ヒオクダルスの二重螺旋

矢崎未紗

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第04話 古の操言士と水の犬

6.水の犬(下)

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「逃げたか」

 海の中へもぐった影を、ユルゲンは忌々しげに見送った。

「エリックさん、ルーカスくん、大丈夫ですか」
「ああ、重たいが受け止めるだけならなんとかできそうだ」
「腕がちょっとしびれてますけど。物理的な盾が欲しいところですね」

 王黎に確認されて、エリックとルーカスは苦笑交じりに答える。
 二人は仕事柄、盾を使うタイプの騎士ではないため盾を標準装備としてはいない。だがこの局面ではどちらか一人くらい、盾があってもよかった。

「紀更、言葉にもイメージにも具体性が全然足りないよ」

 騎士二人の状態を確認した王黎は紀更に振り返ると、厳しい眼で叱咤した。

「ユルゲンくんの武器は刀。それも二本だ。それが与える最大のダメージってなんだ? 引き裂くのか、貫くのか。怪魔の身体がどうなるのか、もっとしっかり!」
「っ、はい」

 船体を壊されないようにするために、巨大な怪魔スミエルはどうしても受け止める必要がある。それは王黎と二人の騎士、三人がかりだ。止めはどうしても、ユルゲンと紀更に刺してもらわないといけない。

「また来ます!」

 体勢を立て直したスミエルが、水の中から飛び出してくる。
 ルーカスが叫び、全員が身構えたその瞬間――。

――バシャッ!

 船に飛びかかろうとした怪魔よりももっと早く、何かが海中から飛び出してきた。

「なんだ!?」

 エリックが叫び、船の端に駆け寄る。
 海中から飛び出してきた謎の物体はイルカほどの大きさで、しなやかに身体をくねらせて怪魔スミエルに横から噛み付いたようだった。そしてその勢いのままにスミエルを海の中に沈める。
 スミエルと謎の物体が沈んだ方へ、全員の視線が向いた。
 海の中で両者がもみ合っているらしく、不規則な波が生まれては海面に水しぶきが飛散し、船を揺らす。そのもみ合いはしばらく続いたが、やがて波と海面が静まり、海の中に見えていた怪魔のものらしき黒い影は消えた。

「スミエルは」

 王黎は海を見下ろし、海中で何が起きたのか把握しようとする。
 巨大なスミエルの影はない。気配も消えたことから、おそらく霧散したのだろう。
 だが、なぜ?

――ボコボコ……。

 海中から泡が湧き上がってくる。その泡と一緒ににゅるりと長細い影が現れ――。

――バッシャーンッ!

 その影は勢いよく海上に飛び出し、空中でくるりと身体をねじ曲げると器用に船の甲板に着地した。

「い……犬?」

 それは普通の大型犬と比較しても二回りは大きな四本足の犬のようで、青白磁色の長毛が海水に濡れてしっとりしていた。今様色の瞳が赤々と光っており、やけに目を引く。体長は二メイを超えるほどで、なかなか大きな体躯だ。
 犬はぶるぶると身体を震わせて、全身にまとわりついていた海水を振り払った。容赦なく飛んでくる細かい水滴に、全員が目を閉じる。そして再び目を開ければ、水分を失って急激に乾いた青白磁色の毛は、薄い桜色に変色していた。

「毛の色が変わった?」
「濡れてるかどうかによるのかな」

 呆然と犬を見つめる紀更の横に立ち、王黎が冷静に分析する。

「キミ、もしかしてメヒュラかい?」

 王黎が犬に問いかけると、犬の耳がぴょこんと大きく揺れた。そして風船から空気が抜けるようなしゅぽん、という音を立てて、その姿は二足歩行の人間に変わった。

「やっと会えた! あたしのご主人様っ!」
「えっ」

 少女に姿を変えた犬は反動をつけて紀更に飛びかかると、まったく身構えていなかった紀更の身体を甲板に押し倒した。

(え、な、何……?)

 突然のことに、紀更は疑問符を大量に浮かべる。
 その時、甲板に押し倒されて空を見上げる体勢になっていた紀更の視界に、ニジドリが舞い下りてくるのが見えた。目的地の港町ウダが見えないか、上空を飛んでいた最美だ。
 その最美がいる空は、少し赤みがかっている。太陽が徐々に水平線に近付き、海と空の境目にその姿が吸い込まれるまで、あとわずかのようだ。

「戻りましたわ、我が君」
「ああ、おかえり、最美。いいところに来たね」

 甲板に下り立って人型に戻った最美は、いつもと変わらぬクールな態度で王黎に声をかけた。

「あぁ~いい匂い! ちょぉ~いいぃ~匂いぃ~。何これぇ~」
「お客様ですか」
「そう、犬のメヒュラみたいだ。海の中から現れたんだよ」

 紀更に抱きついたまま、これでもかと紀更の匂いを嗅いでいる桜色の髪の少女の振る舞いに動揺することなく、最美と王黎はマイペースに言葉を交わす。動揺したまま思考が停止しているのは、少女に抱きつかれた紀更だった。

「あの……王黎師匠」
「ご主人様ぁ~ああぁ~あなただ~! 絶対あなたですぅ~!」
「紀更殿、大丈夫ですか」
「あ、はい」

 王黎に紀更を助ける素振りがないので仕方なく、ルーカスが紀更の背に手を添えて態勢を起こしてやった。紀更は甲板に立ったが、少女は紀更から離れず、正面から紀更に抱きついたままだ。少女は紀更よりわずかに背が高いが、かがめば身長差はあってないようなものだった。
 王黎はそんな紀更に構わず、のんきに最美と会話を続ける。

「最美、どう? 見えた?」
「はい、船の進行方向、南東に陸地が見えます。港町ウダのようです」
「日没までに着ける距離?」
「いえ、日没は過ぎるかと」
「ん、わかった。ありがとう」

 王黎は最美の肩を軽くたたき、ねぎらう。それから珍客にまとわりつかれている紀更に声をかけた。

「さて、船旅は順調なので、そこのお嬢さんについてちょっと尋問しようか」
「じっ、尋問ですか」

 不穏な単語に、紀更の止まっていた思考回路が動き出す。
 王黎はにこにこと、人畜無害そうな笑みを浮かべた。

「大丈夫。ちょっと話を聞くだけだから」

 それを尋問と言うのだ――と、水の村レイトで王黎に尋問された経験を持つユルゲンは黙って渋い表情を浮かべた。
 紀更は不安そうに王黎を見たが、当のお嬢さんは話が聞こえていないのか、ひたすら紀更の匂いを嗅ぐのに夢中になっている。

「最美、見張りのために甲板に残ってくれる? 怪魔が襲ってきたらすぐ知らせてね。船の上が嫌なら上空にいてもいいよ。最美以外はとりあえず、船内に移動しましょうか」

 エリック、ルーカスが先頭に立ち、甲板から船内に続く階段を一行は下りる。
 船の帆は風をうまくつかまえて、穏やかに南東を目指していた。



「紀更、たぶんその、紀更の言うことなら聞くからうまく誘導してね」

 船内の食堂のような一室に集まった最美以外の六人は、椅子に座ったり壁に背中を預けて立ったり、各々楽な姿勢をとった。
 話を進めるのはいつものように王黎だが、尋問相手の少女は紀更以外の誰も目に入っていないようで、紀更以外の誰かの声には返事もしなさそうだ。それを十二分に予見しているのか、王黎は紀更にそう頼んだ。

「まずは名前、年齢、出身地。それからどうしてこの海にいたのか知りたいね」
「えっ、と……あの、すみません。お名前を訊いてもいいですか」

 さすがに紀更を抱きしめるのはやめたが、どうしても少女は紀更にくっついていたいらしく、椅子に座る紀更の隣を占領し、紀更の二の腕をぎゅっと抱きかかえていた。
 紀更の二の腕に頬をこすりつけてうっとりとした表情を浮かべていたメヒュラの少女は、紀更に尋ねられると嬉しそうに顔を上げて破顔した。

「あたし、紅雷こうらいです! ご主人様は!?」

 紅雷と名乗った少女の桜色の髪は左右の高い位置で二つ結びにされ、前髪はだいぶ短く一直線に切りそろえられている。眉毛は少し太く、今様色の印象的な瞳が喜びに満ちあふれて赤々と光った。

「ご主人、様……?」

 キラキラとした眼差しで見つめられた紀更は、ご主人様と呼ばれるその理由がわからず、気持ちがうしろに引く。そんな紀更を王黎は押しとどめた。

「紀更、落ち着いて。あまり深く気にしないで、とにかく会話して」
「はい。あの、えっと……私は紀更です」
「紀更様! 素敵なお名前! さすがご主人様!」
「あの、紅雷さん? 失礼ですが、おいくつですか」
「十九! でもやだ! さんなんて付けないで! 呼び捨てにしてください!」
「でも……あの、私は十七で、紅雷さんの方が年上ですから」
「いいの! あなたはあたしのご主人様なんだからいいの!」

 紅雷はハキハキと喋り、紀更よりも声音が高い。ゼルヴァイス城城主の娘であるカタリーナを彷彿とさせる活発さに圧されて、紀更の気持ちはまた一歩うしろにのけ反った。すると王黎がにこにこと、紅雷の顔をのぞき込みながら言った。

「紅雷、違うよ。紀更はキミのご主人様じゃなくて、操言士だよ」
「そーげんし……操言士? あたしの?」
「そう。でもってキミは紀更の言従士だね?」
「えっ?」
「げんじゅーし……! うん、よくわかんないけどそうかも! あたし、紀更様のげんじゅーしかも!」
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