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プロローグ・あいらぶにゃう
しおりを挟む志乃の両目から、透明の雫がボタリと腹の上に落ちる。
「嫌だ……嫌、ねえ、嘘だよ! 返事してよ、虎徹」
志乃は俺を抱きかかえたまま膝をついて、床に額を落とした。震える唇から吐き出される、悲鳴に近い嗚咽が室内を満たしていく。
やがて部屋中が彼女の涙でいっぱいになったころ。重力を失った俺の体がフワリと宙に浮き上がった。
ついにお迎えが来やがったか――――
*
志乃と出会ったのは、俺がまだ肉饅くらいの大きさだったころ。
母猫と別々になって丸二日。散々さ迷い歩いた末に『これはもうダメだな』と、草むらに体を横たえた。どうせダメなら無駄に騒がず、静かな最後を迎える方が性に合っている。
俺はゆっくりと目を閉じた。
ちぃ、雨まで降って来やがった。ああ、もう一度。もう一度だけでいいから、暖かい毛溜まりの中で微睡みたかった。それが叶うなら、どんな無茶な願いでも叶えてやるのに。
そう思ったときだった。柔らかなぬくもりに包まれ、体がフワリと浮き上がったのだ。
「大丈夫、大丈夫だからね」
大丈夫な訳ないだろう、こんなに腹も減ってるし、体が冷え切って死にそうなんだぞ。
声の主をギロリと睨む。
は、なんだ、どうしてこいつが泣いてるんだ?
「私が絶対に守ってあげるからね!」
泣きながらも力強く俺を守ろうとする細腕。そのぬくもりに思わずウトウトと微睡んだ俺は。
仕方ねえ、こいつの無茶な願いを叶えてやるか――そう、心に誓ったのだった。
*
すんでのところで一命を取り留めた俺は、志乃という名の女をなかなか気に入って、約束通りどんな願いでも叶えてやろうと思っていた。だがどうにもこの女には〝欲〟というものが欠落しているようで、いつまで経っても無茶な願いどころか、小さなことさえも望みやがらない。
義理堅い俺は非常に戸惑いながも、志乃との淡々とした生活の中で、それを忘れていった。
そうして月日は流れ、ついにこいつが生涯の伴侶とやらを見つけて、ホッと一安心した時には、雨の日に草むらで出会ってから十八年がたっていた。
さすがの俺も随分ガタがきて、目は見えにくいし自慢の髭もショボくれてきた。『この世とも、近いうちにお別れかな』などとぼんやりと考えるようになって……ところが志乃は、今になってとんでもないことを言い出したのだ。
その願いはショボくれていた俺の髭さえ、ピーンと立ち上がるほどの無茶苦茶さ加減で『いやはや欲のない女が欲出すと、とんでもないことを言い出すものだ』と呆れてしまう。
「ねえ虎徹、猫って20年生きると猫又《ねこまた》になるんだって。お願い、後2年頑張って猫又になって。尻尾が割れてもいいから、ずっと一緒にいよう」
そう言って俺の艶の無い毛並みに頬を埋めた志乃は、初めて会ったあの日のように泣いていた。
しょうがねえなあ、一丁頑張ってみるか。後2年。猫にとってのここからの2年はなかなかハードだぞ。しかしまあ、約束しちまったもんは仕方ない。
俺はブルブルと体を震わせて気合を入れ直した。
けれども、それは予想以上に辛かった。
もう腰高の窓枠に飛び上がる事も出来ないし、飯もそんなに食いたくない。日がな一日、ベランダの掃き出し窓に寄りかかって、うつらうつらする毎日だ。
ああ、だが一つだけ悪くないことがある。一緒に暮らすようになった志乃の旦那。こいつがなかなか悪くないやつで、顎の所に志乃にはない固い針のような髭を持っていて、そこに頭や頬を擦り付けた時の快感と言ったら……ゾワゾワと背骨を駆け巡る甘い疼きに、柄にもなくゴロニャンなどと情けない声が出てしまう。
更にこの男、聞き分けのいいやつで、俺が見上げてねだると嬉々として寝転がり、顎を差し出すのだ。生まれながらの下僕体質なんだろうな。
そんなこんなで何とか踏ん張っていたのだが、ある雨の日だった。グラリと床が曲がって見えて、手足の力が全く入らなくなってしまったのだ。
志乃と旦那は俺を〝ビョーイン〟という不快な場所に連れて行って、そこにいた偉そうな男と会話していたが、やがて項垂れながら家に帰った。
志乃も旦那も泣いていた。
一晩中俺の傍に寄り添い続けた二人だったが、旦那は朝になるとしぶしぶ部屋を出て行った。
あとに残されたのは、俺と志乃の二人。
俺はいまだかつてなく困っていた。
志乃と約束した二十歳までまだ一年弱あるのに、どうやら俺の命の期限はあと数時間らしいのだ。二十年生きたら猫又になれるのかどうかは知らないが、せめて二十年と言う約束だけでも守ってやりたい。
息も苦しいし、痛い所だらけ。だがあと少し、なんとか志乃の為に生きなければ……
そう思わすに充分な志乃の情けない顔。俺がいなくなったらこの女、どうなっちまうんだ……
ああ、だけど志乃、悪い……俺、もう限界だ。
志乃の悲鳴も小さくなって……重力を失った体がフワリと浮き上がった。
ついにお迎えが来やがったか。
あいらぶにゃう。
愛していたぜ、志乃。
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