『エンプセル』~人外少女をめぐって愛憎渦巻く近未来ダークファンタジー~

うろこ道

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第三章 地下都市

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 ほどなくして戻ってきた浅田の手には、一抱えほどの水槽だった。
「これなんですけれどね……」
 寛人は中を覗き込む。透明樹脂の側面や保水マットに丸い殻を背負った爪ほどの大きさの生き物が群れていた。寛人は息を飲んだ。
蝸牛かたつむりじゃないですか……! そんな、地上で生き残っているはずが……」
 右巻きの螺旋形の殻。灰色がかった茶色の体色。紡錘形に近い胴体に、先端に生える二対の触角。その生き物は、マイマイ目の一般に蝸牛かたつむりと呼ばれている生物そのままだった。かつて日本に七百種類はいた陸生有肺類巻貝は大戦前に絶滅したはずだった。
「その……運び込んだ方々はじゃないかって言ってましてね」
 あたりをはばかるようにして言った浅田の言葉に、寛人は凍りついたように身動みじろぎした。
「エンプセル……? あの、人工生物の……?」
「ええ。エンプセルは――まあ個体の質にもよりますが、所有者の願望をくみ取ってうまく姿を変えるじゃないですか。物でも生き物でも何でも。たしかに本物の蝸牛かたつむりが地上で生き残ってたと考えるよりはずっと現実味がありますけどねえ」
「でもエンプセルは有害生物として完全に駆逐されたはずじゃないですか。そもそもエンプセルが販売されたのは地下都市に移住後ですよね? 地上には存在しないはずです」
「柚木先生の生まれる前の話なんですが……。エンプセル取締法が発令された直後に、地下都市全戸の家宅捜索が行われたんです。その時、所持しているのをばれるのが怖くて、エンプセルを地上に放した事例が何件かあったらしいんですよ」
「地上まで行ってエンプセルを放す人がいるんですか?」
「その頃は今のように地上と地下都市は完全封鎖されてなかったんですよ。まだ移住の混乱期のただ中で、地上のあらゆるものを地下に移していた時期でね。申請すれば一般人でも簡単に地上への出入りはできたから、適当に理由をでっちあげて地上に置いてくるやからもいたと思いますよ。なにせ――ほら、エンプセルって飼ってると情がわくっていうでしょう。情っていうか……依存性ってやつですかね。そのせいで禁止になっても手放せなくなった人はわりに多かったみたいですよ。そうこうしているうちにエンプセルに関する規制がどんどん厳しくなっていって、国に処分されるくらいならと地上に捨てにいったんでしょうなあ」
 浅田は深く溜息をついた。
「まあ、気持ちはわからんでもないです」
 寛人は暗い眼差しをあげた。
「もしかして――浅田さんも、持ってらしたんですか」
 呟いて、自分の声がどことなく責めるような色を帯びたことにぎくりとした。だが浅田はそれにまったく気づいていない様子で、懐かしい昔を思い出すように言った。
「禁止令が出される前はそんな危険なもんだと言われてなかったですからねえ。みんな持ってましたよ。持ってなきゃおかしいくらいでした。流行りだったんでしょうねぇ。まあでもそんな安いもんじゃないから、わたしなんかは本当に安物の、小さい破片ほどのエンプセルしか持てませんでしたが。わたしは妻が肌身離さずつけてた結婚指輪に姿を変えさせましてね。まあ、妻の形見代わりにと持っとったんですわ。……したらいきなり所持禁止でしょう。とりあげられたときは身を引き裂かれるぐらいにつらかった。柄にもなく役人の足にすがって、持っていかないでくれなんて泣いたりしてね。まったく、本物じゃないってのにね。今思えばあれがエンプセルの依存性、俗に言うってやつでしょうね」
 浅田は、懐かしげな、愛しいものを思い出すような表情を浮かべた。――その横で、寛人は汗ばむ拳をひっそりと握りしめた。
 その時。突然に遠くで電話が鳴り響いた。寛人と浅田はぎょっと目を見合わせ、同時に蝸牛かたつむりの水槽に目をやった。
「大丈夫。蝸牛の存在がばれたんじゃないですよ。きっと何か別の用でしょう」
 浅田は慌てたように言い、小走りで部屋を出て行った。
 一人残った寛人は、水槽を見下ろした。のろのろと粘液を曳いて移動している一匹に目をつけ、その触覚の先端をピンセットの先でつついてみた。突かれた触覚は驚いたように収縮し、しばらくするとゆっくり元の長さに戻った。
 寛人は息を飲む。それは生物のなまの反応だった。――ぞくり、と鳥肌が立った。
(これがエンプセルだったら)
 怒りがじわじわと意識を塗りつぶしてゆく。その透き通った華奢な殻を握りつぶしてやりたい衝動を、歯を食いしばってこらえた。
 不意に慌ただしい足音が聞こえてきた。寛人はとっさに水槽から手を抜くと、振り返ってぎょっとした。倉庫に入ってきた浅田の顔はぎょっとするほど蒼白だったのだ。
 浅田はあたふたと蝸牛の水槽を片付けると、書類棚をひっくり返す勢いで開け、中からファイルを引っ張り出した。
「どうかしたんですか」
 思わず声をかけた寛人に、浅田は我に返ったようにファイルのページを繰る手を止めた。向けられた顔は、汗がびっしり浮いていた。
「第八実験室で地上生物が暴走したんです。麻酔が充分に効いていなかったらしくて。……研究員の一人が食われちまったと」
「なんですって」
 寛人は青ざめた。
「麻酔班のミスです。麻酔はこの倉庫で行われたんですわ。記録を持って行かなけりゃならない」
「ぼくが代わりに行きます」
 寛人は浅田の手からファイルをひったくり、戸口に駆け出した。
「先生は危ないから行っちゃだめだ!」
「浅田さんこそ危険なのでここにいてください。ぼく、現場に友達がいるんです」
 寛人の言葉に、浅田は蒼白になった。視界の端でその顔を見ながら、寛人は心の中で小さく詫びた。
(浅田さん、嘘をついてごめんなさい。このぼくに友達なんているわけがない)
 ただ、死んでほしくない人ならいるのだ。浅田と、もう一人。――彼は今日、実験棟にいるはずだ。
(彼に今、死なれたら困る)
 寛人は、白衣の裾を翻して地上生物保管棟から駆け出した。
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