてだよ。ありがとう、翼。あたしはコーヒーは飲めるけれど、砂糖やミルクがないとまだ飲めないな」
「そうなんだ。ちなみに、明日香は最近ようやくカフェオレは飲めるようになった」
「やっぱり最初はカフェオレだよね。中学生になったときには飲んでいたかなぁ」
咲希は角砂糖を2つ入れて、コーヒーを一口飲んだ。10年前はジュースかせいぜい麦茶だったのに。そんな咲希がコーヒーを飲むなんて。
「今のあたしを見てどんなことを思ってた? こいつ、あんなにたくさんやりたいことあるんだって思った?」
「それもあるけれど、ただ……咲希もコーヒーを飲むようになったんだなって。10年って大きいんだと思ったよ」
「コーヒーの方か。昔は2人と一緒にジュースばっかり飲んでいたもんね」
咲希はクスクスと笑った。大したことではないのに僕と同じことを覚えていることがたまらなく嬉しい。
咲希は例のメモ帳を開いて、さっき僕が見ていたやりたいことリストのページを開いた。
「桜海へ6月から転勤ってお父さんから言われたとき、正直……桜海に戻るか東京に残るかちょっと迷ってた。進路のことを考えたら、東京に住んでいる方が選択肢も多いし。もしかしたら、水泳でインターハイに出られるかもしれないって学校側から言われて。寮はないけれど、学校近くのアパートを紹介してくれるとまで言ってくれて」
「そうだったんだ……」
それだけ、天羽女子も咲希のことを考えてくれていたんだ。高3の6月っていうタイミングを考えたら、首都圏の天羽女子に通い続けた方が選択肢はたくさんあっただろう。
「ただ、咲希はこうして桜海高校の制服を着て、桜海の地にいる。もし、戻る決め手があったのなら……教えてくれないかな」
「……これが理由だよ」
咲希はやりたいことリストを書いたページを開いたまま、僕に見せてくる。
「もしかしたら、バカにして笑う人や、こんなことのために桜海っていう地方の町に帰るのかって怒る人がいるかもしれない。でも、考えてみると、桜海を離れたときから、翼や明日香とやりたいことがあって。それを天羽女子の友達に相談したら、あたしの選んだ道を応援するって言ってくれて。それに、桜海に帰るチャンスが生まれたのは何かの運命かもしれないよって。それで、桜海に帰って……このやりたいことリストを全部達成できるように頑張ろうって決意したの」
「……そうだったんだ。あと、天羽女子で素敵な友達ができたんだね」
「うん。それを言ってくれたのは、例の声楽の凄い子なんだけれどね。中学までの同級生や、その子の通う高校の後輩達も翼への恋を応援してくれて。声楽の凄い子も長い間片想いをしていたんだって」
「へえ……」
だからこそ、咲希の気持ちを分かり、咲希の背中を押すようなアドバイスができたのかもしれない。あと、恋を応援してくれる人達が何人もいるというのは、咲希の人徳なんだろうな。
「高校卒業は分かるけど、平成最後って書いてあるのはどうして? 時期は近いけれど……」
「あたし達は20世紀最後の生まれだし、今年が高校最後で卒業してすぐに平成も終わるから。何か目標を立てるにはいい区切りかなと思って」
「なるほどね」
来年の春に高校卒業だけではなく、平成も終わるということでやりたいことを達成したいとより強く思えるのかもしれない。
「それで、できたことには花丸を付けようってことに決めたの」
「へえ……」
咲希はバッグから筆箱を取り出し、中から赤ペンを取り出す。できたことについては花丸を付けていく。
「2人と再会できたでしょ。遊ぶのは……まだできていないか。翼に告白は……好きだっていう想いは伝えたし、頬にキスもしたし、口と口は……」
すると、咲希の頬は今日一番の赤みが帯びる。視線もちらつかせて。
「口と口では……今はちょっと。したい気持ちはあるけれど、勇気が出ない」
みんなの前で僕の頬にキスをしたのに、僕と2人きりでもキスはできないか。人によって口づけはかなりハードル高いよね。
「でも、キスしたいって思っているくらいに、翼のことは好きだからね!」
「うん、分かったよ」
それでも好きだという気持ちはしっかりと伝えてくる。ブレないな。照れたまま飲み物を飲んでいる姿は懐かしかったりする。それがとても可愛らしくて、10年前には抱くことのなかったドキドキを感じていた。
「転入初日だけれど、桜海に帰ってきてどうかな」
「思った以上に楽しいよ。翼や明日香と同じクラスだし、美波や羽村君とも仲良くなれたしね。これなら卒業まで楽しく学校生活を送れそう」
「それなら良かったよ。僕も咲希が戻ってきて、今まで以上に楽しい学校生活を送ることができそうな気がしてるよ」
「……これからよろしくね、翼」
「うん、よろしくね」
文化祭や体育祭、球技大会もまだ先だし……残り10ヶ月だけど、咲希と楽しい高校生活を送ることができそうだ。受験が待っているけどね。そんなことを思いながら、僕はコーヒーを飲むのであった。
「やっぱり、桜海の空気はいいなぁ」
「そう言ってくれると、生まれてからずっと桜海の僕は嬉しいよ」
「ふふっ、引っ越した先に友達がいるのっていいよね。東京には10年間いたしそれなりにけれど、桜海の方が自然いっぱいで空気が美味しいし、何だかのんびりとした雰囲気があって好きだよ。あと、東京よりも早い時間に涼しくなるかな」
「歩いて行くのはキツいけど、海に面しているからね。東京のように高いビルとかもないしね」
「東京ってビルばかりだと思うでしょ? 確かに、都心の方は高層ビルでいっぱいだけれど、あたしが住んでいたところは住宅街で、ちょっと遠くには標高500mくらいの山が見えるんだよ。冬も雪が降る日は少ないけど、30cmくらい積もったときもあったかな」
「へえ……」
僕のイメージしている高層ビルばかりな場所は23区だで、郊外は結構落ち着いた感じなのかな。あと、桜海よりも雪が降るんだ、東京って。桜海なんて10cm積もれば大雪で、明日香や芽依が大喜びだよ。
「段々と懐かしい景色も見えてきた。桜海は10年ぶりだけど、意外と覚えているもんだね」
「10年の間に新しい建物やお店が色々とできたけど、雰囲気はさほど変わっていないかな。ずっと桜海で暮らしているからかもしれないけど」
「ふふっ、一番変わったのは翼や明日香かもしれないね。翼はとってもかっこよくなったし、明日香は胸が大きくなったし……」
あははっ、と咲希は苦笑い。
まあ、10年前はさすがに明日香の胸は平坦だったからな。比べていいかは分からないけれど、咲希より明日香の方が大きそうだ。
「今、あたしよりも明日香の方が大きいって思ったでしょ」
「そ、そうだね。ただ、咲希もそれなりにあるんじゃないかな」
「ははっ、フォローされちゃったよ。あたしも翼の側にずっといれば、明日香のように胸が大きくなったりして」
「僕は胸の神でもないし、胸のパワースポットでもないと思うな」
それに、僕の側にずっといて胸が大きくなるのなら、芽依の胸だって大きくなるはずだと思う。芽依は咲希よりも小さいんじゃないだろうか。まさか、咲希が帰ってきて早々、胸のことを考えるとは思わなかった。
「そういえば、この道順って僕や明日香の通学路だけれど……」
もう明日香の家が見え始めているぞ。ちなみに、彼女の家から100mくらい先に僕の家がある。
「ふふっ、実は翼の家のちょっと先にあたしの新しい家があるんだ。だから、登下校するときは2人の家を通るんだよ。それが凄く嬉しいの」
「へえ、そっか」
僕も明日香も引っ越していないから、咲希にとっては安心できるか。
それから程なくして僕の家を通り過ぎる。高校に通い始めてからはこっちの方向に歩いたことはあまりないけど、小学校と中学校の通学路だったのでよく覚えている。明日香が僕の家で待って、一緒に登校したっけ。
「さっ、ここがあたしの新しい家だよ」
「素敵なお家だね」
以前の家と同じように白い外観が特徴的な一軒家だ。僕の家から3分くらいのところにあるから、前よりもだいぶ近くなったな。
咲希に連れられて僕は彼女の家の中に入る。
「ただいまー」
「お邪魔します」
僕らがそう言うと、すぐに1人の女性が僕達の前に姿を現した。僕と目が合うと彼女は嬉しそうな笑みを見せてくれた。
「おかえり。あら、もしかして、あなた……翼君?」
「はい、おひさしぶりです。ええと……夏希さん」
「久しぶりね。ふふっ、立派にかっこよく成長したのね。それに、若い男の子から名前で呼ばれると、私……ときめいちゃうな」
「もう、お母さんったら……」
咲希は呆れた様子だ。
そう、この女性は咲希のお母さんの夏希さん。10年前は家に遊びに行くと、手作りのお菓子をよく食べさせてくれたっけ。
「夏希さんは……10年前とあまり変わっていませんね」
「あらぁ、褒め言葉として受け取っておくわ。引っ越してからも、咲希はずっと翼君のことが好きだったのよ。そんな娘の気持ちが分かる気がするわ。もし、咲希と結婚するつもりなら、将来の咲希の姿ってことで私のことを見に来てくれていいからね」
「……とりあえず、そのお気持ちは心に留めておきますね」
娘の咲希よりもうっとりとした表情を浮かべているな、夏希さん。
「……さっそくあたしの部屋に連れてってあげるね」
「ありがとう、咲希。お邪魔します」
今の夏希さんのことがあってなのか、僕は咲希に手を強く引かれる形で彼女の部屋へと連れて行かれる。
「ここがあたしの部屋だよ」
「いい雰囲気のお部屋だね。広くてゆったりとできそうだ」
僕の部屋よりも広いかもしれない。
引っ越してきて間もないからか、部屋の中はとてもスッキリとした状態になっていた。ベッド、勉強机、タンス、テーブルなど一般的な家具の他はあまりない。シーツや絨毯の色が白やピンク系統で統一されていて女の子らしいなと思う。
「翼、コーヒーと紅茶と緑茶なら出せるけれど何がいい?」
「じゃあ、温かいコーヒーをお願いしてもいいかな。ブラックで」
「うん、分かった。じゃあ、適当にくつろいで待っててね。まあ……翼はしないと思うけれど、タンスの中とかは見ないでね。翼のことは好きだけれど、下着とか見られるのはさすがに恥ずかしいから」
「分かったよ。そこは節度を持ってくつろぐから安心して」
そう言うと、咲希はすぐに普段の爽やかな笑みを浮かべ、
「うん。じゃあ、待っててね。頑張って淹れてくるから」
張り切った様子で部屋を出ていった。コーヒーを淹れることに頑張りが必要なのか疑問だけど。ただ、その頑張りは善意から来ているのは確かだろう。あと、さっきの咲希が、バイトの年上の後輩の女性に似ていた。
テーブルの側にクッションがあったので、僕はそこに腰を下ろした。
芽依はもちろんのこと、明日香の部屋にも時折お邪魔しているし、常盤さんの部屋にも何度か行ったことはあるけれど……何だか、今が一番緊張しているかも。咲希と2人きりで来て、1人で彼女が戻ってくるのを待っているからかな。
「……これ、なんだろう?」
明るい緑色のメモ帳がテーブルの上に置かれている。
見てしまっていいのか分からないけれど、気付けば右手でメモ帳を掴んでいた。下着じゃなくてメモ帳だし……まずそうな内容だったらすぐに閉じてテーブルの上に置けばいいんだ。そんなことを自分自身に念じながら、ゆっくりとメモ帳を開けた。
『高校卒業≒平成最後 までにやりたいこと
・翼や明日香と再会したい
・翼や明日香と遊びたい
・翼に好きだと告白したい。キスしたい。できれば口と口で
・翼と恋人として付き合いたい
(もし、翼や明日香と同じ学校なら)
・文化祭や体育祭を楽しみたい
・一緒に受験勉強したい』
そんなことが、箇条書きの形で書き記されていた。
きっと、故郷である桜海に引っ越すことが決まったことで、やりたいことが次々と思い浮かんだんだろうな。桜海には僕や明日香も住んでいるから、こんなにたくさんあるんだろう。およそ平成最後っていうのは……そうか、遅くとも来年の4月末までに平成という元号が終わるからか。
「……あぁ、見られちゃった」
気付けば、コーヒーやクッキーを乗せたトレーを持った咲希が戻ってきていた。怒った様子は全く無く、むしろ笑みを浮かべているほどだった。
「ごめん、咲希。テーブルの上に置いてあったから、興味本位で見ちゃった」
「翼ならいいよ。それを見られても恥ずかしくないって言ったら嘘になるけれど。嫌じゃないからね。はい、温かいブラックコーヒー。クッキーがあったから持ってきた」
「ありがとう」
僕は咲希のメモ帳を閉じ、そっとテーブルの上に戻した。咲希が淹れてくれたブラックコーヒーを飲む。
「うん、美味しい。きっと、うちのマスターもお客さんに出していいって言ってくれると思うよ」
「ふふっ、そういう風に褒められたのは初めてだよ。ありがとう、翼。あたしはコーヒーは飲めるけれど、砂糖やミルクがないとまだ飲めないな」
「そうなんだ。ちなみに、明日香は最近ようやくカフェオレは飲めるようになった」
「やっぱり最初はカフェオレだよね。中学生になったときには飲んでいたかなぁ」
咲希は角砂糖を2つ入れて、コーヒーを一口飲んだ。10年前はジュースかせいぜい麦茶だったのに。そんな咲希がコーヒーを飲むなんて。
「今のあたしを見てどんなことを思ってた? こいつ、あんなにたくさんやりたいことあるんだって思った?」
「それもあるけれど、ただ……咲希もコーヒーを飲むようになったんだなって。10年って大きいんだと思ったよ」
「コーヒーの方か。昔は2人と一緒にジュースばっかり飲んでいたもんね」
咲希はクスクスと笑った。大したことではないのに僕と同じことを覚えていることがたまらなく嬉しい。
咲希は例のメモ帳を開いて、さっき僕が見ていたやりたいことリストのページを開いた。
「桜海へ6月から転勤ってお父さんから言われたとき、正直……桜海に戻るか東京に残るかちょっと迷ってた。進路のことを考えたら、東京に住んでいる方が選択肢も多いし。もしかしたら、水泳でインターハイに出られるかもしれないって学校側から言われて。寮はないけれど、学校近くのアパートを紹介してくれるとまで言ってくれて」
「そうだったんだ……」
それだけ、天羽女子も咲希のことを考えてくれていたんだ。高3の6月っていうタイミングを考えたら、首都圏の天羽女子に通い続けた方が選択肢はたくさんあっただろう。
「ただ、咲希はこうして桜海高校の制服を着て、桜海の地にいる。もし、戻る決め手があったのなら……教えてくれないかな」
「……これが理由だよ」
咲希はやりたいことリストを書いたページを開いたまま、僕に見せてくる。
「もしかしたら、バカにして笑う人や、こんなことのために桜海っていう地方の町に帰るのかって怒る人がいるかもしれない。でも、考えてみると、桜海を離れたときから、翼や明日香とやりたいことがあって。それを天羽女子の友達に相談したら、あたしの選んだ道を応援するって言ってくれて。それに、桜海に帰るチャンスが生まれたのは何かの運命かもしれないよって。それで、桜海に帰って……このやりたいことリストを全部達成できるように頑張ろうって決意したの」
「……そうだったんだ。あと、天羽女子で素敵な友達ができたんだね」
「うん。それを言ってくれたのは、例の声楽の凄い子なんだけれどね。中学までの同級生や、その子の通う高校の後輩達も翼への恋を応援してくれて。声楽の凄い子も長い間片想いをしていたんだって」
「へえ……」
だからこそ、咲希の気持ちを分かり、咲希の背中を押すようなアドバイスができたのかもしれない。あと、恋を応援してくれる人達が何人もいるというのは、咲希の人徳なんだろうな。
「高校卒業は分かるけど、平成最後って書いてあるのはどうして? 時期は近いけれど……」
「あたし達は20世紀最後の生まれだし、今年が高校最後で卒業してすぐに平成も終わるから。何か目標を立てるにはいい区切りかなと思って」
「なるほどね」
来年の春に高校卒業だけではなく、平成も終わるということでやりたいことを達成したいとより強く思えるのかもしれない。
「それで、できたことには花丸を付けようってことに決めたの」
「へえ……」
咲希はバッグから筆箱を取り出し、中から赤ペンを取り出す。できたことについては花丸を付けていく。
「2人と再会できたでしょ。遊ぶのは……まだできていないか。翼に告白は……好きだっていう想いは伝えたし、頬にキスもしたし、口と口は……」
すると、咲希の頬は今日一番の赤みが帯びる。視線もちらつかせて。
「口と口では……今はちょっと。したい気持ちはあるけれど、勇気が出ない」
みんなの前で僕の頬にキスをしたのに、僕と2人きりでもキスはできないか。人によって口づけはかなりハードル高いよね。
「でも、キスしたいって思っているくらいに、翼のことは好きだからね!」
「うん、分かったよ」
それでも好きだという気持ちはしっかりと伝えてくる。ブレないな。照れたまま飲み物を飲んでいる姿は懐かしかったりする。それがとても可愛らしくて、10年前には抱くことのなかったドキドキを感じていた。
「転入初日だけれど、桜海に帰ってきてどうかな」
「思った以上に楽しいよ。翼や明日香と同じクラスだし、美波や羽村君とも仲良くなれたしね。これなら卒業まで楽しく学校生活を送れそう」
「それなら良かったよ。僕も咲希が戻ってきて、今まで以上に楽しい学校生活を送ることができそうな気がしてるよ」
「……これからよろしくね、翼」
「うん、よろしくね」
文化祭や体育祭、球技大会もまだ先だし……残り10ヶ月だけど、咲希と楽しい高校生活を送ることができそうだ。受験が待っているけどね。そんなことを思いながら、僕はコーヒーを飲むのであった。
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