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第06話 頭デッカチ操言士と新たな学び
8.休養日(上)
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夜が明ける。壱の鐘が鳴るなり紀更は最低限の荷物だけを持って自宅に戻った。今日と明日の二日間は自宅で過ごせるのだ。
自宅にいる間は自由に過ごしていいことになっている。店の手伝いをするつもりだが、時間があれば雛菊に言われたとおり知識の復習をするか、アンヘルに教えてもらった訓練を自主的にするつもりだ。
(お昼までは店を手伝って、午後は少し歩こうかな)
空は薄雲が広がっている。雨は降らなさそうだが午後に急変するかもしれない。もし晴れていたら歩こうと考え、自宅に戻った紀更は両親を手伝って接客をしたり店番をしたりした。
案の定、午後になると薄雲は厚ぼったい雲に変わったが、かろうじて雨は降らなさそうだ。あまり遠くまで行かなければ大丈夫だろう。
紀更は自宅があるマルーデッカ地区の南にあるルンドネゲ地区に足を向けた。ただ散歩するつもりだったのだが、紀更は無意識のうちに操言士の放つ「波動」を感じることに集中していた。
(井戸の下……ミニノート川から水が流れてきてる部分にかすかだけど波動を感じる……水の流れを変えるための生活器がどこかにあるのかしら)
ほかにも、すれ違った大きな荷馬車全体から感じる守りの波動。きっと王都の外を行き来する際に怪魔に襲われても大丈夫なように、操言士が加護を与えたのだろう。
(あの人の持ってる手紙からも……あの人の着てる服からも)
かすかに、本当にかすかにだが操言の力を感じる。
手紙を送り主へ届けるために操言の力を使ったか。縫製の行程で操言の力が使われたか。感覚を研ぎ澄ませると街中のそこかしこに操言の力の波動がただよっていることがわかり、操言士が人々を支えていると実感した。
(人々の生活を守り支える操言士……私には何ができるの)
アンヘルからは、守護部の操言士に向いているかもしれないと言われた。小さな声だったが、そんな風に向き不向きをアンヘルから指摘してもらったのは初めてだ。
(守護部……王黎師匠やヒルダみたいに?)
王黎が守護部の操言士として普段はどんな働きをしているのか、詳しくは知らない。だがヒルダはきっと、紀更が実際に目にしたように毎日船に乗って怪魔スミエルと戦っているのだろう。
(王黎師匠にはなれないけど、ヒルダみたいにだったら私もなれるかしら)
いや、他人は手本にはなるがその人自身にはなれない。同じことを同じようにはきっとできない。「誰かのように」という憧れを軸に据えるのではなく、自分らしく自分の得意なことで人々の役に立つ操言士になりたい。
「う~ん」
「なに唸ってるんだ、紀更」
ふいに声をかけられて、紀更はぐるりと上半身をひねって背後を振り返った。
「なんだ、サムか」
「なんだとはなんだ。失礼だな」
サムは眼鏡の位置をくいっと直しながら、少しむっとした表情になった。少し長めの銀髪が空全体を覆う灰色の雲と同化しているように見える。
「ごめん、ごめん。考え事をしてたの」
「考え事?」
「うん。将来のこと……とかね」
紀更は恥ずかしそうにはにかんだ。すでに成人した身なのにそんなことを今さら考えているなんて青臭いと思われるかもしれない。しかしサムは決して紀更を笑ったり、軽んじたりはしなかった。
「俺でよければ話を聞こうか?」
「えっ」
「えっ、てなんだよ。不満か」
「ううん、違うの。えっと……でもサム、いま仕事中なんじゃないの」
三歳年上のサムは、成人後から実家のパン屋ではなく近くの商会の働き手になっていたはずだ。
「今日は午前中だけなんだ。地区図書館にでも行こうかと思っていたから大丈夫だよ」
「そう……そっか」
少し強い風が吹き荒れて、紀更は思わず目を閉じる。サムは風が吹いていった方角の空を見上げた。
「雨が降りそうだ。どこかに入ろうか」
「うん」
二人はルンドネゲ地区の中央通りに面した小さなカフェに入った。床も柱も天井もダークブラウンの木材が使われているシックな雰囲気のカフェだ。白塗りの壁には、コーヒー豆の入ったガラス瓶が間隔を開けてインテリアのように飾られている。それなりに客はいたが、誰もが落ち着いた音量でゆったりと話しており、ざわめきは感じない。
二人は入り口から少し離れた椅子に座り、小さな丸テーブルを挟んで向かい合った。
「将来って、紀更の将来は操言士だろう?」
注文したコーヒーを飲みながら、早速サムは切り出す。紀更は「サムってコーヒー飲むんだっけ」とのんきに考えながら頷いた。
「そうなんだけど、どんな操言士になれるかなって」
「どんなって……操言士は操言士じゃないのか」
「違うのよ。少しずつ役割が違うの」
「ふーん」
紀更の言うことがあまりピンとこないのか、サムは曖昧な相槌を打った。
「飲食店って言っても、こういうカフェだったり食堂だったりバーだったり、微妙に違うでしょ? 農夫と言っても、小麦を育てるのと野菜を育てるのと果物を育てるのもまた少し違うだろうし……それと同じ」
「ああ、その例えならわかるよ。そっか、操言士は誰もがみんな同じ操言士なんだと思ってたよ」
「普通はそう思うわよね」
操言士のおかげで人々の生活は成り立っていると聞くが、操言士という職業について詳しくは知らない。一年前までは紀更もそうだった。一年前の自分だったら、今のサムと同じく不思議そうに首をかしげただろう。
操言院にいればいつかは学ぶ快晴革命。その前後で姿を変えた偽史と真史。一方、光学院では真史だけが正しい歴史であるかのように教育される。サムは快晴革命のことも偽史のことも知らない。教育による情報統制。それによって生まれる、知る者と知らない者の違い、差、溝。けれども、自分の将来をどう生きるかについては、誰もが一度は考える共通の悩みだ。
「ねえ、サムは将来のこと、どう考えた?」
紀更は自分のことではなくサムのことを聞こうと思った。
操言院で学んでいないサムに、国内部の操言士と守護部の操言士の違いを説明して今し方自分が悩んでいたことを聞いてもらうよりも、サム自身の話を聞いた方が参考になるかもしれない。
「え、お、俺? 俺は……」
「実家のパン屋は継がないの? どうして商会で働こうと思ったの?」
「そうだなあ」
サムは口ごもった。
正直に言えば「パン屋はダサい、商会はなんかカッコいい」、それが理由だ。
成人が近くになるにつれてサムは夢想した。いつか紀更に求婚できたら――その時、実家のパン屋で働いている姿では格好がつかない。たまたまルンドネゲ地区のソレル商会が繁盛していると聞いて、パンを作って売るより様々な品を売る方が格好いいと、なんとなくそう思ったのだ。
しかしそんな恥ずかしい理由を紀更に言えるはずがない。そもそも彼女は、サムの好意にまったくこれっぽっちもひと欠片さえも気付いていないのだから。
「実家のパン屋は継ごうと思えばすぐ継げるけど、若い今だからこそできることがほかにあるんじゃないかって思ったんだ。パンを売るんじゃなくていろんなものを売るとか……それでまあ、ソレル商会が順調だって聞いたからお願いしてみたら、ちょうど成人と同時に手伝いって形だけど雇ってもらえたんだ」
本音を言えるはずもなく、サムは少しばかり体裁を整えてほんのわずかに真の理由を織り込み、それっぽい理由と経緯を語った。すると紀更はサムの話を疑うことなく素直に信じ込んだ。
「そっかあ……若い今だからこそできることかあ」
(紀更、相変わらず素直すぎるよ!)
なるほどと納得する紀更を尻目に、サムは妙な罪悪感を覚えて下を向いた。
(いや、でも、正直に言えるわけないし……)
「じゃあ将来は商人になりたいとか、自分の店を持ちたいとか」
「いや! いやっ、まだそこまでは……。考えられたらいいのかもしれないけど」
もしも自分の店を持てたら、その時こそ勇気を振り絞って紀更に告白できるだろうか。そんなことをぼんやりと考えて、しかしとても無理そうな気がしてサムは首を強く横に振った。
(いやいや、無理だ……そんな、自分の店なんて無理に決まってる)
「サム?」
「あ、うん……な、なんでもないよ」
「サムもまだ、いろいろ考えながら過ごしてるってこと?」
「そうだね。自分にできることが全部わかったわけじゃないし、まずはいろいろやってみて、って感じだと思う」
そう答えたサムは、自分の放った言葉が自分に返ってきて痛い思いをした。
告白してみなければ、それこそ紀更との関係がどうなるかなんてわからない。結果はともかく、彼女に好きだと伝えてみることはしてみてもいいのではないか。そうすれば、いくらにぶい紀更とはいえこちらを一人の異性として見てくれるのではないか。
〝俺は紀更のことが好きだよ。俺と結婚してほしい〟
そう告白する場面を想像する。だが文字ではすらすらと浮かぶその台詞が果たして自分の口から出てくるかというと――。
(――無理!)
悲しいかな、紀更への告白が今の自分にはまだ「できない」ということははっきりとわかった。
自宅にいる間は自由に過ごしていいことになっている。店の手伝いをするつもりだが、時間があれば雛菊に言われたとおり知識の復習をするか、アンヘルに教えてもらった訓練を自主的にするつもりだ。
(お昼までは店を手伝って、午後は少し歩こうかな)
空は薄雲が広がっている。雨は降らなさそうだが午後に急変するかもしれない。もし晴れていたら歩こうと考え、自宅に戻った紀更は両親を手伝って接客をしたり店番をしたりした。
案の定、午後になると薄雲は厚ぼったい雲に変わったが、かろうじて雨は降らなさそうだ。あまり遠くまで行かなければ大丈夫だろう。
紀更は自宅があるマルーデッカ地区の南にあるルンドネゲ地区に足を向けた。ただ散歩するつもりだったのだが、紀更は無意識のうちに操言士の放つ「波動」を感じることに集中していた。
(井戸の下……ミニノート川から水が流れてきてる部分にかすかだけど波動を感じる……水の流れを変えるための生活器がどこかにあるのかしら)
ほかにも、すれ違った大きな荷馬車全体から感じる守りの波動。きっと王都の外を行き来する際に怪魔に襲われても大丈夫なように、操言士が加護を与えたのだろう。
(あの人の持ってる手紙からも……あの人の着てる服からも)
かすかに、本当にかすかにだが操言の力を感じる。
手紙を送り主へ届けるために操言の力を使ったか。縫製の行程で操言の力が使われたか。感覚を研ぎ澄ませると街中のそこかしこに操言の力の波動がただよっていることがわかり、操言士が人々を支えていると実感した。
(人々の生活を守り支える操言士……私には何ができるの)
アンヘルからは、守護部の操言士に向いているかもしれないと言われた。小さな声だったが、そんな風に向き不向きをアンヘルから指摘してもらったのは初めてだ。
(守護部……王黎師匠やヒルダみたいに?)
王黎が守護部の操言士として普段はどんな働きをしているのか、詳しくは知らない。だがヒルダはきっと、紀更が実際に目にしたように毎日船に乗って怪魔スミエルと戦っているのだろう。
(王黎師匠にはなれないけど、ヒルダみたいにだったら私もなれるかしら)
いや、他人は手本にはなるがその人自身にはなれない。同じことを同じようにはきっとできない。「誰かのように」という憧れを軸に据えるのではなく、自分らしく自分の得意なことで人々の役に立つ操言士になりたい。
「う~ん」
「なに唸ってるんだ、紀更」
ふいに声をかけられて、紀更はぐるりと上半身をひねって背後を振り返った。
「なんだ、サムか」
「なんだとはなんだ。失礼だな」
サムは眼鏡の位置をくいっと直しながら、少しむっとした表情になった。少し長めの銀髪が空全体を覆う灰色の雲と同化しているように見える。
「ごめん、ごめん。考え事をしてたの」
「考え事?」
「うん。将来のこと……とかね」
紀更は恥ずかしそうにはにかんだ。すでに成人した身なのにそんなことを今さら考えているなんて青臭いと思われるかもしれない。しかしサムは決して紀更を笑ったり、軽んじたりはしなかった。
「俺でよければ話を聞こうか?」
「えっ」
「えっ、てなんだよ。不満か」
「ううん、違うの。えっと……でもサム、いま仕事中なんじゃないの」
三歳年上のサムは、成人後から実家のパン屋ではなく近くの商会の働き手になっていたはずだ。
「今日は午前中だけなんだ。地区図書館にでも行こうかと思っていたから大丈夫だよ」
「そう……そっか」
少し強い風が吹き荒れて、紀更は思わず目を閉じる。サムは風が吹いていった方角の空を見上げた。
「雨が降りそうだ。どこかに入ろうか」
「うん」
二人はルンドネゲ地区の中央通りに面した小さなカフェに入った。床も柱も天井もダークブラウンの木材が使われているシックな雰囲気のカフェだ。白塗りの壁には、コーヒー豆の入ったガラス瓶が間隔を開けてインテリアのように飾られている。それなりに客はいたが、誰もが落ち着いた音量でゆったりと話しており、ざわめきは感じない。
二人は入り口から少し離れた椅子に座り、小さな丸テーブルを挟んで向かい合った。
「将来って、紀更の将来は操言士だろう?」
注文したコーヒーを飲みながら、早速サムは切り出す。紀更は「サムってコーヒー飲むんだっけ」とのんきに考えながら頷いた。
「そうなんだけど、どんな操言士になれるかなって」
「どんなって……操言士は操言士じゃないのか」
「違うのよ。少しずつ役割が違うの」
「ふーん」
紀更の言うことがあまりピンとこないのか、サムは曖昧な相槌を打った。
「飲食店って言っても、こういうカフェだったり食堂だったりバーだったり、微妙に違うでしょ? 農夫と言っても、小麦を育てるのと野菜を育てるのと果物を育てるのもまた少し違うだろうし……それと同じ」
「ああ、その例えならわかるよ。そっか、操言士は誰もがみんな同じ操言士なんだと思ってたよ」
「普通はそう思うわよね」
操言士のおかげで人々の生活は成り立っていると聞くが、操言士という職業について詳しくは知らない。一年前までは紀更もそうだった。一年前の自分だったら、今のサムと同じく不思議そうに首をかしげただろう。
操言院にいればいつかは学ぶ快晴革命。その前後で姿を変えた偽史と真史。一方、光学院では真史だけが正しい歴史であるかのように教育される。サムは快晴革命のことも偽史のことも知らない。教育による情報統制。それによって生まれる、知る者と知らない者の違い、差、溝。けれども、自分の将来をどう生きるかについては、誰もが一度は考える共通の悩みだ。
「ねえ、サムは将来のこと、どう考えた?」
紀更は自分のことではなくサムのことを聞こうと思った。
操言院で学んでいないサムに、国内部の操言士と守護部の操言士の違いを説明して今し方自分が悩んでいたことを聞いてもらうよりも、サム自身の話を聞いた方が参考になるかもしれない。
「え、お、俺? 俺は……」
「実家のパン屋は継がないの? どうして商会で働こうと思ったの?」
「そうだなあ」
サムは口ごもった。
正直に言えば「パン屋はダサい、商会はなんかカッコいい」、それが理由だ。
成人が近くになるにつれてサムは夢想した。いつか紀更に求婚できたら――その時、実家のパン屋で働いている姿では格好がつかない。たまたまルンドネゲ地区のソレル商会が繁盛していると聞いて、パンを作って売るより様々な品を売る方が格好いいと、なんとなくそう思ったのだ。
しかしそんな恥ずかしい理由を紀更に言えるはずがない。そもそも彼女は、サムの好意にまったくこれっぽっちもひと欠片さえも気付いていないのだから。
「実家のパン屋は継ごうと思えばすぐ継げるけど、若い今だからこそできることがほかにあるんじゃないかって思ったんだ。パンを売るんじゃなくていろんなものを売るとか……それでまあ、ソレル商会が順調だって聞いたからお願いしてみたら、ちょうど成人と同時に手伝いって形だけど雇ってもらえたんだ」
本音を言えるはずもなく、サムは少しばかり体裁を整えてほんのわずかに真の理由を織り込み、それっぽい理由と経緯を語った。すると紀更はサムの話を疑うことなく素直に信じ込んだ。
「そっかあ……若い今だからこそできることかあ」
(紀更、相変わらず素直すぎるよ!)
なるほどと納得する紀更を尻目に、サムは妙な罪悪感を覚えて下を向いた。
(いや、でも、正直に言えるわけないし……)
「じゃあ将来は商人になりたいとか、自分の店を持ちたいとか」
「いや! いやっ、まだそこまでは……。考えられたらいいのかもしれないけど」
もしも自分の店を持てたら、その時こそ勇気を振り絞って紀更に告白できるだろうか。そんなことをぼんやりと考えて、しかしとても無理そうな気がしてサムは首を強く横に振った。
(いやいや、無理だ……そんな、自分の店なんて無理に決まってる)
「サム?」
「あ、うん……な、なんでもないよ」
「サムもまだ、いろいろ考えながら過ごしてるってこと?」
「そうだね。自分にできることが全部わかったわけじゃないし、まずはいろいろやってみて、って感じだと思う」
そう答えたサムは、自分の放った言葉が自分に返ってきて痛い思いをした。
告白してみなければ、それこそ紀更との関係がどうなるかなんてわからない。結果はともかく、彼女に好きだと伝えてみることはしてみてもいいのではないか。そうすれば、いくらにぶい紀更とはいえこちらを一人の異性として見てくれるのではないか。
〝俺は紀更のことが好きだよ。俺と結婚してほしい〟
そう告白する場面を想像する。だが文字ではすらすらと浮かぶその台詞が果たして自分の口から出てくるかというと――。
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