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若紫の章
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* * *
同時刻――美濃、 稲葉山城。
「帰蝶、帰蝶はどこじゃ?」
相変わらず五月蝿い。
呼ばれた帰蝶は、父である斎藤道三の大声にため息をつきながら、部屋の戸を開け放った。
「父上、私はここです」
室内に侵入してくる太陽光が、彼女の豊かな黒髪を輝かせる。
「愛しき我が娘よ。相も変わらず美しいの」
光と共に無遠慮に室内に押し入った斎藤道三は、帰蝶に向かって両手を差し出す。
顔を見るたびに吐き出される空虚な賛辞。繰り返されるあたり前の幸せ。しかし帰蝶の胸はざわついて止まない。
安っぽい砂糖菓子を、無理矢理、奥歯に詰め込まれるような、言いようの無い苛立ちが帰蝶の心を支配しているのだ。そしてそれは数日前、道三から、ある『計画』を聞かされて以来、日に日に存在感を増していく。
「帰蝶、飯を残したそうじゃな」
心配気に帰蝶の頬に触れる道三の手は、大きくゴツゴツしている。帰蝶はこの手が大好きだ。
「ご心配には及びません」
父に心配をかけまいと笑顔を向ける。けれども道三はあっさりと、その心を見抜いた。
「織田が気になるか」
「……はい。私にはうつけと呼ばれる信長が、不気味に思えてなりません」
「と言うと」
「あの男は、真のうつけなのでしょうか」
「替え玉を見抜かれるのではと、心配しておるのか」
小さく頷く帰蝶。
美濃の蝮と呼ばれた食わせ者、斎藤道三が立てた計画はこうだ。
織田家と同盟を結ぶにあたり、最愛にして才色兼備だと評判の娘、帰蝶を差し出し――、と見せかけ、実際に替え玉の女中を嫁がせる。そして織田の信頼を得た後、時が来れば裏切り、尾張を手に入れるというもの。
「そう上手くいくものでしょうか」
京都の僧侶から油売りとなった道三は美濃に渡り、主君に認められ、瞬く間に守護代に成り上がった。さらには引き立ててくれた主君を討ち、絵にかいたような下剋上を成し遂げた。
恩をあだで返した蝮――。蝮なら蝮らしく、情など持たなければよいのだ。
いくら娘が可愛いからとて、替え玉を使うなど馬鹿げたことを……それも、斎藤の存続をかけた大博打に。
帰蝶は父の決めたこととはいえ、どうしても不安が拭えない。
尾張が欲しいなら、美濃を守る気があるなら、自分を差し出し、そして切り捨てればいい。
それが戦国の世であり、成り上がった父のやり方だったはずではないか。
帰蝶とて覚悟は決めていた。
「この身は父上の物。たとえ捨て駒になろうとも、それが美濃のためであるならば――」
決意に満ちた帰蝶の声を、明るい声が遮った。
「難しい顔をするでない。今しがた婚礼の儀が、滞り無く終わったそうだぞ」
潔く美しい娘、帰蝶の頭を撫でながら高らかに笑う道三。
「本当ですか?」
「やはり信長は大うつけだ。美濃一の才色兼備と謳われたお前と、女中の区別もつかんのだからのう。まあ、あの女中には、芸事や言葉使いをさんざ仕込んだのだから、気づかぬのも無理はないがな」
したり顔の道三。
しかしそれでも悪い予感は帰蝶の胸に広がり続け、明るい日差しに影をおとす。
「ならば……よいのですが……」
「阿呆の息子を持つ織田も、不運よの」
帰蝶にはもう、この笑顔が永遠に曇らぬようにと、祈ることしか出来なかった。
暑い夏の午後。
戦いの火蓋が切って落とされた事実を、この時の彼女はまだ知らない。
同時刻――美濃、 稲葉山城。
「帰蝶、帰蝶はどこじゃ?」
相変わらず五月蝿い。
呼ばれた帰蝶は、父である斎藤道三の大声にため息をつきながら、部屋の戸を開け放った。
「父上、私はここです」
室内に侵入してくる太陽光が、彼女の豊かな黒髪を輝かせる。
「愛しき我が娘よ。相も変わらず美しいの」
光と共に無遠慮に室内に押し入った斎藤道三は、帰蝶に向かって両手を差し出す。
顔を見るたびに吐き出される空虚な賛辞。繰り返されるあたり前の幸せ。しかし帰蝶の胸はざわついて止まない。
安っぽい砂糖菓子を、無理矢理、奥歯に詰め込まれるような、言いようの無い苛立ちが帰蝶の心を支配しているのだ。そしてそれは数日前、道三から、ある『計画』を聞かされて以来、日に日に存在感を増していく。
「帰蝶、飯を残したそうじゃな」
心配気に帰蝶の頬に触れる道三の手は、大きくゴツゴツしている。帰蝶はこの手が大好きだ。
「ご心配には及びません」
父に心配をかけまいと笑顔を向ける。けれども道三はあっさりと、その心を見抜いた。
「織田が気になるか」
「……はい。私にはうつけと呼ばれる信長が、不気味に思えてなりません」
「と言うと」
「あの男は、真のうつけなのでしょうか」
「替え玉を見抜かれるのではと、心配しておるのか」
小さく頷く帰蝶。
美濃の蝮と呼ばれた食わせ者、斎藤道三が立てた計画はこうだ。
織田家と同盟を結ぶにあたり、最愛にして才色兼備だと評判の娘、帰蝶を差し出し――、と見せかけ、実際に替え玉の女中を嫁がせる。そして織田の信頼を得た後、時が来れば裏切り、尾張を手に入れるというもの。
「そう上手くいくものでしょうか」
京都の僧侶から油売りとなった道三は美濃に渡り、主君に認められ、瞬く間に守護代に成り上がった。さらには引き立ててくれた主君を討ち、絵にかいたような下剋上を成し遂げた。
恩をあだで返した蝮――。蝮なら蝮らしく、情など持たなければよいのだ。
いくら娘が可愛いからとて、替え玉を使うなど馬鹿げたことを……それも、斎藤の存続をかけた大博打に。
帰蝶は父の決めたこととはいえ、どうしても不安が拭えない。
尾張が欲しいなら、美濃を守る気があるなら、自分を差し出し、そして切り捨てればいい。
それが戦国の世であり、成り上がった父のやり方だったはずではないか。
帰蝶とて覚悟は決めていた。
「この身は父上の物。たとえ捨て駒になろうとも、それが美濃のためであるならば――」
決意に満ちた帰蝶の声を、明るい声が遮った。
「難しい顔をするでない。今しがた婚礼の儀が、滞り無く終わったそうだぞ」
潔く美しい娘、帰蝶の頭を撫でながら高らかに笑う道三。
「本当ですか?」
「やはり信長は大うつけだ。美濃一の才色兼備と謳われたお前と、女中の区別もつかんのだからのう。まあ、あの女中には、芸事や言葉使いをさんざ仕込んだのだから、気づかぬのも無理はないがな」
したり顔の道三。
しかしそれでも悪い予感は帰蝶の胸に広がり続け、明るい日差しに影をおとす。
「ならば……よいのですが……」
「阿呆の息子を持つ織田も、不運よの」
帰蝶にはもう、この笑顔が永遠に曇らぬようにと、祈ることしか出来なかった。
暑い夏の午後。
戦いの火蓋が切って落とされた事実を、この時の彼女はまだ知らない。
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