ルピナス

桜庭かなめ

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第1章

第15話『束縛の影』

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 午後7時。
 女子バスケ部の練習も無事に終わり、俺は渚と一緒に彼女の家に帰る。

「お帰りなさい、渚、藍沢君」
「ただいま、お母さん」
「今日は1日無事に過ごせました、美穂さん」
「そうなの。お疲れ様、藍沢君」

 美穂さんは本当に可愛らしい笑顔を見せる人だ。初めて会ってから1日経つけれど、未だに渚という高校生の娘がいることを信じられない自分がいる。
「ねえ、ちょっと。直人、あのことだけど……」
 渚が俺の脇腹に何回も肘を当ててくる。
「ああ、あのことか」
 彩花が風邪を引いたことが気になっていてすっかり忘れてた。美穂さんに桜でんぶ事件のことについて抗議するんだった。

「2人してどうしたの? あのことってなに?」
「いや、美穂さんの作ってくれたお弁当のことなのですが……」
「渚のお弁当箱に手紙を入れたんだけど、実際にやってみたら驚いたでしょ!」

 美穂さん、凄く楽しそうに言ってくる。きっと、お弁当を作っているときもこんな感じだったんだろうなぁ。

「思いの外、インパクトがありましたね。2人きりでなければ到底できなかったことだと思います」
「ええっ、教室でみんなの前でやってほしかったのに……」

 露骨にがっかりされてしまった。今の美穂さんは俺よりも年下に見える。これでは抗議するのがかわいそうになってきたぞ。

「2つ合わせて初めてハートができるなんて、さすが美穂さんだと思いましたよ! 桜でんぶを使ったのは甘い愛情をイメージしたんですよね!」
「ちょ、ちょっと! 抗議するんじゃなかったの?」
「いや、美穂さんの悲しそうな表情を見たら抗議することに罪悪感が……」
「お、お母さんの方が可愛いからってそういう考えになるわけ?」
「どうしてそうなるんだよ!」

 美穂さんが可愛いことは否定しないけれど。
 渚の鋭い視線と、美穂さんの嬉しそうな視線が俺に向けられる。ああ、俺はどうすればいいんだ。

「直人、思い出して。2人きりでも恥ずかしかったことを」
「藍沢君、思い出して。私が愛情を込めて作ったお弁当、美味しかったでしょう?」

 2人とも、そんなに顔を近づけて言わないでくれませんか。しかも、互いに睨み合っているし。
 こんなことになった原因の種を蒔いたのは俺だ。俺が早く決断しないと2人の間に亀裂が入ってしまうかもしれない。
「え、ええと……」
 本当に申し訳ない。

「美穂さん、あれはちょっとやり過ぎです。遊び心があるのは良かったんですけど、付き合ってもいない俺達には衝撃が大きすぎて……」

 昼休みに感じた恥ずかしさは今でも鮮明に覚えている。2人きりだからまだ良かったというほどだ。

「そ、その……お母さんが私と直人が恋人同士のように思ってくれているのは嬉しいんだけど、直人の言うとおり私達は付き合ってないから。それに、2つ合わせて1つのハートができるなんて恥ずかしいよ……」

 渚は弁当をくっつけた場面を思い出しているのか、頬を真っ赤に染めている。あの時もかなり恥ずかしそうにしていたからな。
 俺達の抗議に対して、美穂さんは再びがっかりするかと思ったけど、意外にも笑顔を見せていた。

「可愛いわね、2人とも。渚が恥ずかしがるのは想像できていたけれど、まさか藍沢君まで抗議してくるとは思わなかったよ。だから、ちょっと意地悪したくなっちゃったの。それに、藍沢君を渚と取り合うなんて気持ちが若返っていいじゃない」

 つまり、あの落胆は演技だったわけか。上手すぎですよ。あと、旦那さんが可哀想な気がする。

「俺、美穂さんががっかりしたから罪悪感が抱いちゃいましたよ」
「あらあら、そんなに真剣に悩んでくれたのね」
「笑って済むことじゃないと思うけどね、お母さん」
「でも、渚が嫉妬しているのも可愛かったわよ。藍沢君が私に取られちゃうんじゃないかって本気で思ったでしょ」
「だって、お母さんは可愛いんだもん……」

 悶える娘を優しい眼差しで見る母親。今となっては微笑ましい2人だけど、さっきは俺の取り合いのようになっていて恐ろしかった。あれが修羅場というやつか?
 完全に俺と渚は美穂さんのペースに乗せられてしまったわけか。意外と彩花よりもこの人の方が要注意人物な気がしてきた。

「まあ、今日は初めてだったからね。ちょっと遊び過ぎちゃったわね」
「ちょっとどころではない気がしますが」
「あらあら、意外と厳しいのね、藍沢君って」
「渚が本当に恥ずかしそうにしていたので。2つ合わせてハートは反則です」
「思いついたときはこれだって思ったんだけど。2人には早すぎたかしら。今度からは普通に作るから安心して」
「……普通のお弁当、楽しみにしています」

 今日は金曜日だから、次に弁当を持って行くのは月曜日か。土日の間、美穂さんにとんでもないアイデアが降臨しないことを祈ろう。
 抗議したこともあってか、渚は依然として頬を赤らめていたけれど嬉しそうな表情をしていた。

「ありがとね、直人」
「今後の俺達のためだからな。あの弁当がずっと続いたら、俺もいずれは精神的にまいるぞ」
「そうだよね。あと、直人が私の方を選んでくれて嬉しかったよ」

 どうやら、あのとき……渚は本気で美穂さんと張り合っていたようだ。美穂さんの方が可愛いと思って不機嫌になってたし。
 俺と渚はリビングに入り、ソファーに隣同士で座る。

「藍沢君。そういえば、学校で彩花ちゃんと会ったの?」
「彩花はどうやら風邪を引いて休んでいたそうです。彩花のクラスメイトの女子からそう聞きました」
「あら、そうだったの。それは大変ね」
「彩花に電話をしてみたのですが通じなくて。一応、メッセージを入れておいたので大丈夫だと思います」
「もしかしたら、藍沢君のことでショックを受けちゃったのかもね」
「ちょっと! お母――」
「いいんだ、渚。俺も風邪で休んだって聞いたとき、すぐにそう思ったから」

 メッセージで伝えた通り、病は気からだ。俺が家を出たことで彩花に相当な精神的ショックを与えてしまったのは確かだ。そのせいで体調を崩してしまったということは十分に有り得る。

「渚の側にいるだけの自分が許せなくなってきたよ。午後の部活の間、俺はずっとそう思っていた」
「ということは何かしようって考えているの?」
「……ああ。俺の方から彩花が束縛したがる理由を明らかにする」
「でも、それは宮原さんにとって直人に知られたくないことかもしれない。宮原さんが自分から話すのを待った方がいいんじゃない? その方が彼女のためになると思う」

 渚の言うことに一理ある。彩花にだって誰にも知られたくないことだってある。俺だからこそ知られたくないこともあるだろう。

「直人は束縛の理由を知ることで宮原さんを救えると思っているの?」
「今の時点で救えるとははっきりと言えない。でも、俺は思い出したんだよ。俺が家を出て行くとき彩花は『誰も守ってくれる人がいなくなる』って言ったんだ」
「それは何か違和感があるね。普通なら寂しいとか言うのに」
「ああ。そのときの彩花の目は何かに怯えているような感じだった。何か理由があって守る人がいなくなる、って言ったんだと思う」
「じゃあ、その言葉を言った理由っていうのが?」
「俺を束縛する理由だと思う。俺はそれを知りたいんだ。そうすることで彩花を助けることができると思う」

 彩花は何らかの理由で俺に守って欲しかったんだ。もしかしたら、その理由が言えないから止むを得なく束縛したのかもしれない。それに気づいたとき、渚の側にいるだけじゃ気が済まなくなったんだ。

「渚、頼む。香奈さんに電話をしてくれないか。香奈さんに彩花の過去を知っている人がいないかどうか訊いてほしいんだ。できることなら、彩花のことを知っている後輩全員に。俺には縦の繋がりがない。このことを頼めるのは渚しかいないんだ」

 俺は渚に頭を下げる。渚がダメだと言ったら、そのときは明日、香奈さんに直接訊くつもりだ。
 無言のまましばらくして、

「分かったよ。香奈ちゃんに訊いてみる」

 落ち着いた口調で渚はそう言った。

「ありがとう、渚」
「宮原さんが直人を求める理由は私だって知りたいからね。それに言ったでしょ。宮原さんのことなら協力させてって」
「……そうだったな」

 本当に渚には頭が上がらないな。渚は俺と彩花を繋げてくれる架け橋になっている気がする。それは彼女の名のように。
 渚はスマホで香奈さんに電話をかける。
「香奈ちゃん? 宮原さんのことなんだけど……」
 彩花の過去を知っている人がいないかどうか探してくれるよう交渉に入る。
 香奈さんが理由を知りたいと訊いたのか、渚は彩花の行った束縛について簡潔に喋っていた。香奈さんは彩花のことをどう思うだろうか。彩花を見放し、俺達に協力しないという不安が多少なりともある。
「ねえ、直人」
「どうした?」
「香奈ちゃんが直人と話したいんだって。側にいるなら変わってほしいって」
「分かった」
 俺は渚からスマホを受け取る。

「藍沢だ。突然のことでごめん。あと、今日は色々と騙してごめんなさい」

 どんな理由であれ嘘はいけないことだ。俺は香奈さんに謝る。

『……藍沢先輩が嘘をついたことは別にいいですよ。それよりも、渚先輩がさっき言ったことは本当なんですか? 藍沢先輩』

 信じられない気持ちが強いのか、香奈さんの声は震えていた。そりゃ当たり前だ。天使と呼ばれているような彩花が俺を束縛していたんだから。

「……本当だ。彩花は俺を束縛したがっている。一昨日の夜は手錠をかけられた。それは俺に原因があったんだけどな」
『そんな、信じられません。彩花ちゃんがそんなことをするなんて……』
「俺は彩花がただ束縛したいと思ってやっているとは思えないんだ。必ず何か理由があって俺を求めている。手錠を使ってまで縛り付けなければいけないような理由が。それは彩花の過去にあると思う。だから、高校に入学するまでの彩花を知っている人に話を聞きたいんだ」

 彩花の過去を知っている可能性が最も大きいのは同級生だ。そんな人を最も探せるのも同級生。そして、香奈さんは彩花のクラスメイトでもある。

「香奈さん、彩花の過去を知る人を探して、俺と話すことを頼んでくれないか。俺が頼める後輩は香奈さんしかいない。……お願いします」

 香奈さんが目の前にいるわけではないけど、俺は再び頭を下げる。

『……彩花ちゃんのことを助けるって約束してくれるんですね?』
「ああ、もちろんだ」
『それなら、協力します。あたしにとって彩花ちゃんは大切な友達ですから』
「そうか。感謝するよ」
『あたしは高校に入学したときに彩花ちゃんと出会ったので分からないですけど、クラスに彩花ちゃんと同じ中学校出身で、彩花ちゃんと親友の子がいるんです。その子なら多分、何か知っているんじゃないかなと』
「じゃあ、その子に頼んでくれるかな。もし、会ってくれることになったら俺と彩花のことを軽く話しておいてくれないかな」
『了解です。なるべく早く返事をできるようにしますね』
「本当にありがとう。あと、重ね重ね申し訳ないけど、俺と渚が動き始めたことは彩花の耳には入れないでほしい」
『分かりました』

 香奈さんの方から通話を切った。
「どうだった?」
 電話の内容が気になっていたのか、渚は俺に物凄く顔を近づけて訊いた。

「香奈さん、協力して探してくれるって。香奈さんの話だと、彩花のクラスメイトに同じ中学出身の親友がいるらしい」
「じゃあ、その人と話すことができれば……」
「ああ、彩花を助ける鍵を見つけることができるかもしれない」

 その後のことは話の内容次第だ。彩花に話を聞くかもしれないし、場合によっては俺が原因となったものを解消することも有り得る。
 10分後、香奈さんから電話がかかってきた。例の親友の子と連絡が取れ、明日の正午過ぎに会って彩花のことを話してくれることになった。これで、彩花に何があったのかを知ることができる。
 彩花にかかっていた霧がようやく晴れてきたような気がした。
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