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第六章 地上調査
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✳︎✳︎✳︎
「起きるんだ、柚木。朝食にするぞ」
河野に起こされ、寛人は目を擦りながら身を起こした。
(――朝食?)
あまりに場違いな台詞に、一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなって、ぼうっとあたりを見回した。
寛人より一足先に起こされたらしい渥美は、座ったまま、開かれた板戸から入ってくる外の光に顔をしかめていた。全身から倦怠感が滲んでいる。
夢も見ずに爆睡していた。よほど疲れていたのだ。身体のいたるところが筋肉痛で軋むようだった。脚だけでなく腕や背中までが熱を持ったかのように重苦しい。
河野は乾の枕元に跪いた。腕を枕にぐうぐうと低い鼾をかいている乾の肩を揺する。
「乾、起きろ」
何度か体を揺すられ、乾は大儀そうに頭を上げた。
「……今何時だよ。起きるの早くねえ?」
「もう六時半だ。これでも寝かしてやったんだぞ」
朝食だ、と河野は完全食バーを乾の眼前に置いた。白いパッケージを見て、乾は横たわったままげんなりと溜息をついた。
「……朝はいいわ」
「無理にでも食べたほうがいい。保たないぞ」
「いやでもこれがバッタだと思うとな……。昨日の肉は?」
「残りはぜんぶ森に埋めただろう。捕食生物を引き寄せることになりかねないからな。好き嫌い言わずに食べろ、蛙もバッタもそうかわらん。それより、体調はどうだ?」
よくねえよ――乾はだるそうに身を起こした。
「だが行くしかねえだろ」
寛人は筋肉痛に顔を顰めながら社を出て、陽光の降りそそぐ切目縁に立った。
大きく深呼吸をする。冷ややかで清廉な空気が心地よかった。昨日の日中はあれだけ蒸し暑かったというのに。
焚き火の残骸の前で、斎藤がナイフを研いでいた。
斎藤は目も上げずに――おはよう柚木くんと言った。
「おはようございます。早いですね」
「うん。河野くんに付き合わされてね。皆の水筒に水を汲んでおいたよ」
あっと寛人は言葉を飲み込む。
「――すいません」
「いいんだ。ついでに水も浴びれたしね」
斎藤はこざっぱりとしていた。
柚木――社殿から出てきた河野が、すれ違いざまに声をかけてきた。
「顔を洗ったらちゃんと食事を摂るんだぞ。少しでも腹に入れておくだけで体力が違うからな」
はい、と顔を上げて、寛人はぎくりとした。河野の顔色は悪かった。目の周りは陰り、ひどく窶れている。
解熱鎮痛剤の効果は、もうとっくに切れているのだ。
「あの、河野さん。熱は――」
「大丈夫だ」
額に伸ばされた手を避けるように河野はふいっと前を向くと、寛人を追い越して階を降りた。
「朝っぱらから飯食え飯食えって……母ちゃんかよ」
渥美が大きく欠伸をしながら社から出てきた。肩を押さえて痛そうに肘をぐるぐると回す。渥美も筋肉質であるらしい。
寛人は、渥美には家族がいたのだということに今更ながら思い至った。
母親に毎日朝食を取るよう急かされるような暮らしをしていたのだろうか――。そんな経験のない寛人は、なんだか不思議な気持ちになった。
寛人は下段に腰掛けて靴紐を締める河野の背中をじっと見つめた。それにしても、こんな状況でも秩序を保ち、規則正しくあろうとする河野は、本当にすごいと思う。
警察官ゆえ遵法意識が高いというだけでなく、仏僧である祖父に教えが染みついているのだろう。隙あらば逸脱しかける乾や、すでに逸脱している斎藤の手綱を握っていられるのも、きっと河野の根底に揺るぎないものがあるからなのだ。
河野が社の三尊像に挨拶を済ますのを待って、一行は奥の院から頂上へと向かう登山道の前に立った。
道は草木に阻まれ、完全に閉ざされている。
「……この道、どう見ても使われてねえよなぁ」
乾は大きく息を吐くと、河野に目を向けた。
「馬鹿正直に頂上まで行かなくてもいいんじゃねえか? 向かったことにしてよ、発見できなかったで戻っちゃだめなのかよ」
「俺たちの進んだ経路はこのナビゲーション端末に記録され、リアルタイムで地下都市に送られている。――頂上までの一号路すべて捜索しなければお前たちに報酬は出んぞ」
俺も服務規定違反になるなと河野は呟いた。
「ごまかしは効かねえのか」
乾はちっと舌打ちをした。
「そのかわり頂上まで行きさえすれば、ナビが任務をこなしたと証明してくれるということだ。たとえドームが見つからずに引き返すことになってもな」
だから頂上までは行かなければ――河野は言った。
(ここまできて引き上げるなんてできない)
ドームを見つけられなかったら、地上に来た意味がない。そして今や、河野や乾の命もかかってるのだ。
(絶対に見つけてやる)
寛人は登山道を見上げ、拳を握りしめた。
「頂上まで行けば、案外ドームはすぐに見つかるかもしれん。頑張ろう。距離にしてみれば、ここからたった七百五十メートルほどだ」
「平地であれば十分ほどですかね」
斎藤が言った。
平地ならな、と河野は斎藤を見やる。
寛人は息を飲んだ。平地で十分。でも、この山道ですらない山中をゆくというなら、どのくらいかかるのか。
河野と乾は保つのだろうか。
二人ともすでに顔色がひどく悪い。今は何とか喋れてはいるが、山を登りはじめれば体調はあっという間に一変するだろう。
(……もう鎮痛剤はない)
そもそも、地上に来てこんな山登りをすることになるなど想定してなかった。薬王院周辺まではヘリで運ばれ、半日くらいの捜索で済むと予想し、何かあっても薬は一日分の準備で充分だろうと高をくくっていた。
実際そうであったはずなのに――あの蜻蛉のせいで。
寛人は固く目をつむった。
(悔やむな。もう後悔しないと決めて、あの時、最後の鎮痛剤を使ったんじゃないか)
「――おい」
後頭部を軽く叩かれ、寛人は驚いて顔を上げた。見下ろしていた乾と目が合う。
「いつも顔に出ねえやつが何か顔に出てたな」
乾はにやっと笑った。その額には脂汗が浮いている。
「柚木、どうした。どこか痛むのか?」
河野はすでに辛そうに息を荒げながら「何でも言うんだぞ」と念を押すように見据えた。
寛人は、はいと一言呟き、俯いた。
(あなたたちのことを考えていたんです……)
頂上までの道程がどんなに厳しいものになるのか――それは本人たちが一番わかっているだろう。なのに、寛人のことまで気を配ってくれている。
「そんな顔しなくっても何とかならァ。へばってもこいつがいるしな」
乾はおもむろに渥美の肩を組んだ。
「一キロないくらいだろ、それくらい背負ってやるよ。昨日はもっと長く歩いたしな」
強がりを言う渥美に、頼もしいなと河野は笑った。
「何かあったら斎藤さんもいるし」
渥美は斎藤に目を向けた。行く手をじっと見つめていた斎藤は――はあ、と気のない声で答えた。
河野は意を決したようにふーっと深呼吸した。
「さあ――出発だ」
「起きるんだ、柚木。朝食にするぞ」
河野に起こされ、寛人は目を擦りながら身を起こした。
(――朝食?)
あまりに場違いな台詞に、一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなって、ぼうっとあたりを見回した。
寛人より一足先に起こされたらしい渥美は、座ったまま、開かれた板戸から入ってくる外の光に顔をしかめていた。全身から倦怠感が滲んでいる。
夢も見ずに爆睡していた。よほど疲れていたのだ。身体のいたるところが筋肉痛で軋むようだった。脚だけでなく腕や背中までが熱を持ったかのように重苦しい。
河野は乾の枕元に跪いた。腕を枕にぐうぐうと低い鼾をかいている乾の肩を揺する。
「乾、起きろ」
何度か体を揺すられ、乾は大儀そうに頭を上げた。
「……今何時だよ。起きるの早くねえ?」
「もう六時半だ。これでも寝かしてやったんだぞ」
朝食だ、と河野は完全食バーを乾の眼前に置いた。白いパッケージを見て、乾は横たわったままげんなりと溜息をついた。
「……朝はいいわ」
「無理にでも食べたほうがいい。保たないぞ」
「いやでもこれがバッタだと思うとな……。昨日の肉は?」
「残りはぜんぶ森に埋めただろう。捕食生物を引き寄せることになりかねないからな。好き嫌い言わずに食べろ、蛙もバッタもそうかわらん。それより、体調はどうだ?」
よくねえよ――乾はだるそうに身を起こした。
「だが行くしかねえだろ」
寛人は筋肉痛に顔を顰めながら社を出て、陽光の降りそそぐ切目縁に立った。
大きく深呼吸をする。冷ややかで清廉な空気が心地よかった。昨日の日中はあれだけ蒸し暑かったというのに。
焚き火の残骸の前で、斎藤がナイフを研いでいた。
斎藤は目も上げずに――おはよう柚木くんと言った。
「おはようございます。早いですね」
「うん。河野くんに付き合わされてね。皆の水筒に水を汲んでおいたよ」
あっと寛人は言葉を飲み込む。
「――すいません」
「いいんだ。ついでに水も浴びれたしね」
斎藤はこざっぱりとしていた。
柚木――社殿から出てきた河野が、すれ違いざまに声をかけてきた。
「顔を洗ったらちゃんと食事を摂るんだぞ。少しでも腹に入れておくだけで体力が違うからな」
はい、と顔を上げて、寛人はぎくりとした。河野の顔色は悪かった。目の周りは陰り、ひどく窶れている。
解熱鎮痛剤の効果は、もうとっくに切れているのだ。
「あの、河野さん。熱は――」
「大丈夫だ」
額に伸ばされた手を避けるように河野はふいっと前を向くと、寛人を追い越して階を降りた。
「朝っぱらから飯食え飯食えって……母ちゃんかよ」
渥美が大きく欠伸をしながら社から出てきた。肩を押さえて痛そうに肘をぐるぐると回す。渥美も筋肉質であるらしい。
寛人は、渥美には家族がいたのだということに今更ながら思い至った。
母親に毎日朝食を取るよう急かされるような暮らしをしていたのだろうか――。そんな経験のない寛人は、なんだか不思議な気持ちになった。
寛人は下段に腰掛けて靴紐を締める河野の背中をじっと見つめた。それにしても、こんな状況でも秩序を保ち、規則正しくあろうとする河野は、本当にすごいと思う。
警察官ゆえ遵法意識が高いというだけでなく、仏僧である祖父に教えが染みついているのだろう。隙あらば逸脱しかける乾や、すでに逸脱している斎藤の手綱を握っていられるのも、きっと河野の根底に揺るぎないものがあるからなのだ。
河野が社の三尊像に挨拶を済ますのを待って、一行は奥の院から頂上へと向かう登山道の前に立った。
道は草木に阻まれ、完全に閉ざされている。
「……この道、どう見ても使われてねえよなぁ」
乾は大きく息を吐くと、河野に目を向けた。
「馬鹿正直に頂上まで行かなくてもいいんじゃねえか? 向かったことにしてよ、発見できなかったで戻っちゃだめなのかよ」
「俺たちの進んだ経路はこのナビゲーション端末に記録され、リアルタイムで地下都市に送られている。――頂上までの一号路すべて捜索しなければお前たちに報酬は出んぞ」
俺も服務規定違反になるなと河野は呟いた。
「ごまかしは効かねえのか」
乾はちっと舌打ちをした。
「そのかわり頂上まで行きさえすれば、ナビが任務をこなしたと証明してくれるということだ。たとえドームが見つからずに引き返すことになってもな」
だから頂上までは行かなければ――河野は言った。
(ここまできて引き上げるなんてできない)
ドームを見つけられなかったら、地上に来た意味がない。そして今や、河野や乾の命もかかってるのだ。
(絶対に見つけてやる)
寛人は登山道を見上げ、拳を握りしめた。
「頂上まで行けば、案外ドームはすぐに見つかるかもしれん。頑張ろう。距離にしてみれば、ここからたった七百五十メートルほどだ」
「平地であれば十分ほどですかね」
斎藤が言った。
平地ならな、と河野は斎藤を見やる。
寛人は息を飲んだ。平地で十分。でも、この山道ですらない山中をゆくというなら、どのくらいかかるのか。
河野と乾は保つのだろうか。
二人ともすでに顔色がひどく悪い。今は何とか喋れてはいるが、山を登りはじめれば体調はあっという間に一変するだろう。
(……もう鎮痛剤はない)
そもそも、地上に来てこんな山登りをすることになるなど想定してなかった。薬王院周辺まではヘリで運ばれ、半日くらいの捜索で済むと予想し、何かあっても薬は一日分の準備で充分だろうと高をくくっていた。
実際そうであったはずなのに――あの蜻蛉のせいで。
寛人は固く目をつむった。
(悔やむな。もう後悔しないと決めて、あの時、最後の鎮痛剤を使ったんじゃないか)
「――おい」
後頭部を軽く叩かれ、寛人は驚いて顔を上げた。見下ろしていた乾と目が合う。
「いつも顔に出ねえやつが何か顔に出てたな」
乾はにやっと笑った。その額には脂汗が浮いている。
「柚木、どうした。どこか痛むのか?」
河野はすでに辛そうに息を荒げながら「何でも言うんだぞ」と念を押すように見据えた。
寛人は、はいと一言呟き、俯いた。
(あなたたちのことを考えていたんです……)
頂上までの道程がどんなに厳しいものになるのか――それは本人たちが一番わかっているだろう。なのに、寛人のことまで気を配ってくれている。
「そんな顔しなくっても何とかならァ。へばってもこいつがいるしな」
乾はおもむろに渥美の肩を組んだ。
「一キロないくらいだろ、それくらい背負ってやるよ。昨日はもっと長く歩いたしな」
強がりを言う渥美に、頼もしいなと河野は笑った。
「何かあったら斎藤さんもいるし」
渥美は斎藤に目を向けた。行く手をじっと見つめていた斎藤は――はあ、と気のない声で答えた。
河野は意を決したようにふーっと深呼吸した。
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