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第04話 古の操言士と水の犬
7.遭逢(上)
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ようやく紀更以外の人間――王黎の声が聞こえたらしい紅雷は、目を細めてとても嬉しそうに笑った。
「言従士……え、ええぇっ!?」
声を上げて一番驚いたのは当然ながら紀更だったが、ルーカスも瞬きを繰り返し、エリックとユルゲンも目を見開くなど驚愕の表情を浮かべた。
「えっ、あの、え!? 王黎師匠、ほ、ほんとですか!? どうしてわかるんですか!?」
「間違いないと思うよ? 言従士でもないのにその態度だったら完全にオカシイでしょ」
「あの、でも」
「紀更様、間違いないです! あたし、ずっとあなたに会いたかった! 一目でわかりました!」
「うそぉ……」
確かに、言従士は己の操言士に会いたくなるもので、その気持ちは強いという。そして己の操言士に会えばすぐにわかるという。それは王黎の言従士である最美から直接教えてもらったことだ。
初対面にもかかわらずこれだけ紀更に対して興奮している紅雷の様子は、ゼルヴァイスのカタリーナの態度を思い出して比較しても、確かに言従士特有のそれと思われる。
「紀更、ほら頑張って。キミが紅雷の手綱を握らなきゃ。紅雷は馬じゃなくて犬みたいだけどね」
「そんな、突然……」
紀更から離れようとせず、べったりと紀更の二の腕にしがみついている紅雷。今は人型だが、さっきのような犬型になったらきっとその喜びと興奮によって、盛大に尻尾を振っているのだろう。
紀更は戸惑いつつも、一度深呼吸をして自分の気持ちを落ち着かせた。そして紅雷を御そうと試みる。
「え、っと……こ、紅雷」
「はいっ! なんでしょうか、紀更様!」
「まずは落ち着いて、静かに喋ってください」
「はいっ! 紀更様!」
「うぅ……」
六歳だった弟の方がまだ聞き分けがあった気がする、と紀更は嘆息した。
「紀更、めげないで。頑張って」
そんな紀更を王黎が励ます。
王黎の言うとおり、確かに自分の方が冷静になって紅雷をリードしなければ、話が進められそうにない。
(俊や、王都にいた小さな子たちを思い出そう)
自由奔放な年下の子たちと接する時の「姉」の気持ちを思い出しながら、紀更は紅雷との対話を続けた。
「紅雷はどこの出身?」
「アルソーの村です、紀更様っ」
「そこに家族はいる?」
「はいっ。両親と兄、姉、弟、妹がいます、紀更様っ」
紀更に自分のことを問われるのが嬉しいのか、紅雷は少し声のボリュームを落としてにこにこしながら答えた。部屋の隅にいるルーカスは、「兄弟多いですね。犬のメヒュラだからですかね?」とエリックに問いかけるも、エリックは「さあな」とそっけなく相槌を打った。
「紅雷は犬のメヒュラなのね」
「そうです! 正確にはミズイヌです。水の中を魚みたいに泳げるんですよ!」
「魚みたいに?」
「ここは陸地からだいぶ離れてると思うけど、まさか泳いできたのかい?」
犬と魚がイコールでつながらず首をかしげる紀更と違って、王黎は紅雷の発言と現状を冷静に結び付けた。王黎のその確認を聞いて、紀更もはっとした表情になる。
「紅雷はどうやって……どうしてこの海にいたの? どこから来たの?」
「港町ウダから泳いで来ました! どうして、って訊かれると、うーん……意味がわからないと思われるかもしれないんですけど、何かが足りなくて、欲しくて、そのせいで身体がちくちくして、我慢しきれなくなって家を飛び出したんです」
「アルソーの家を?」
「はいっ。ふらふらと北を目指して、最近は港町ウダとポーレンヌ城下町が気に入って、滞在しています。でもやっぱり物足りなくて、ミズイヌの姿で泳ぐと少し気持ちが晴れるので、毎日泳いでいたんです」
「今日は?」
「朝から泳いでました! でも今日はいつもと違って、もっともっと遠くに行かなきゃ、って思って、気付いたらこのあたりにいて、それで」
紅雷の声のトーンは、そこで一段階下がった。笑顔が消え、真面目な表情になる。
「この船を襲う大きな怪魔が見えたんです。そしたらすごく怖い気持ちと、すごくあったかいものを感じて……なんかできる! って気になって、勢いのまま怪魔に噛み付いたら自分でもびっくりするくらい力が出て、海の中で怪魔をやっつけちゃいました!」
紅雷は人差し指で自分の頬をかいた。
「ふへへっ。紀更様、変な説明でごめんなさい。これで答えになっていますか?」
紅雷はうかがうように、紀更の顔を下からのぞき込んだ。
答えになっているか否か。その判断を求められても紀更にはわからない。困った紀更は、師匠の方を向いた。
「王黎師匠、どうでしょう」
「そうだね。紅雷、キミはやっぱり、紀更の言従士だよ」
紅雷は紀更が見つめる先にいる王黎に視線を向けた。
紀更にはすぐ懐いたが、紀更以外の人間にはそう簡単に心を開かないらしく、王黎を見つめる紅雷は少し警戒したような緊張した面持ちだ。
「何か物足りないという感覚は言従士が自分の操言士を求める感覚だね。それとあったかいものを感じたって言うけど、それはたぶん、紀更が使った操言の力だ」
「そーげんの力?」
紅雷はぱちぱちと瞬きをした。紀更も不思議そうに首をかしげる。
「言従士自身は〝操言の力〟を持たない。でも自分の仕え従うべき操言士の操言の力を、誰よりも強く感じ取ることができるんだ」
「強く感じ取る、ですか」
紀更は王黎の説明を咀嚼しようと頭をはたらかせる。紅雷にいたっては初めて聞く話で理解が及ばないからか、眉間に皺が寄って表情が険しくなった。しかしその表情は次第に間の抜けたものに変わり、頭の上にはいくつもの疑問符が浮かんで見えた。
「簡単に言うとね」
二人の反応を見かねて王黎は苦笑した。
「紀更が操言の力を使うと、紀更の言従士である紅雷はその力の影響を強く受けるってことだよ。たとえば僕が操言の力を使ってルーカスくんの剣を強化したり、ユルゲンくんの脚力を強化して跳躍できるようにしたりするみたいに、操言の力を使えば人の持つ能力を増幅させられる。操言士と言従士の場合は、その効果がもっと強いんだ」
「さっき私が怪魔を斃せるようにと放った言葉と操言の力が、紅雷さんに届いた?」
「紀更様、さん付けしないでください! 紅雷って呼んで!」
紀更が気をゆるめて無意識のうちに紅雷をそう呼ぶと、紅雷は頬をふくらませてすぐに抗議した。よほど紀更には呼び捨てにされたいらしい。
「さっきの紀更の言葉は、イメージもそうだけど具体性が足りない、まだまだ半人前の力と言葉だったからね?」
「はい……」
「それでも、さっきの紀更の操言の力が紅雷を強くさせたんだ。僕が操言の力を使っても、紅雷は強くならない。僕の言従士は最美だから、最美なら強くなるけどね」
「操言士と言従士、決まった組み合わせでしか強い効果は生まれないということですね」
「ん、そーゆーこと」
「よくわかんないけど、紀更様があたしのご主人様ってことですよね! それがわかれば十分!」
紅雷は機嫌を良くして、再び紀更の二の腕に頬をこすりつけ始めた。
「そうだね、紅雷の感覚は正しい。紅雷は紀更の言従士だよ。やったね紀更、まだ見習いなのに言従士が見つかるなんて、なかなかのレアケースだよ」
王黎は右手の親指をグッと天井に向けて、白い歯を見せてニカッと笑った。その笑顔がうさんくさすぎて、紀更は王黎の言うほどには「やったね」という気持ちにはなれなかった。
「でも、私はわからないです」
「紅雷が自分の言従士だ、っていう感覚? それは仕方ないよ。その感覚は言従士の方が強いものだし」
「でも王黎師匠は、最美さんが自分の言従士だって……わかるんですよね?」
「まあ、そうだねえ」
「私は……」
紀更は船内の床に視線を落とした。
紅雷はにこにこと笑っている。王黎もそれほど深刻な表情はしていない。成り行きを見守っている二人の騎士とユルゲンも、何も言わない。ただ紀更だけが正体不明の不安感に襲われ、困惑して取り乱してしまいそうになっている。
(はっきりとわからない……どうして)
海の中から突如現れた、自分の言従士。
もし自分に言従士がいたら――そんな風に考えたことはこれまでにもあったが、まさかこんなにも突然にその出会いがあるとは予想していなかった。初対面にもかかわらず一方的に懐いてくる歳の近いこのメヒュラの少女をどう受け止めればよいのか、紀更にはわからない。
「ねえ、紀更様」
俯いて苦しそうな表情をする紀更を見上げて、紅雷が話しかける。それは気持ちのたかぶった声ではなく、姉が妹にやさしく諭すような声音だった。
「あたしもね、わからなかったんですよ。ある日突然そわそわし始めて、それがどうしてなのかずっとわからなくて、もやもやして……。でも今日のさっき、目の前が一気に開けてすとん、って自分の中に答えが落ちてきたんです。そのせいで興奮して騒いでごめんなさい。もやもやが晴れたことが嬉しくて、足りなかったピースがようやく見つかって当てはまったみたいで、はしゃいじゃいました」
本人の言うとおり、のっけから紅雷はとても興奮していた。その熱の高さと同じ温度を持てない自分の心の冷たさに戸惑いに、紀更は落ち込みかけていた。しかしゆっくりと自分のことを話してくれる紅雷に対しては、戸惑いも困惑も抱かない。紀更に向ける視線には慈しむようなあたたかさがあり、紀更も素直にその今様色の瞳を見つめ返せた。
「あたし、紀更様の言従士みたいです。言従士が何なのかよくわかっていないんですけど、でもきっと、あたしにとって紀更様は、人生で一番大事な人みたいです。一緒にいたいんですけどだめですか」
(そんな風に訊かれて、だめです、なんて……言えないじゃない)
くりっとした赤い瞳に見上げられて、紀更は少し悔しげに胸の中で呟いた。
「王黎師匠、私はどうすればいいですか」
自分の言従士に出会った操言士はどうするべきなのか。師匠であり、自身も言従士を従えている王黎に紀更は教えを請うた。
「事務的なことを言うと、言従士と出会ったら王都の操言士団本部に報告と登録が必要だね。言従士の所属を平和民団から操言士団に移さないといけないからね。それと、言従士がいる場合とそうでない場合で操言士の果たすべき役割が変わってくるから、修行の方は今日から言従士込みで取り組んでいこうか」
「王黎殿、それはつまり、王都に戻るということか?」
静観していたエリックが、一行の行き先に影響が出そうな気配を感じてすかさず王黎に尋ねた。
「虚偽の報告でないことを証明するために、一度は王都にある操言士団本部に言従士を連れていかないといけないですけど、報告と登録は王都で直接しなくちゃいけない、ってことはないですよ。なので、すぐに王都に戻るってことはないですが、まあ、始海の塔の件もありますし、王都には一度、戻った方がいいかもしれませんね」
「えっ、王黎師匠! それは祈聖石巡礼の旅をやめるということですか!?」
王黎の発言を受けて、紀更は焦った。
旅をやめて王都に戻る。それはまた操言院に缶詰めになるということか。せっかく一人前の操言士を目指すという意志も固まり、毎日を有意義に過ごせて、努力することだってつらいだけでなく楽しいと思えてきたのに。それが終わってしまうというのか。
頭の中から言従士のことが一気に抜け落ちて、紀更はひたすら不安な表情になった。
「大丈夫だよ、紀更。王都に戻るのは今すぐじゃない。始海の塔という、祈聖石巡礼の旅からそれた場所へ行ってしまったけど、港町ウダに着けば本来想定していた旅のルートに戻れる。先のことは港町ウダに着いてから考えよう」
「はい……」
紀更は小さな声で頷いた。
王黎がそう言うのなら、上陸次第、王都に即帰還、ということにはならないだろう。
だが旅は永遠には続かない。国内にある祈聖石すべてを回り終わればその時点で旅はきっと終わりだろうし、何より、紀更の目的は旅そのものではない。一人前の操言士になることだ。旅はあくまでも、その手段でしかないのだ。
(戸惑って怖気づいてる暇なんてない。不測の事態も予期しない出会いも、全部肥やしにしていかなくちゃ)
紀更はリラックスしている紅雷の表情を見下ろすと、身体の力を抜いて深呼吸をした。
「言従士……え、ええぇっ!?」
声を上げて一番驚いたのは当然ながら紀更だったが、ルーカスも瞬きを繰り返し、エリックとユルゲンも目を見開くなど驚愕の表情を浮かべた。
「えっ、あの、え!? 王黎師匠、ほ、ほんとですか!? どうしてわかるんですか!?」
「間違いないと思うよ? 言従士でもないのにその態度だったら完全にオカシイでしょ」
「あの、でも」
「紀更様、間違いないです! あたし、ずっとあなたに会いたかった! 一目でわかりました!」
「うそぉ……」
確かに、言従士は己の操言士に会いたくなるもので、その気持ちは強いという。そして己の操言士に会えばすぐにわかるという。それは王黎の言従士である最美から直接教えてもらったことだ。
初対面にもかかわらずこれだけ紀更に対して興奮している紅雷の様子は、ゼルヴァイスのカタリーナの態度を思い出して比較しても、確かに言従士特有のそれと思われる。
「紀更、ほら頑張って。キミが紅雷の手綱を握らなきゃ。紅雷は馬じゃなくて犬みたいだけどね」
「そんな、突然……」
紀更から離れようとせず、べったりと紀更の二の腕にしがみついている紅雷。今は人型だが、さっきのような犬型になったらきっとその喜びと興奮によって、盛大に尻尾を振っているのだろう。
紀更は戸惑いつつも、一度深呼吸をして自分の気持ちを落ち着かせた。そして紅雷を御そうと試みる。
「え、っと……こ、紅雷」
「はいっ! なんでしょうか、紀更様!」
「まずは落ち着いて、静かに喋ってください」
「はいっ! 紀更様!」
「うぅ……」
六歳だった弟の方がまだ聞き分けがあった気がする、と紀更は嘆息した。
「紀更、めげないで。頑張って」
そんな紀更を王黎が励ます。
王黎の言うとおり、確かに自分の方が冷静になって紅雷をリードしなければ、話が進められそうにない。
(俊や、王都にいた小さな子たちを思い出そう)
自由奔放な年下の子たちと接する時の「姉」の気持ちを思い出しながら、紀更は紅雷との対話を続けた。
「紅雷はどこの出身?」
「アルソーの村です、紀更様っ」
「そこに家族はいる?」
「はいっ。両親と兄、姉、弟、妹がいます、紀更様っ」
紀更に自分のことを問われるのが嬉しいのか、紅雷は少し声のボリュームを落としてにこにこしながら答えた。部屋の隅にいるルーカスは、「兄弟多いですね。犬のメヒュラだからですかね?」とエリックに問いかけるも、エリックは「さあな」とそっけなく相槌を打った。
「紅雷は犬のメヒュラなのね」
「そうです! 正確にはミズイヌです。水の中を魚みたいに泳げるんですよ!」
「魚みたいに?」
「ここは陸地からだいぶ離れてると思うけど、まさか泳いできたのかい?」
犬と魚がイコールでつながらず首をかしげる紀更と違って、王黎は紅雷の発言と現状を冷静に結び付けた。王黎のその確認を聞いて、紀更もはっとした表情になる。
「紅雷はどうやって……どうしてこの海にいたの? どこから来たの?」
「港町ウダから泳いで来ました! どうして、って訊かれると、うーん……意味がわからないと思われるかもしれないんですけど、何かが足りなくて、欲しくて、そのせいで身体がちくちくして、我慢しきれなくなって家を飛び出したんです」
「アルソーの家を?」
「はいっ。ふらふらと北を目指して、最近は港町ウダとポーレンヌ城下町が気に入って、滞在しています。でもやっぱり物足りなくて、ミズイヌの姿で泳ぐと少し気持ちが晴れるので、毎日泳いでいたんです」
「今日は?」
「朝から泳いでました! でも今日はいつもと違って、もっともっと遠くに行かなきゃ、って思って、気付いたらこのあたりにいて、それで」
紅雷の声のトーンは、そこで一段階下がった。笑顔が消え、真面目な表情になる。
「この船を襲う大きな怪魔が見えたんです。そしたらすごく怖い気持ちと、すごくあったかいものを感じて……なんかできる! って気になって、勢いのまま怪魔に噛み付いたら自分でもびっくりするくらい力が出て、海の中で怪魔をやっつけちゃいました!」
紅雷は人差し指で自分の頬をかいた。
「ふへへっ。紀更様、変な説明でごめんなさい。これで答えになっていますか?」
紅雷はうかがうように、紀更の顔を下からのぞき込んだ。
答えになっているか否か。その判断を求められても紀更にはわからない。困った紀更は、師匠の方を向いた。
「王黎師匠、どうでしょう」
「そうだね。紅雷、キミはやっぱり、紀更の言従士だよ」
紅雷は紀更が見つめる先にいる王黎に視線を向けた。
紀更にはすぐ懐いたが、紀更以外の人間にはそう簡単に心を開かないらしく、王黎を見つめる紅雷は少し警戒したような緊張した面持ちだ。
「何か物足りないという感覚は言従士が自分の操言士を求める感覚だね。それとあったかいものを感じたって言うけど、それはたぶん、紀更が使った操言の力だ」
「そーげんの力?」
紅雷はぱちぱちと瞬きをした。紀更も不思議そうに首をかしげる。
「言従士自身は〝操言の力〟を持たない。でも自分の仕え従うべき操言士の操言の力を、誰よりも強く感じ取ることができるんだ」
「強く感じ取る、ですか」
紀更は王黎の説明を咀嚼しようと頭をはたらかせる。紅雷にいたっては初めて聞く話で理解が及ばないからか、眉間に皺が寄って表情が険しくなった。しかしその表情は次第に間の抜けたものに変わり、頭の上にはいくつもの疑問符が浮かんで見えた。
「簡単に言うとね」
二人の反応を見かねて王黎は苦笑した。
「紀更が操言の力を使うと、紀更の言従士である紅雷はその力の影響を強く受けるってことだよ。たとえば僕が操言の力を使ってルーカスくんの剣を強化したり、ユルゲンくんの脚力を強化して跳躍できるようにしたりするみたいに、操言の力を使えば人の持つ能力を増幅させられる。操言士と言従士の場合は、その効果がもっと強いんだ」
「さっき私が怪魔を斃せるようにと放った言葉と操言の力が、紅雷さんに届いた?」
「紀更様、さん付けしないでください! 紅雷って呼んで!」
紀更が気をゆるめて無意識のうちに紅雷をそう呼ぶと、紅雷は頬をふくらませてすぐに抗議した。よほど紀更には呼び捨てにされたいらしい。
「さっきの紀更の言葉は、イメージもそうだけど具体性が足りない、まだまだ半人前の力と言葉だったからね?」
「はい……」
「それでも、さっきの紀更の操言の力が紅雷を強くさせたんだ。僕が操言の力を使っても、紅雷は強くならない。僕の言従士は最美だから、最美なら強くなるけどね」
「操言士と言従士、決まった組み合わせでしか強い効果は生まれないということですね」
「ん、そーゆーこと」
「よくわかんないけど、紀更様があたしのご主人様ってことですよね! それがわかれば十分!」
紅雷は機嫌を良くして、再び紀更の二の腕に頬をこすりつけ始めた。
「そうだね、紅雷の感覚は正しい。紅雷は紀更の言従士だよ。やったね紀更、まだ見習いなのに言従士が見つかるなんて、なかなかのレアケースだよ」
王黎は右手の親指をグッと天井に向けて、白い歯を見せてニカッと笑った。その笑顔がうさんくさすぎて、紀更は王黎の言うほどには「やったね」という気持ちにはなれなかった。
「でも、私はわからないです」
「紅雷が自分の言従士だ、っていう感覚? それは仕方ないよ。その感覚は言従士の方が強いものだし」
「でも王黎師匠は、最美さんが自分の言従士だって……わかるんですよね?」
「まあ、そうだねえ」
「私は……」
紀更は船内の床に視線を落とした。
紅雷はにこにこと笑っている。王黎もそれほど深刻な表情はしていない。成り行きを見守っている二人の騎士とユルゲンも、何も言わない。ただ紀更だけが正体不明の不安感に襲われ、困惑して取り乱してしまいそうになっている。
(はっきりとわからない……どうして)
海の中から突如現れた、自分の言従士。
もし自分に言従士がいたら――そんな風に考えたことはこれまでにもあったが、まさかこんなにも突然にその出会いがあるとは予想していなかった。初対面にもかかわらず一方的に懐いてくる歳の近いこのメヒュラの少女をどう受け止めればよいのか、紀更にはわからない。
「ねえ、紀更様」
俯いて苦しそうな表情をする紀更を見上げて、紅雷が話しかける。それは気持ちのたかぶった声ではなく、姉が妹にやさしく諭すような声音だった。
「あたしもね、わからなかったんですよ。ある日突然そわそわし始めて、それがどうしてなのかずっとわからなくて、もやもやして……。でも今日のさっき、目の前が一気に開けてすとん、って自分の中に答えが落ちてきたんです。そのせいで興奮して騒いでごめんなさい。もやもやが晴れたことが嬉しくて、足りなかったピースがようやく見つかって当てはまったみたいで、はしゃいじゃいました」
本人の言うとおり、のっけから紅雷はとても興奮していた。その熱の高さと同じ温度を持てない自分の心の冷たさに戸惑いに、紀更は落ち込みかけていた。しかしゆっくりと自分のことを話してくれる紅雷に対しては、戸惑いも困惑も抱かない。紀更に向ける視線には慈しむようなあたたかさがあり、紀更も素直にその今様色の瞳を見つめ返せた。
「あたし、紀更様の言従士みたいです。言従士が何なのかよくわかっていないんですけど、でもきっと、あたしにとって紀更様は、人生で一番大事な人みたいです。一緒にいたいんですけどだめですか」
(そんな風に訊かれて、だめです、なんて……言えないじゃない)
くりっとした赤い瞳に見上げられて、紀更は少し悔しげに胸の中で呟いた。
「王黎師匠、私はどうすればいいですか」
自分の言従士に出会った操言士はどうするべきなのか。師匠であり、自身も言従士を従えている王黎に紀更は教えを請うた。
「事務的なことを言うと、言従士と出会ったら王都の操言士団本部に報告と登録が必要だね。言従士の所属を平和民団から操言士団に移さないといけないからね。それと、言従士がいる場合とそうでない場合で操言士の果たすべき役割が変わってくるから、修行の方は今日から言従士込みで取り組んでいこうか」
「王黎殿、それはつまり、王都に戻るということか?」
静観していたエリックが、一行の行き先に影響が出そうな気配を感じてすかさず王黎に尋ねた。
「虚偽の報告でないことを証明するために、一度は王都にある操言士団本部に言従士を連れていかないといけないですけど、報告と登録は王都で直接しなくちゃいけない、ってことはないですよ。なので、すぐに王都に戻るってことはないですが、まあ、始海の塔の件もありますし、王都には一度、戻った方がいいかもしれませんね」
「えっ、王黎師匠! それは祈聖石巡礼の旅をやめるということですか!?」
王黎の発言を受けて、紀更は焦った。
旅をやめて王都に戻る。それはまた操言院に缶詰めになるということか。せっかく一人前の操言士を目指すという意志も固まり、毎日を有意義に過ごせて、努力することだってつらいだけでなく楽しいと思えてきたのに。それが終わってしまうというのか。
頭の中から言従士のことが一気に抜け落ちて、紀更はひたすら不安な表情になった。
「大丈夫だよ、紀更。王都に戻るのは今すぐじゃない。始海の塔という、祈聖石巡礼の旅からそれた場所へ行ってしまったけど、港町ウダに着けば本来想定していた旅のルートに戻れる。先のことは港町ウダに着いてから考えよう」
「はい……」
紀更は小さな声で頷いた。
王黎がそう言うのなら、上陸次第、王都に即帰還、ということにはならないだろう。
だが旅は永遠には続かない。国内にある祈聖石すべてを回り終わればその時点で旅はきっと終わりだろうし、何より、紀更の目的は旅そのものではない。一人前の操言士になることだ。旅はあくまでも、その手段でしかないのだ。
(戸惑って怖気づいてる暇なんてない。不測の事態も予期しない出会いも、全部肥やしにしていかなくちゃ)
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