アリア

桜庭かなめ

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本編-ARIA-

第122話『新たな一歩』

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 6月27日、月曜日。
 退職日が過ぎて、前の会社から退職に関する色々な書類が届いた。まずは失業手当の申請をするところから始めようかな。
 先週くらいから転職活動の準備を始めて、早ければ今週末、遅くても来週くらいからは本格的にスタートしたいところだ。
 美来は先週に私立天羽女子高等学校への転校が決まり、今日から天羽女子高校での新しい高校生活が始まった。僕も美来と同じように新しい生活が送ることができるように、転職活動を頑張っていかないと。
 失業手当の申請に必要なものを調べ終え、書類をまとめようとしたときだった。
 ――プルルッ。
 僕のスマートフォンが鳴る。
 確認すると発信者が『勝沼雄大かつぬまゆうだい』となっていた。有紗さんと一緒に働いていたときに関わっていた案件のお客様である株式会社SKTTの担当者だけど。どうしたんだろう? こんなときに。

「はい、氷室ですが」
『氷室さんですか。おひさしぶりです。株式会社SKTTの勝沼と申します』
「……先月まで2ヶ月間、お世話になりました。これまでご挨拶もせず申し訳ございませんでした」
『いえいえ! かまいませんよ。無実の罪で逮捕されてこれまで大変だったでしょうから。月村さん達からも事情は聞いておりますし。あと、遅くなりましたが、釈放おめでとうございます』
「ありがとうございます」

 まさか、勝沼さんは僕に釈放祝いの言葉を言うために電話をかけてきたのか? 確かに4月から2ヶ月間お世話になったけど。別の理由がありそうな気がする。

『逮捕されると、疲れも溜まったことでしょう。体調はいかがですか?』
「あれから20日以上経ちましたからね。すっかり元気になりました。ただ、ご存知かもしれませんが、懲戒解雇処分は撤回されましたが、色々と迷惑を掛けたことに対する責任を取るために退職となりました。今週から転職活動を本格的に始めようと思っています」
『そうですか。ということは……転職先はまだ決まっていないということですか?』
「ええ。色々と調べてはいますが、特に面接などは受けていません」

 どうして、僕の転職活動の状況を勝沼さんは知りたがるんだろう。

『そうですか。それなら良かった。実は……氷室さんが釈放され、退職されたことを知ってから、うちの方で氷室さんを正社員として採用するかどうか話していたのです』
「えっ……ど、どうしてですか?」

 そりゃ、IT系で国内トップクラスの企業の社員になれるなら嬉しいけど、中小企業の2年目社員の僕のどこを見て社員にしたいと思っているのか。

『一言で言えば、氷室さんは優秀な方だからです。2ヶ月間だけですが、私はあなたと接してきてそう確信しています。私達の仕事の内容もすぐに理解していただけましたし。あと、国家資格も持っているんですよね?』
「はい。学生のときに基本情報と応用情報技術者を取得しました」
『それだけあれば、社会人2年目の氷室さんなら十分すぎるほどです』
「ありがとうございます」

 学生の段階で取ったらそれなりに凄いとは言われる資格だ。新卒採用での就職活動のときも、この資格のことについてはよく訊かれたなぁ。

『電話では何ですから、今日の午後3時頃になってしまいますが、氷室さんのご自宅の最寄り駅で会いませんか。喫茶店とかがあればいいのですが』
「喫茶店ならあります」
『それなら良かった。突然のことで混乱しているとは思いますが、一度、顔を合わせて話しましょう。それからゆっくりと考えていただければと思います』
「分かりました。あと、自宅の最寄り駅なんですけど……」
『ああ、それなら以前に月村さんから聞いておりますので分かっています』
「そうですか」

 いつの間に訊いたんだか。まあ、勝沼さんも有紗さんのことが気になっているという話を聞いたことがあるので、彼女と話す口実に使われたかもしれないな。

『では、午後3時に。到着したらまた連絡します』
「はい、分かりました」

 勝沼さんの方から通話を切った。
 まさか、転職活動を始めようとしたときにかつてのお客様からお誘いが来るなんて。4月から2ヶ月間、とにかく仕事を覚えることに集中していたけど、それが良かったのかなぁ。


 午後3時前。
 僕が最寄り駅に着いた頃に勝沼さんから連絡があり、すぐに彼と落ち合った。近くにある喫茶店へと向かう。

「すみません。突然のことで連絡してしまって」
「いえいえ」

 羽賀に手錠をかけられたときも突然だったからな。あの時に比べればよっぽどマシだ。しかも、今回はいい話だし。
 喫茶店に到着して、僕と勝沼さんはアイスコーヒーを頼む。

「午前中での電話では、私を御社の社員にしたいという話でしたが」
「ええ・報道でもあるように、退職という形でも氷室さんを会社から追放したのは厳しいと思いました。そこで、私が上の人間に氷室さんを社員に招こうと提案したんです」
「それは嬉しいお話ですが、何故、私にそこまでしてくださるのですか? 先ほどの電話では私が優秀であると仰っていましたが……」

 社会人2年目の人間でさえも取得が難しい情報技術の国家資格は持っているけど、社会人そのものの経験はあまりない。

「氷室さんが将来有望な若い方というのが一番の理由です。そして、真剣に仕事に取り組んでいました。そうでなければ、私も上に提案しません。あと、これはうちの事情ですが……今月末で私のいる部署からも離れる人間が何人かいるんですよ」

 ああ、6月末で今年度の第1四半期が終わるからな。それもあって、今月末で異動する人がいるんだろうな。

「もちろん、別の部署から来る方はいるんですが、それでも元よりも人数が少ない状況で。そんな中で氷室さんの釈放と、テクノロジーシステムズさんからの退職の話を聞いたんです」
「つまり、色々とタイミングが合ったということですね」
「そういうことです。あと、私のいる部署は私でもかなり若い方に入りまして。私は今年で30なんですけど。若い人材も欲しくて。氷室さんなら伸び代があると期待しているのです」
「……ありがとうございます」

 なるほど。僕が入れるだけの席やお金があるってことなのかな。

「一応、こちらが勤務の要項となりますが」
「はい」

 勝沼さんから受け取った要項を見てみると……さすがに給料も前よりもかなり高いな。残業代もしっかりと払ってくれるようだ。それは当たり前のことだけど。休日や福利厚生、諸手当などもしっかりしているし。もちろん、勤務内容も良さそうだ。

「こんなに良くしていただいていいのですか? もちろん、とても嬉しいのですが」
「もちろんです。働いている方が生活しやすいようにするのも、会社としてすべきことですからね。仕事のために生活があるのではなく、生活のために仕事があると思っておりますから。そのときの状況に応じて柔軟に対応していくつもりです」
「……そうですか。いや、ここの部分を注意深く見たのは、私事なんですけど……将来、結婚を決めている人がいまして」
「……失礼ですが、そのご結婚の相手はもしかして月村さんですか?」
「いえ、違います。例の事件の被害者と言われていた高校生の女の子です。あっ、変に勘違いしないでくださいね。彼女のご家族にも了承していただいているので」
「そうだったのですか……」

 こんなにも安心しているということは、勝沼さん……有紗さんのことを狙っているんだな。まさか、それもあって僕を社員にしようとか考えてないだろうな。もしそうなら、有紗さんに忠告しておいてやろう。

「氷室さん。弊社……SKTTの社員になっていただけますでしょうか?」
「はい。よろしくお願いします」
「ありがとうございます。では、7月1日から正社員として勤務することにしましょう。こちらの書類にサインをお願いします」
「分かりました」

 僕は入社に関する書類にサインをする。勝沼さん、こういう書類まで用意していたということは、本気で僕を社員にするつもりだったんだな。

「7月1日は金曜日ですし、急なことですから……金曜日は特別休暇という形にして、来週の月曜日の7月4日から来ていただく形でもよろしいですか? 氷室さんも色々とありましたから、要望があればもう少し後からでもいいですが」
「いえ、来週の月曜日から行くという形で大丈夫です。あと1週間休めば大丈夫だと思います」
「そうですか。分かりました。では、来週の月曜日のことについては後日連絡します。それでは、また来週からよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」

 まさか、こんな展開になるとは。転職活動を始めようとしたタイミングで国内トップ級の企業からお呼びがかかるなんて。色々と偶然が重なった結果だけども。
 勝沼さんと話が終わったときには午後4時を過ぎていた。もしかしたら、美来は声楽部の見学をしているかもしれないので、僕は美来や有紗さんとの3人のグループトークに転職が決まったメッセージを送る。すると、すぐに『既読2』となった。

『おめでとうございます! こんなにも早く決まるなんて。また、金曜日になったらお泊まりに行きますね。その時にお祝いしましょう』

 という美来からのメッセージが返ってきた。今週もまた週末に僕の家に来る、か。嬉しいな。

『良かったね! 勝沼さんのいる部署に来るってことは、もしかしたら違う立場からあたし達と一緒に仕事ができるかもね。今週末、あたしも……智也君の家に行っていいかな? 3人でお祝いしたいな』

 という有紗さんのメッセージが美来のメッセージのすぐ後に届く。確かに、勝沼さんのいる部署で働くから、違う立場からだけれど、有紗さんと一緒に仕事ができるかもしれないのか。

『ありがとうございます。また、一緒に仕事ができるといいですね。僕は有紗さんが来ていただけると嬉しいです。美来はどう?』

 美来の許可をいただかないとね。
 すると、すぐに僕のメッセージに『既読2』と表示されて、

『もちろん行きます。3人で一緒に過ごしましょう。でも、智也さんとイチャイチャすることをするのは禁止ですからね!』
『しないよ! 美来ちゃんの大切な未来の旦那さんを寝取るようなことなんて。じゃあ、私も金曜日に智也君の家にお邪魔するね』

 寝取るってなぁ。
 何だかんだ僕と美来が新しい一歩を踏み出しても、今までと変わらない時間が過ごせそうだ。それがとても嬉しく思えるのであった。
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