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第六章 地上調査
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目の高さほどまである真っ直ぐな草をかき分けながら、渥美と寛人は森の奥へと進んでいった。
あたりはすっかり暗くなっていた。
気温が下がり、空気が湿り気をおびてゆく。足元もぬかるみだし、地面はじゅわじゅわと水を含んだスポンジのようになっていった。
汗で湿ったシャツが体温を奪ってゆく。寒気に震えが込み上げた。
休みたい――渥美はなかば祈るようにそう思った。だが濡れた土の上で休む気にはなれない。乾いた地面が恋しかった。
「柚木……まだ歩けるか?」
寛人が力なく頷いたその時、不意に華やかな色彩が目に入った。
「え……?」
渥美の上擦った声音に、寛人は顔をあげた。
真っ黒の土壌の向こうに、黄、青、桃色、紫といった、この場にそぐわぬパステル色が闇に滲むように広がっていた。まるでそれ自体が柔らかな光を発しているようである。
渥美は思わず足を竦ませた。山中に突然現れた、この浮いたような華やかさはあからさまに異様だった。
近づくにつれ、その色彩の正体が見えてきた。人の背丈をゆうに超える巨大な蘭の花が、色とりどりの花弁を垂らし、一面に咲き誇っていたのだ。辺りはむせかえるほど花の香りに包まれている。
「花畑……?」
寛人はぽかんと呟いた。
渥美は答えようとしたが、言葉が出なかった。突如、夢の世界にでも放り込まれたような、現実感のない光景だった。
(……なんて綺麗なんだ)
無機質な地下都市では決して見られない極彩色の光景に、渥美も寛人も圧倒されたようにそれを見つめた。
その時。花が揺らいだ。
二人は身を固くした。一本の蘭が、突然、身を擡げたように見えたのだ。
だがそれは蘭ではなかった。
その生き物は、三角形の小さな頭を揺らし、蕊に見せかけた触覚をわらわらとうごめかしながら、蘭の群れから半身を持ちあげた。
「……蟷螂だ」
渥美は語尾の震えを堪えるように呟いた。
蟷螂は昆虫界でも有数の、獰猛で俊敏な夜行性肉食虫だ。その捕食のしかたは、捕らえるなり生きたまま食らいつき、あの小さい口で頭からガリガリと齧って食べるのである。
蘭に擬態して身を隠し、花の香りに誘われてのこのこ獲物がやってくるのを待っていたのだ。
(――こいつがいることを知っていたから、猿は追ってこなかったのか)
花蟷螂は、艶やかな極彩色の身体を伸びをするようにかすかに奮わせた。
前足の大鎌で自分の顔を幾度か擦った。それはまるで昆虫というよりは猫科のしぐさだった。
「……動くなよ。まだ気づかれていない」
花蟷螂はひとしきり顔をこすった後、緩慢な動きで再び蘭の中に身を沈めた。
渥美は、自分があからさまな安堵の息をついているのに気づき、慌てて口を押さえた。
そっと振り向き、寛人についてくるよう手で示した。
二人は身を低め、花畑の中を進んだ。
進むにつれ、湿った地面はしっかりした土に変わっていった。下草が広がりはじめ、蘭はまばらになり――辺りは再び色彩のない深い森に変わっていった。
無事に蘭畑を抜け、渥美はほっと息をついた。ナビゲーション端末を起動する。
いつのまにか、高尾山口駅の近くに来ていた。
屋根のあるところで休める――渥美がほっと胸を撫で下ろしたその横で、画面を覗きこんでいた寛人が呟いた。
「登山道に戻るのは危険だよ。あの猿が待ち構えているかもしれない。この森の中で休める場所を見つけたほうがいい」
渥美は頷きながらも、心中に不安を覚えていた。
この森は、猿だけでなく、他の獣の気配さえまったく感じられないのだ。
(それだけ危険な奴がこの森にいるってことじゃないのか? 蟷螂の他にも――)
残忍な肉食獣をも怯えさせる、化け物が。
あたりはすっかり暗くなっていた。
気温が下がり、空気が湿り気をおびてゆく。足元もぬかるみだし、地面はじゅわじゅわと水を含んだスポンジのようになっていった。
汗で湿ったシャツが体温を奪ってゆく。寒気に震えが込み上げた。
休みたい――渥美はなかば祈るようにそう思った。だが濡れた土の上で休む気にはなれない。乾いた地面が恋しかった。
「柚木……まだ歩けるか?」
寛人が力なく頷いたその時、不意に華やかな色彩が目に入った。
「え……?」
渥美の上擦った声音に、寛人は顔をあげた。
真っ黒の土壌の向こうに、黄、青、桃色、紫といった、この場にそぐわぬパステル色が闇に滲むように広がっていた。まるでそれ自体が柔らかな光を発しているようである。
渥美は思わず足を竦ませた。山中に突然現れた、この浮いたような華やかさはあからさまに異様だった。
近づくにつれ、その色彩の正体が見えてきた。人の背丈をゆうに超える巨大な蘭の花が、色とりどりの花弁を垂らし、一面に咲き誇っていたのだ。辺りはむせかえるほど花の香りに包まれている。
「花畑……?」
寛人はぽかんと呟いた。
渥美は答えようとしたが、言葉が出なかった。突如、夢の世界にでも放り込まれたような、現実感のない光景だった。
(……なんて綺麗なんだ)
無機質な地下都市では決して見られない極彩色の光景に、渥美も寛人も圧倒されたようにそれを見つめた。
その時。花が揺らいだ。
二人は身を固くした。一本の蘭が、突然、身を擡げたように見えたのだ。
だがそれは蘭ではなかった。
その生き物は、三角形の小さな頭を揺らし、蕊に見せかけた触覚をわらわらとうごめかしながら、蘭の群れから半身を持ちあげた。
「……蟷螂だ」
渥美は語尾の震えを堪えるように呟いた。
蟷螂は昆虫界でも有数の、獰猛で俊敏な夜行性肉食虫だ。その捕食のしかたは、捕らえるなり生きたまま食らいつき、あの小さい口で頭からガリガリと齧って食べるのである。
蘭に擬態して身を隠し、花の香りに誘われてのこのこ獲物がやってくるのを待っていたのだ。
(――こいつがいることを知っていたから、猿は追ってこなかったのか)
花蟷螂は、艶やかな極彩色の身体を伸びをするようにかすかに奮わせた。
前足の大鎌で自分の顔を幾度か擦った。それはまるで昆虫というよりは猫科のしぐさだった。
「……動くなよ。まだ気づかれていない」
花蟷螂はひとしきり顔をこすった後、緩慢な動きで再び蘭の中に身を沈めた。
渥美は、自分があからさまな安堵の息をついているのに気づき、慌てて口を押さえた。
そっと振り向き、寛人についてくるよう手で示した。
二人は身を低め、花畑の中を進んだ。
進むにつれ、湿った地面はしっかりした土に変わっていった。下草が広がりはじめ、蘭はまばらになり――辺りは再び色彩のない深い森に変わっていった。
無事に蘭畑を抜け、渥美はほっと息をついた。ナビゲーション端末を起動する。
いつのまにか、高尾山口駅の近くに来ていた。
屋根のあるところで休める――渥美がほっと胸を撫で下ろしたその横で、画面を覗きこんでいた寛人が呟いた。
「登山道に戻るのは危険だよ。あの猿が待ち構えているかもしれない。この森の中で休める場所を見つけたほうがいい」
渥美は頷きながらも、心中に不安を覚えていた。
この森は、猿だけでなく、他の獣の気配さえまったく感じられないのだ。
(それだけ危険な奴がこの森にいるってことじゃないのか? 蟷螂の他にも――)
残忍な肉食獣をも怯えさせる、化け物が。
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