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薄淡の章

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正徳寺。

雪の中を休みなく疾走したせいで、門前までたどり着いた時には、帰蝶の手足は冷え切り感覚を失っていた。
信長は薄着にもかかわらず、凍えた様子もなく、ひらり――馬上から飛び降りると、帰蝶の馬に歩み寄り右手を差し出した。

「ほら、手を貸してやろう」

弱味を見せたくはない。
帰蝶はその手を振り払い、軽やかに馬上から飛び降りた――つもりだったが。

「つっ――!」

雪に足を取られ、よろめいてしまう。

「どうした、寒さにやられたか」
「いいえ、ご心配には及びません」

答えて目をそらした瞬間、体がふわりと宙に浮いた。

「なっ!?」
「無理をするな」

まるで赤子のようにあっさりと、信長に抱え上げられたのだ。

「離せ、自分で歩ける」
「遠慮するな、夫婦みょうとではないか」

声を上げて笑う信長の手中、帰蝶は必死になって手足をばたつかせる。

情けない。このような無粋な男に、いいように扱われようとは。
唇を噛んだ帰蝶だったが、信長に拘束され、唇を奪わてしまう。

はじめは何が起こったの分からなかった。
けれども凍えて冷たい唇に信長の熱が伝わり、心臓を蹴られたような衝撃を受けた。

「……なっ、なにを!?」
「蝮の姫は清いのう、接吻も知らぬか」

豪快に笑った信長は、寺門を足で蹴り開け「じい、戻ったぞ!」と、声を張った。
同時に赤い顔をした初老の男が、なにやら叫びながら現れる。

「殿、あなたと言うお方は、何故いつも肝心な時にふらふらふらふら! 我が殿はうつけを拗らせ気でも違われたか。はたまた雪の魔物にかどわかされ、冥界へと旅立ってしもうたかと、この平手がどれだけ気を揉み走り回ったことか――」

いつ息継ぎをしているのだろう。
竜巻のごとく捲し立てる男に、帰蝶は圧倒される。

「呆けた顔をなさいますな、年寄りの繰り言ではござらんぞ、今日という今日はこの平手、腹掻っ捌いて――」
「分かった分かった、それよりこの姫だ」

慣れた様子の信長に言葉を遮られ、やっと帰蝶に気づいた男は訝し気な顔をした。

「この女人は?」
「凍えて手足が動かんようだ。なにか体が温まるものを」

信長は男を無視して、寺の中に歩みを進める。

「お待ち下さい!」

男が慌ててふたりの前に回り込み、行く手を阻んだ。

「そのような怪しい女を、部屋に入れる訳にはまいりませぬ」

大事な謁見を投げ出し、どこへやらと出奔した主が、武装した女を抱えて戻ったのだ。理解しろという方が酷であろう。
鼻息荒い男とは対照的に、信長はさらりと言ってのける。

「怪しいものか、こいつは帰蝶だ……本物のな」
「………は?」

異形を見るような目が帰蝶に向けられる。
信長は盛大なため息をついた。

「じい、いい加減に気づけよ……あの帰蝶は替え玉だ」

その瞬間、先ほどまで真っ赤だった男の顔が青ざめる。

「ま、誠でござるかっ!?」
「ああ、誠でござるよ、なあ帰蝶」

涼しい目で同意を求められ、帰蝶も渋々と頷く。
それを見た男は青を通り越し蒼白となった。

「な……ば、うがぁぁぁぁ!!」

そうして言葉にならぬ奇声を発しながら、寺の中に駆け込んで行ってしまう。

「……あの」
「なんだ」
「あの方は、大丈夫なのでしょうか」
「いつものことよ」

信長は帰蝶を抱きかかえたまま、フンと鼻で笑う。

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