アリア

桜庭かなめ

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本編-ARIA-

第119話『甘美なる旅-前編-』

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 6月13日、月曜日。
 僕は美来と2人で温泉旅行に来ている。
 僕と美来が将来、結婚すると決めたこと。そして、僕の釈放祝いと転職活動に向けて静養してほしいということで、雅治さんが僕と美来に1泊2日の温泉旅行をプレゼントしてくださったのだ。ただ、僕が釈放されて間もないこともあって、静かに過ごせるようにと平日の旅行となった。

「智也さん、旅館までの運転お疲れ様でした」
「ありがとう。ひさしぶりの運転だったから緊張したよ」

 学生のときは休日に運転したこともあったけれど、社会人になってからは全然運転していなかったからな。しかも、今日は助手席に美来が座っていた。いつも以上に運転に気を遣った気がする。
 ただ、そのおかげなのか、途中で立ち寄った観光地や有名なお店で食べたスイーツは大いに満喫できた気がする。
 旅館に着いたとき、女将さんにご兄妹ですかと訊かれ、美来がとっさに「近いうちに夫婦になる予定です!」と豪語したときにはさすがに恥ずかしかった。間違ってはいないんだけどね。

「緑茶を淹れましたのでどうぞ」
「ありがとう」

 客間に着いて、僕は美来の淹れてくれた温かい緑茶を飲む。

「うん、美味しい。たまには緑茶もいいね」
「ふふっ、そうですね」

 美来も緑茶を飲んでまったりとしている。
 雅治さんがとてもいい旅館を手配してくれ、僕と美来が今日泊まる部屋には露天風呂まで付いている。美来曰く、娘を伴侶として選び、僕の釈放、事件解決と嬉しいことが重なったので、雅治さんが豪華な部屋にしてくれたとのこと。

「こんなに幸せな月曜日を過ごしてしまっていいのでしょうか」
「……いいんだよ」

 退職が決定したとはいえ、今は残った有休を消化している最中。胸を張って僕は休んでいいのだ。何も後ろめたいことはない。

「僕も有休という正式なお休みを過ごしているし、美来もこれまでいじめや僕の事件があって色々と大変だったじゃないか。だから、こうした時間を過ごしていいんだよ」
「……そうですよね。本当に今日は楽しかったです。また、智也さんとこういう時間を過ごすことができるなんて。しかも、今は智也さんの……未来の奥様として」
「ははっ、それは何度も聞いたけど……それだけ嬉しいんだな」
「はい!」

 今日、美来は何度、こういった可愛らしい笑顔を僕に見せてくれただろう。これから色々と大変になるけど、それさえも忘れてしまいそうなくらいに幸せな気持ちになれる。

「僕も美来と一緒にいることができて嬉しいよ」
「はい!」

 えへへっ、と美来は笑っている。

「あ、あの……智也さん。お食事まであと2時間近くありますので、まずは……一緒に露天風呂に入りませんか?」
「そうだね。入ろっか」

 今は午後4時過ぎ。夕飯は午後6時からだから、お風呂にゆっくり入っても大丈夫だろう。僕も部屋に付いている露天風呂がどんな感じなのか気になっていたところだし。
 美来がお手洗いに行くとのことなので、僕は一足先に露天風呂に入ることに。

「おっ、立派だな……」

 浴槽は檜でできているのかな。落ち着いた雰囲気だ。お湯の出てくる音が心地よい。
 僕らの泊まっている部屋は最大4人まで泊まれるそうなので、それに合わせているんだろう。ゆったりと浸かれそうな広さだ。2人で入るにはもったいないくらいに。

「ああ、気持ちいいな……」

 家よりも熱めだけど、露天風呂だからこのくらいでいいのかも。温泉でゆっくりすることがいいなと思えるのも、大人になった証拠なのかな。

「うわあ、立派な露天風呂ですね。お湯の熱さもちょうどいい」

 美来はバスタオルで前面を隠した状態で入ってくる。しかし、そうしているのも今のうちだろう。タオルをお湯に入れてはいけないという決まりになっているから。なので、僕は事前に右手で両目を覆う。

「はあっ、気持ちいい。智也さんとの初めての温泉。とても気持ちがいいですね」

 目を開けると、僕のすぐ横に肩まで温泉に浸かっている美来がいた。

「うん。そうだね。心も体もリラックスできるね」

 脚を伸ばしても大丈夫だし。
 そういえば、美来と隣同士でお風呂に入ったのはこれが初めてなのか。今までは僕の家か美来の家のお風呂だったから。

「……このまま時間が止まってしまえばいいのに」
「確かに、このまま美来と2人きりでのんびりしていたいね」

 ただ、いつまでも湯船に浸かったままだと必ずのぼせる運命を辿ることになるけど。
 気付けば、美来の腕を触れ合っており、美来が僕の手をぎゅっと掴んでくる。

「……幸せです」
「……うん」
「私もリラックスできてきました。このお湯……どうやら色々と効能のある温泉のようですね」
「そうなの?」
「あそこの案内板に書いてあります」
「……僕、近視だから……あそこの木の板に温泉の効能とか書いてあるんでしょ? でも、何て書いてあるのか見えないな……」

 老眼……ではないよな。老眼は近くのものが見えにくくなるから。

「私ははっきりと見えますよ。読んでみますね。どれどれ……疲労回復、筋肉痛、関節痛、冷え性にあと……こ、子宝ですって」
「へ、へえ……子宝の効果もあるんだね」

 子宝なんて言うから、色々と考えてしまったよ。

「智也さん、今はNGです。まだ明るいですし、外ですし」
「……分かってるよ」

 まだ……ってことは、美来は今夜にでも営もうと考えているのかな。

「でも、智也さん、体の痛みは大丈夫ですか?」
「だいぶ痛みはなくなったし、ここに入ればきっと治ると思うよ。とっても気持ちいいし。それに、したときには……その後に温泉に入ればいいんじゃないかな。筋肉痛とか関節痛にも効くんでしょ?」
「そ、そうですね。あははっ……」

 美来、顔が真っ赤だな。
 さっきよりもドキドキしてしまっている。美来に手を握られているし。話題でも変えないと早々とのぼせてしまいそうだ。

「そういえば、僕は来月の初めくらいから転職活動を本格的に始めるつもりだけど、美来は学校の方はこれからどうしようと思ってる? 今は休学しているんだよね。月が丘高校に復学するか、それとも別の高校に転校するか……」
「そうですね……」

 まずい。話題を変えようと必死だったけど、さすがに学校のことはまずかったか。これからのことが気になって訊いたけれども。美来、笑顔のままだけれどしんみりとした感じになってしまっている。

「私、別の高校に転校しようと考えています」

 ごめん、と言おうとしたら美来は僕の目を見てはっきりとそう言ったのだ。

「転校か……」

 さすがにクラスと部活でいじめがあったから、復学はしないか。詩織ちゃんという心強いクラスメイトもいるけど。まあ、彼女とは連絡手段もあるし、個人的に付き合っていくことはできるだろう。

「楽しい高校生活を送るためだ。環境を変えることも大切だよね」
「はい。月が丘には詩織ちゃんもいますから、寂しい想いはありますが。お父さんとお母さんにも許しをもらって、天羽女子という私立高校に転校しようと考えています。実はその高校にも声楽部があって、高校入試のときに受験して合格した学校の1つなんです」
「そうなんだ。声楽部がある学校なんだね。それは良かった。入試で合格しているなら、学力的にも問題ないのかな」

 とても合理的な考え方だと思う。女子校というのもいいな。あとは、月が丘高校と天羽女子高校の双方が美来の転校を了承すればいいって感じかな。
 そういえば、天羽女子高校って……去年のインターハイの時期に凄い生徒がいると話題になった高校だったな。確か、陸上競技の短距離種目で、3年連続で3つの競技で優勝した……原田絢っていう子がいたんだっけ。美来と同じ金髪の子だったので思い出せた。
 僕がそんなことを思い出していたら、美来は僕と向かい合うようにして座り、僕の胸に頭を付けてくる。

「今の私があるのは智也さんのおかげです。本当にありがとうございます。そして、これからも……末永く。いずれはお嫁さんとしてよろしくお願いします」
「……僕こそ本当にありがとう。これからもよろしくね。いずれは……旦那さんとして」
「はい!」

 僕らは見つめ合って、そっとキスする。美来のことを抱きしめると、美来も僕のことを抱きしめてきて。美来の体、本当に柔らかいな。

「ドキドキしちゃいますね」
「そうだね。それに、何だか美来のことを見ていると、僕と釣り合っているのかなって思うよ。美来が嫌いとかそういうことじゃなくて、美来が色々と凄すぎて……」

 つい最近知ったけれど、月が丘高校って凄く頭のいい高校らしいし。頭も良ければ、大好きな歌も上手で、顔も可愛らしさと美しさを兼ね備えていて。おまけにスタイルもいいし……とんでもなくハイスペックお嬢さんなんだよな、美来って。
 美来はクスクスと笑う。

「ふふっ、何を言っているんですか。智也さんだって、私を迷子から救ってくれて、いじめからも救ってくれて。私の絡んだ無実の罪で逮捕されても、釈放されて今、ここにいるじゃないですか。智也さんはとても凄い方です。それに、有紗さんという女性もいる中で私を選んでくれた。それが本当に嬉しいんです。10年前からずっと、智也さんの優しさが私の手を引いてくれているんです。だから、これからも私のことを幸せな時間へと連れて行ってください」
「もちろんだよ。だから、僕から離れないでほしい」
「もちろんです。だって、10年間も会わなかったですから。離れたくありません」
「……約束だよ」
「はい」

 僕は美来と再びキスする。離れないという気持ちを確かめ合うように、さっきよりも深く、熱く。
 何だか、温泉よりも美来とのキスの方が効能はあるかもしれないな。そんなことを思った月曜日の夕方なのであった。
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