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第六章 地上調査
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ふと視線を感じ、渥美は振り返った。
追い払ったはずの生き物たちが、いつの間にか戻ってきていた。遠巻きにこっちを眺めている。
ぎくりとして見上げると――蜻蛉が頭上を旋回していた。
それは上空を広く飛び交っているうちの一匹で、渥美たちを狙っているわけではなかったのだが、渥美は総毛立つほどの恐怖に駆られた。
寛人の背嚢を取り上げて中をあさり、発煙筒を引っ張り出す。
(……最後の一本)
着火した。勢いよく噴き出した煙に、動物たちは驚いたように跳び退いた。
「お前ら、煙が怖いのかよ」
虫除けと焚いたものが、他の生き物の牽制ともなっている。予想外の効果だった。
だが奴らも馬鹿じゃない。じきに、この煙がこけおどしと気づくだろう。――今のうちに寛人を背負ってここから逃げなければ。
「柚木、起きれるか?」
寛人の首の後ろに手を入れて、ゆっくりと持ち上げたその時。
すぐ背後からブルルル、と嘶きが聞こえた。
渥美はぎょっと振り向いた。体調二メートルを超えるどっしりした体格の生き物が、こっちをじっと見ていた。濃い茶色の体毛。首と頭が長く、胴体を支える丈夫そうな四肢の先には、指のかわりに蹄がついている。
(こいつ知ってるぞ。――馬だ)
だが、渥美が知っている姿とは微妙に違うところもあった。
頭から首の上部にかけて生えているはずの鬣は顔を囲うように生えていたし、尾もなかった。
ともあれ、渥美はほっと胸を撫で下ろした。馬は――確か大人しい草食動物だ。
古くから農耕や運搬に使役され、さらには食用にもなるという。
(こいつに寛人を乗せていけないか?)
渥美はぱっと顔を上げた。すごくいい案に思えたのだ。――だが、すぐに力なく首を振った。そんなことできるわけがない。飼い慣らされた家畜でもないのに。
渥美は苛立ちまぎれに、その馬によく似たその生き物に発炎筒を向けた。
「あっち行けよっ」
馬は煙に驚いたように後ろ足立ちになった。嘶きを上げたその口には鋭い牙がずらりと並んでいた。それは肉を食いちぎる、肉食獣のものだった。
(草食じゃない)
とっさに庇うように寛人の前に出ると、発煙筒を掲げた。
「来るな――」
馬の後ろには、雑多な生物たちが集まっていた。いつの間にか、じりじりと間合いを詰められている。
冷たい汗が、背を伝った。――食われる。
恐ろしさに頭がかっと熱くなった。膝が音を立てるほどに震え出す。
「……ありがとう。もう、いいから。行ってくれ……」
力ない声音に、渥美は振りむいた。
寛人の黒々とした瞳が見つめている。
思わず「嫌だ」と口走った。
寛人は微かに眉根を寄せた。その顔に苛立ちのようなものが浮かんだのに気づき、こんな状況なのに、渥美はなんだか胸のすくような気分になった。
唐突に含み笑いをする渥美に、寛人は不可解なものを見るような顔をした。
「あ、渥美……」
「狂っちゃいねえよ」
そのおかげで、あれだけ意識を支配していた恐怖がすっと引いていった。
渥美は眼前の馬を見据えながら、地面に発煙筒を置いた。かわりに近くに転がっていた枝を拾うと、袖を破り、先端に巻きつけてチャッカマンで火をつけた。
揺らぐ炎に、周囲の生き物たちは後退した。
馬も驚いたように跳び退ったが、すぐに興味深げに近づいてきた。猫がじゃらしで遊ぶかのように、松明を蹄で引っかき始める。
「こいつ……火が怖くないのかよ」
渥美は松明を前脚に押し付けた。炎が脚を焼き、馬は嘶きをあげて飛び退った。
「火は危ねえんだぜ。わかったか」
馬の、顔の周りの鬣がバッと立ち上がる。怒ったのだ。
「……渥美、逃げて……」
寛人が細い声で呟いた。
「大丈夫だから、寝てろ」
(やつらは弱っているものから襲う。狙われるとしたら、まず、柚木だ)
自分にひきつけなければ――渥美は松明を地面に突き刺した。
背嚢からナビゲーション端末を取り出し、寛人の枕元に置いた。緊急信号の発信ボタンを押す。
「運が良ければ……救助が来るかもな」
渥美はナイフを引き抜くと、泉の水で無造作にすすいだ。
何をしようとしてるんだ俺は――そう思いながら、自分の左腕に刃を当てた。呼吸が荒く切迫する。
「あ――渥美、なにを……」
朦朧とする目を見開く寛人に、渥美は目を向けた。
そうだ。ずっと悔しかったのだ。
こっちがどんなに憎んでも、寛人には全く響かない。所詮は、寛人を恨んでいる数多の連中の一人でしかないのだ。
ずっと一方通行だった。それがものすごく悔しくて、憎たらしかった。
――この恨みはどこに向けばいいのか。
(俺の命をかけれてやれば。――こいつの中に自分を刻むことができるだろうか)
まわりの音が遠のき、心音が耳にうるさいほどだ。冷たい汗がとめどなく背を伝う。――渥美は固く目を瞑り、ナイフを引き下ろした。
腕からはたちまち血が溢れて腕を伝い、地に滴った。血の臭いに、馬――そして、周囲の生き物たちが鎌首を擡げる。
不気味なくらい静かだった泉の周囲は凶暴な生気を取り戻したかのように一変した。
そのさまに全身が総毛立った。あまりの恐怖に、ナイフの傷の痛みすら感じないほどだった。
だがもう、後戻りはできない。
「どうして……」
掠れた震え声に、渥美は我に返った。
寛人は呆然としていた。まるで意味がわからないといった顔だった。
渥美は、急速に恐怖が緩んでゆくのを感じた。自分のしたことで、寛人がこんなにもショックを受けている。なんだか、一矢報いてやったような気分だった。
「……いいか、柚木。決して火を絶やすなよ」
渥美は踵を返すと全速力で走り出し、茂みに駆け込んだ。
背の高い下生えの中をがむしゃらに走る。背後から無数の気配を感じた。殺気が丸ごとついてきているようだ。それだけたくさんのものが、渥美を追って来ているのだ。
(振り向くな。走り抜け――)
その時、不意に頭上に影が落ちた。思わず背後を振り仰いだ。
鬣をたなびかせた馬が宙に浮いていた。完全に目が合った。
後ろから右肩を蹴られ、渥美は地面にうつ伏せに叩きつけられた。前脚で背中を踏まれ、あまりの重さに肋骨が軋む。肺を圧する苦しさに呻いた。
首筋に生暖かい滴りを感じ、目だけで振り向くと馬の顔が間近にあった。
唇がびらりと開き、鋭い歯が剥き出しになる。涎が頬にぼたぼたと垂れた。
(――終わりだ)
渥美は目を瞑った。
追い払ったはずの生き物たちが、いつの間にか戻ってきていた。遠巻きにこっちを眺めている。
ぎくりとして見上げると――蜻蛉が頭上を旋回していた。
それは上空を広く飛び交っているうちの一匹で、渥美たちを狙っているわけではなかったのだが、渥美は総毛立つほどの恐怖に駆られた。
寛人の背嚢を取り上げて中をあさり、発煙筒を引っ張り出す。
(……最後の一本)
着火した。勢いよく噴き出した煙に、動物たちは驚いたように跳び退いた。
「お前ら、煙が怖いのかよ」
虫除けと焚いたものが、他の生き物の牽制ともなっている。予想外の効果だった。
だが奴らも馬鹿じゃない。じきに、この煙がこけおどしと気づくだろう。――今のうちに寛人を背負ってここから逃げなければ。
「柚木、起きれるか?」
寛人の首の後ろに手を入れて、ゆっくりと持ち上げたその時。
すぐ背後からブルルル、と嘶きが聞こえた。
渥美はぎょっと振り向いた。体調二メートルを超えるどっしりした体格の生き物が、こっちをじっと見ていた。濃い茶色の体毛。首と頭が長く、胴体を支える丈夫そうな四肢の先には、指のかわりに蹄がついている。
(こいつ知ってるぞ。――馬だ)
だが、渥美が知っている姿とは微妙に違うところもあった。
頭から首の上部にかけて生えているはずの鬣は顔を囲うように生えていたし、尾もなかった。
ともあれ、渥美はほっと胸を撫で下ろした。馬は――確か大人しい草食動物だ。
古くから農耕や運搬に使役され、さらには食用にもなるという。
(こいつに寛人を乗せていけないか?)
渥美はぱっと顔を上げた。すごくいい案に思えたのだ。――だが、すぐに力なく首を振った。そんなことできるわけがない。飼い慣らされた家畜でもないのに。
渥美は苛立ちまぎれに、その馬によく似たその生き物に発炎筒を向けた。
「あっち行けよっ」
馬は煙に驚いたように後ろ足立ちになった。嘶きを上げたその口には鋭い牙がずらりと並んでいた。それは肉を食いちぎる、肉食獣のものだった。
(草食じゃない)
とっさに庇うように寛人の前に出ると、発煙筒を掲げた。
「来るな――」
馬の後ろには、雑多な生物たちが集まっていた。いつの間にか、じりじりと間合いを詰められている。
冷たい汗が、背を伝った。――食われる。
恐ろしさに頭がかっと熱くなった。膝が音を立てるほどに震え出す。
「……ありがとう。もう、いいから。行ってくれ……」
力ない声音に、渥美は振りむいた。
寛人の黒々とした瞳が見つめている。
思わず「嫌だ」と口走った。
寛人は微かに眉根を寄せた。その顔に苛立ちのようなものが浮かんだのに気づき、こんな状況なのに、渥美はなんだか胸のすくような気分になった。
唐突に含み笑いをする渥美に、寛人は不可解なものを見るような顔をした。
「あ、渥美……」
「狂っちゃいねえよ」
そのおかげで、あれだけ意識を支配していた恐怖がすっと引いていった。
渥美は眼前の馬を見据えながら、地面に発煙筒を置いた。かわりに近くに転がっていた枝を拾うと、袖を破り、先端に巻きつけてチャッカマンで火をつけた。
揺らぐ炎に、周囲の生き物たちは後退した。
馬も驚いたように跳び退ったが、すぐに興味深げに近づいてきた。猫がじゃらしで遊ぶかのように、松明を蹄で引っかき始める。
「こいつ……火が怖くないのかよ」
渥美は松明を前脚に押し付けた。炎が脚を焼き、馬は嘶きをあげて飛び退った。
「火は危ねえんだぜ。わかったか」
馬の、顔の周りの鬣がバッと立ち上がる。怒ったのだ。
「……渥美、逃げて……」
寛人が細い声で呟いた。
「大丈夫だから、寝てろ」
(やつらは弱っているものから襲う。狙われるとしたら、まず、柚木だ)
自分にひきつけなければ――渥美は松明を地面に突き刺した。
背嚢からナビゲーション端末を取り出し、寛人の枕元に置いた。緊急信号の発信ボタンを押す。
「運が良ければ……救助が来るかもな」
渥美はナイフを引き抜くと、泉の水で無造作にすすいだ。
何をしようとしてるんだ俺は――そう思いながら、自分の左腕に刃を当てた。呼吸が荒く切迫する。
「あ――渥美、なにを……」
朦朧とする目を見開く寛人に、渥美は目を向けた。
そうだ。ずっと悔しかったのだ。
こっちがどんなに憎んでも、寛人には全く響かない。所詮は、寛人を恨んでいる数多の連中の一人でしかないのだ。
ずっと一方通行だった。それがものすごく悔しくて、憎たらしかった。
――この恨みはどこに向けばいいのか。
(俺の命をかけれてやれば。――こいつの中に自分を刻むことができるだろうか)
まわりの音が遠のき、心音が耳にうるさいほどだ。冷たい汗がとめどなく背を伝う。――渥美は固く目を瞑り、ナイフを引き下ろした。
腕からはたちまち血が溢れて腕を伝い、地に滴った。血の臭いに、馬――そして、周囲の生き物たちが鎌首を擡げる。
不気味なくらい静かだった泉の周囲は凶暴な生気を取り戻したかのように一変した。
そのさまに全身が総毛立った。あまりの恐怖に、ナイフの傷の痛みすら感じないほどだった。
だがもう、後戻りはできない。
「どうして……」
掠れた震え声に、渥美は我に返った。
寛人は呆然としていた。まるで意味がわからないといった顔だった。
渥美は、急速に恐怖が緩んでゆくのを感じた。自分のしたことで、寛人がこんなにもショックを受けている。なんだか、一矢報いてやったような気分だった。
「……いいか、柚木。決して火を絶やすなよ」
渥美は踵を返すと全速力で走り出し、茂みに駆け込んだ。
背の高い下生えの中をがむしゃらに走る。背後から無数の気配を感じた。殺気が丸ごとついてきているようだ。それだけたくさんのものが、渥美を追って来ているのだ。
(振り向くな。走り抜け――)
その時、不意に頭上に影が落ちた。思わず背後を振り仰いだ。
鬣をたなびかせた馬が宙に浮いていた。完全に目が合った。
後ろから右肩を蹴られ、渥美は地面にうつ伏せに叩きつけられた。前脚で背中を踏まれ、あまりの重さに肋骨が軋む。肺を圧する苦しさに呻いた。
首筋に生暖かい滴りを感じ、目だけで振り向くと馬の顔が間近にあった。
唇がびらりと開き、鋭い歯が剥き出しになる。涎が頬にぼたぼたと垂れた。
(――終わりだ)
渥美は目を瞑った。
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