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第04話 古の操言士と水の犬
5.船旅再び(上)
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アルソーの村での生活は気に入っていた。
両親と兄弟姉妹に囲まれて、喧嘩したり笑い合ったりしながら送る日々。
普通のその生活が幸せで、満たされていると思っていた。
それが覆されたのは、約一年前。激しい雨が降り、雷が落ちる夜だった。
昼間から感じていた妙な違和感は陽が沈むごとに大きくなって、夜には横になっても寝つけないほどにちくちくと身体を内側から刺激した。
変わってしまったのはそれからだ。
満たされていると思っていた日常が、急に寂しくなる。何かが足りない気がして、いつもどこか遠くを見つめるようになった。まるで足りないその何かを探すように。
でも何が足りないのか、何が欲しいのか、わからなくて無性に苛立った。
そんな状態が続いてとうとう我慢しきれなくなって、家族の制止も聞かずに飛び出した。家族は誰一人、この焦燥感を理解してくれなかった。あんなにも仲良しの家族だったのに、自分だけが実は偽物だったんじゃないかと思うほどだった。それでも母だけは、「気を付けてね」と見送ってくれた。
それからは意味もなく走った。なんとなく北を目指してみた。アルソーの村でしか生きてこなかったが、明確な行き先のない流浪の旅も、やってしまえば意外とできるものだった。怪魔に遭遇したり野犬に遭遇したり、危険な目にも何度か遭ったが、そのたびに姿を変えて窮地を脱した。
アルソーの村での生活は気に入っていた。
でも勢いのままに故郷を飛び出した今の生活も、思いのほか気に入ることができた。
あとは、そう。この魂が求めるものを見つけられるかどうか――。
目を開けて起きる、という感覚を覚える。だが肉の器を失ったいま、正確な意味での睡眠というものはしていないはずだ。だからこれは錯覚にすぎない。
(誰か……そう、また誰かが)
「新たな出会いがあるようじゃな」
胸の中で静かに考えていたラルーカの隣には、いつの間にかクォンがいる。彼もラルーカと同じように、睡眠をとって夢でも見ていたかのような感覚になっていたのだろう。
「塔の主が儂らに見せるこれは誰かの記憶、誰かの思いじゃ」
「記憶と思いですか」
「ラルーカよ、儂はわかってきた。こうして幾度となく他者の記憶に触れることで」
「何がですか」
「生前の儂らの願いと行いが、いかに愚かだったか。そして、魂の巡りがいかに美しいものかをじゃ」
生前のクォンとラルーカに、血縁以外の接点はない。しかし二人とも同じような過ちを犯した。ゆえにこの塔に閉じ込められているのだと、二人は解釈している。
「儂らはまだまだ学ばねばならぬ。思い知らねばならぬ。大いなる流れに乗って巡ることのできない苦しみを。あまたの生と死の苦しみを」
「この時間に……空間に……終わりは来るのでしょうか」
「あの娘に会うことで、儂らも変化の渦に巻き込まれた。変化とは何かが終わること。そして始まることじゃ」
「私たちの……罪滅ぼしの終わり?」
「そうじゃ。そして次の巡りへの始まりじゃ。きっと……きっと」
クォンの声は、まるで祈っているようだった。
◆◇◆◇◆
始海の塔でむかえる二日目の朝もよく晴れていた。海の上に浮かぶ放射状の積雲が次々に流されていくので、上空は少し強い風が吹いているようだ。
塔の一階にはやはり丸テーブルと、どこからともなく出現した朝食があり、それぞれのペースで起き出した六人はありがたく手をつけた。
一番起床が早いのはエリック、続いてルーカスだ。騎士団での規則正しい生活が染みついている二人は、夜明けとともに起きては剣を振って軽い鍛錬を行い、それから朝食にしている。
三番目に早いのは意外にも王黎だった。彼は規則正しい生活をする、というよりも短い睡眠時間で十分身体を回復できるらしい。
王黎はエリックたちのように鍛錬をしないが、彼の客室にはどうやら本があったようで、食後の茶を飲みながらのんびりと、客室から持ち出した本を読んでいた。
四番目はユルゲンだった。順番は違うが腹ごしらえをしてから、彼も二人の騎士と同じく外に出て両刀を振るう。身体を動かさないと全身がにぶって重くなるため、その感覚を嫌ってユルゲンは戦闘がない日でも一定の運動量を自分に課していた。
そして五番目に起きるのは紀更だ。特に体力づくりをしているわけでもない紀更は、王都の実家にいた時と変わらないペースで朝をむかえる。
そして最も遅くに起きてくるのは最美だった。紀更と同室の場合は紀更より早く起きることもあるのだが、目が覚めても頭と身体はまだ寝ているらしく、誰よりものんびりと朝の仕度をしていた。
(最美さん、王黎師匠に命じられて長時間の偵察とかするからかなあ)
眠たそうに――だが一応、本人はそれを表に出さないようにクールぶって――丸テーブルを囲む最美を紀更は少しほほ笑ましく見守る。
キリッとしていて冷静沈着な大人の女性の最美に、朝が弱いお寝坊さんというウィークポイントがあるというギャップ。年上の女性に対して失礼かとは思ったが、紀更はそれがどうしてもかわいらしく思えてしまった。
「ほぉ、ほぉ。全員そろっておるかぇ?」
全員の食事がすんでしばらく経った頃、クォンが姿を現した。
魂だけの存在であるクォンは、扉を開けるといった所作も音もなく現れる。そもそもどこで寝起きしているのか、それとも魂だけの存在なので睡眠や休息は必要としないのか。疑問に思うが答えを知っても仕方がないので、紀更はもう「そういうものだ」と思うことにしていた。
「船の用意ができたでのぅ。海が凪いでいるうちにここを発ちんしゃい」
「ありがたいんですけどねぇ、クォンさん」
王黎が本を閉じてテーブルに置き、クォンの方に身体を向けた。
「船はあっても船乗りはいないでしょう? 僕らだけじゃ船を動かせないですよ。また嵐に遭ったらどうしたらいいんです? それに、僕らとしてはゼルヴァイスに戻るんじゃなくて港町ウダに行きたいんですけど、それって可能ですかねえ?」
「え?」
紀更が声を出して驚いたのは、目的地が港町ウダという点だ。てっきりゼルヴィスに戻るのかと思っていたが、そうではないらしい。
「お前さんはほんと、図々しい奴じゃのぅ」
「いやあ、それほどでもないですよ。ここへ来るのですら、ゼルヴァイスの船乗り頼みでしたから。自分にできないことは無理にしない主義なんです」
「ご安心ください。あなた方が望む目的地なら、どこへでも向かうでしょう」
クォンの背後から、すっとラルーカが姿を見せた。何もない空間に突如浮かび上がるその様は、生身の身体を持った人間にはできない芸当だ。
「それは、塔の不思議な力で?」
「そうです。船は始海の塔が用意したもの……安全だと思われます」
「思われる、ね」
「天気だけはわかりませんが、せめて穏やかな海であるように、我々が祈ります」
「祈り……」
ラルーカの口から思ってもみない言葉が出て、紀更は繰り返してしまった。
「あなた方はこの始海の塔が呼んだ方。始海の塔にとって必要な方々なのでしょう。ならば始海の塔が万事手助けをしてくれるはずです。この先もきっと」
「塔にとって必要、か。その話、もっと詳しく聞きたかったなあ」
ねちっこい視線を向ける王黎を、ラルーカは感情のない目で見つめた。
「この塔の中の物は、始海の塔が許せば持ち出すことが可能なはずです。たかがフォスニアの操言士にすぎない我々の話よりも、よほど有意義な土産になるかもしれませんよ」
始海の塔にいるとはいえ、クォンとラルーカはこの塔のすべてを知っているわけではない。もちろん、この世界のこともすべてを理解しているわけではない。紀更の質問に明確な答えをほとんど返せなかったように、知っていることは限られているのだ。
「まあ、ほかに手段がないので与えられるものはありがたく享受します。いいですよね、エリックさん」
王黎は最年長者のエリックに笑顔を向けた。
腕組みをして成り行きを見守っていたエリックは頷く。
「ほかに方法がないからな。ありがたく、用意してもらった船に乗ろう」
「よし、じゃあ戻りましょうか、オリジーアに」
王黎がそう言うと、各自一度客室に戻り、出立準備に取り掛かった。とはいえ、この場所へ上陸した際にそれぞれが持っていた荷物はないも等しい。手荷物のほとんどはジャスパーが用意してくれたジャンク船の中に置き去りにしてしまった。二人の騎士とユルゲンだけは、それぞれの愛用の武器をジャンク船から持ち出せていたので、荷物らしい荷物はそれくらいだ。あとはラルーカの言うように、塔が用意した服やストールなどのわずかな着替えが、持ち出せるかどうかだ。
だがその心配は杞憂だった。それぞれの客室には、まるでどうぞお持ちくださいと言わんばかりに用意された旅に必要な荷物――革製の水筒や、日持ちのする根菜やパンの入った大きな麻袋、清潔な手拭が数枚に、それぞれの身体に合った着替え一式等――が、ご丁寧にも大きなバッグに入った状態で用意されていた。
「クォンさんとラルーカさんは塔から出られないんですよね?」
塔が用意したバッグを手に持って、一階の正面扉の前に集合する。紀更は塔の中を振り返って、クォンとラルーカに問いかけた。
「そうじゃな。お前さんたちとはここでお別れじゃ」
「塔を出てまっすぐ海に向かえば船があります。おそらく船の中にも必要なものはそろっているでしょうから、ご自由にお使いください」
「ありがとうございます」
始海の塔が為す、不思議な御業の数々。施される便利さをただ甘受するだけの自分たちがなぜか申し訳なくなり、紀更は複雑な表情を浮かべながら礼を述べた。
「始海の塔の主の正体も真意も、我々にはわかりません。ですがこの塔がこんなにも丁寧に来客を迎えたところは初めて見ました。あなた方の旅の行く末を、応援しているのかもしれません」
ラルーカはまるで塔に意思や心があり、一人の人間として存在しているかのように語った。それが不思議で紀更はきょとんとした。
「世界はこれから変わろうとしている。その変化の渦の中心にいるのは特別な操言士……紀更さん、あなたなのでしょう。塔はあなたに何かを望んでいます」
それはフォスニア王子の優大が紀更に宛てた手紙にも書かれていたことだった。
望んでなったわけではないが、後天的に操言の力を宿した紀更はオリジーアにとって、いやもしかしたらこの世界にとって、何か特別な意味を持つ存在なのかもしれない。
(私は何かをしなくちゃいけないの? そのために操言の力を授かったの?)
なぜ自分が特別な操言士になってしまったのかという謎はまだ解けないし、何かを求められても応えることができるかはわからない。
しかし一人前の操言士になりたい気持ちや、多くのことを知って成長したいと思う意志が紀更の中にある。そこには神様も、神様以上の神様の存在も、関係ない。
「私はまだまだ未熟です」
紀更は少し表情を引き締めて、ラルーカに言った。
「この塔の主が私に何かを望んでいるのだとしても、ごめんなさい。その期待に応えられるとは言えないし、その期待に応えたいと今は思えません。私はただ私の道を……人生を、自分の足と意志でしっかりと生きていきたい。そう思っていますから」
紀更のまっすぐな瞳に見つめられたラルーカは、それ以上何も言わなかった。ただ細い指先で何度も何度も自分の喉元をなでていた。何か言いたくても声が出ないようだ。
「ほぉ、ほぉ。それでよかろう。神様からの期待……天命なぞ、その時が来ればおのずとわかろぅて。せいぜい、その命を粗末にせんようにな」
黙ったラルーカに代わり、クォンが声をかける。フードは相変わらず彼の顔を覆い尽くしたままだったが、きっとその下には好々爺然とした朗らかなほほ笑みがあるのだろう。
「お世話になりました。クォンさん、ラルーカさん、お元気で」
紀更は二人に一礼をする。そしてエリックが開け放った正面扉を、六人はゆっくりと出ていった。
全員の姿が朝日の中にとけ込み、正面扉が閉まる。それはひとりでにギシッ、と音を立てて施錠された。まるで塔の内外の行き来を禁ずるように。
「なんともまあ、普通の小娘じゃな。むしろちとにぶいところがあるくらいじゃ」
残されたクォンとラルーカは、しばらく正面扉を見つめた。
二人の背後では、六人が使用した食器やパンの残りなどと丸テーブルがひとりでに消える。ついでに、と言わんばかりに、床に敷かれていた大きな絨毯もすぅっと無色透明になっていく。塔の壁に設置されていた照明器具は灯りを落とすだけでなくその存在自体も消えてしまい、塔の中は客人をもてなしていた空気から一変して、ただの石の塊が醸し出す冷たさが充満し、沈黙した。
「似ているのでしょうか」
「ほぉ、ほぉ。さぁてのぅ。お前さんも儂も、彼女のことは知らんからのぅ」
クォンはのんきに笑う。
「じゃが仲間には恵まれておるようじゃ。一人でできんことも、二人ならできるじゃろぅて」
「二人?」
「操言士と言従士、その二人じゃ。その二人が真の力を得てそろう時、カオディリヒスとヤオディミスの悲願が実るのじゃ」
「それは塔が見せた夢ですか」
「おみゃーさんは見ておらんかぇ?」
「はい」
「ほぉ、ほぉ。ラルーカよ、その調子では儂の方が先にここから消えてしまうぞ」
「構いませんよ、私は別に」
「意固地じゃのぅ。魂は巡ってこその魂じゃ。同じ場所でとどまり続けるのは、魂のあるべき姿ではない」
「でも私は……不変でいたい」
終わるのが、変わるのが、自分ではない別のものになってしまうのが怖かった。
だから祈った。だから願った。だから呪った。己のこの魂を。
「魂はな、変わるが変わらぬのじゃ。その境地に達し、その移ろいを受け入れよ」
「クォン、それができないからこそ、あなたもここにいるのでしょう」
「はて。そうなのかぇ?」
クォンはわざとらしく尋ねた。
「儂らの役割はまだ続くからのぅ。あの小娘が、己が言従士と二人で事を成すまではな。なに、二人ならば大丈夫じゃ」
一人でできないことも、二人でなら。二人なら、きっと大丈夫。
そう言い切れるのは、クォン自身が生きていた頃に言従士を従えていたからだろう。残念ながら、己の言従士と出会わなかったラルーカにその感覚はわからない。
(瑞々しい、緑の瞳の操言士……)
彼女の進む道に、少しでも光が降り注ぐといい。
ラルーカは穏やかな気持ちで目を閉じた。
◆◇◆◇◆
両親と兄弟姉妹に囲まれて、喧嘩したり笑い合ったりしながら送る日々。
普通のその生活が幸せで、満たされていると思っていた。
それが覆されたのは、約一年前。激しい雨が降り、雷が落ちる夜だった。
昼間から感じていた妙な違和感は陽が沈むごとに大きくなって、夜には横になっても寝つけないほどにちくちくと身体を内側から刺激した。
変わってしまったのはそれからだ。
満たされていると思っていた日常が、急に寂しくなる。何かが足りない気がして、いつもどこか遠くを見つめるようになった。まるで足りないその何かを探すように。
でも何が足りないのか、何が欲しいのか、わからなくて無性に苛立った。
そんな状態が続いてとうとう我慢しきれなくなって、家族の制止も聞かずに飛び出した。家族は誰一人、この焦燥感を理解してくれなかった。あんなにも仲良しの家族だったのに、自分だけが実は偽物だったんじゃないかと思うほどだった。それでも母だけは、「気を付けてね」と見送ってくれた。
それからは意味もなく走った。なんとなく北を目指してみた。アルソーの村でしか生きてこなかったが、明確な行き先のない流浪の旅も、やってしまえば意外とできるものだった。怪魔に遭遇したり野犬に遭遇したり、危険な目にも何度か遭ったが、そのたびに姿を変えて窮地を脱した。
アルソーの村での生活は気に入っていた。
でも勢いのままに故郷を飛び出した今の生活も、思いのほか気に入ることができた。
あとは、そう。この魂が求めるものを見つけられるかどうか――。
目を開けて起きる、という感覚を覚える。だが肉の器を失ったいま、正確な意味での睡眠というものはしていないはずだ。だからこれは錯覚にすぎない。
(誰か……そう、また誰かが)
「新たな出会いがあるようじゃな」
胸の中で静かに考えていたラルーカの隣には、いつの間にかクォンがいる。彼もラルーカと同じように、睡眠をとって夢でも見ていたかのような感覚になっていたのだろう。
「塔の主が儂らに見せるこれは誰かの記憶、誰かの思いじゃ」
「記憶と思いですか」
「ラルーカよ、儂はわかってきた。こうして幾度となく他者の記憶に触れることで」
「何がですか」
「生前の儂らの願いと行いが、いかに愚かだったか。そして、魂の巡りがいかに美しいものかをじゃ」
生前のクォンとラルーカに、血縁以外の接点はない。しかし二人とも同じような過ちを犯した。ゆえにこの塔に閉じ込められているのだと、二人は解釈している。
「儂らはまだまだ学ばねばならぬ。思い知らねばならぬ。大いなる流れに乗って巡ることのできない苦しみを。あまたの生と死の苦しみを」
「この時間に……空間に……終わりは来るのでしょうか」
「あの娘に会うことで、儂らも変化の渦に巻き込まれた。変化とは何かが終わること。そして始まることじゃ」
「私たちの……罪滅ぼしの終わり?」
「そうじゃ。そして次の巡りへの始まりじゃ。きっと……きっと」
クォンの声は、まるで祈っているようだった。
◆◇◆◇◆
始海の塔でむかえる二日目の朝もよく晴れていた。海の上に浮かぶ放射状の積雲が次々に流されていくので、上空は少し強い風が吹いているようだ。
塔の一階にはやはり丸テーブルと、どこからともなく出現した朝食があり、それぞれのペースで起き出した六人はありがたく手をつけた。
一番起床が早いのはエリック、続いてルーカスだ。騎士団での規則正しい生活が染みついている二人は、夜明けとともに起きては剣を振って軽い鍛錬を行い、それから朝食にしている。
三番目に早いのは意外にも王黎だった。彼は規則正しい生活をする、というよりも短い睡眠時間で十分身体を回復できるらしい。
王黎はエリックたちのように鍛錬をしないが、彼の客室にはどうやら本があったようで、食後の茶を飲みながらのんびりと、客室から持ち出した本を読んでいた。
四番目はユルゲンだった。順番は違うが腹ごしらえをしてから、彼も二人の騎士と同じく外に出て両刀を振るう。身体を動かさないと全身がにぶって重くなるため、その感覚を嫌ってユルゲンは戦闘がない日でも一定の運動量を自分に課していた。
そして五番目に起きるのは紀更だ。特に体力づくりをしているわけでもない紀更は、王都の実家にいた時と変わらないペースで朝をむかえる。
そして最も遅くに起きてくるのは最美だった。紀更と同室の場合は紀更より早く起きることもあるのだが、目が覚めても頭と身体はまだ寝ているらしく、誰よりものんびりと朝の仕度をしていた。
(最美さん、王黎師匠に命じられて長時間の偵察とかするからかなあ)
眠たそうに――だが一応、本人はそれを表に出さないようにクールぶって――丸テーブルを囲む最美を紀更は少しほほ笑ましく見守る。
キリッとしていて冷静沈着な大人の女性の最美に、朝が弱いお寝坊さんというウィークポイントがあるというギャップ。年上の女性に対して失礼かとは思ったが、紀更はそれがどうしてもかわいらしく思えてしまった。
「ほぉ、ほぉ。全員そろっておるかぇ?」
全員の食事がすんでしばらく経った頃、クォンが姿を現した。
魂だけの存在であるクォンは、扉を開けるといった所作も音もなく現れる。そもそもどこで寝起きしているのか、それとも魂だけの存在なので睡眠や休息は必要としないのか。疑問に思うが答えを知っても仕方がないので、紀更はもう「そういうものだ」と思うことにしていた。
「船の用意ができたでのぅ。海が凪いでいるうちにここを発ちんしゃい」
「ありがたいんですけどねぇ、クォンさん」
王黎が本を閉じてテーブルに置き、クォンの方に身体を向けた。
「船はあっても船乗りはいないでしょう? 僕らだけじゃ船を動かせないですよ。また嵐に遭ったらどうしたらいいんです? それに、僕らとしてはゼルヴァイスに戻るんじゃなくて港町ウダに行きたいんですけど、それって可能ですかねえ?」
「え?」
紀更が声を出して驚いたのは、目的地が港町ウダという点だ。てっきりゼルヴィスに戻るのかと思っていたが、そうではないらしい。
「お前さんはほんと、図々しい奴じゃのぅ」
「いやあ、それほどでもないですよ。ここへ来るのですら、ゼルヴァイスの船乗り頼みでしたから。自分にできないことは無理にしない主義なんです」
「ご安心ください。あなた方が望む目的地なら、どこへでも向かうでしょう」
クォンの背後から、すっとラルーカが姿を見せた。何もない空間に突如浮かび上がるその様は、生身の身体を持った人間にはできない芸当だ。
「それは、塔の不思議な力で?」
「そうです。船は始海の塔が用意したもの……安全だと思われます」
「思われる、ね」
「天気だけはわかりませんが、せめて穏やかな海であるように、我々が祈ります」
「祈り……」
ラルーカの口から思ってもみない言葉が出て、紀更は繰り返してしまった。
「あなた方はこの始海の塔が呼んだ方。始海の塔にとって必要な方々なのでしょう。ならば始海の塔が万事手助けをしてくれるはずです。この先もきっと」
「塔にとって必要、か。その話、もっと詳しく聞きたかったなあ」
ねちっこい視線を向ける王黎を、ラルーカは感情のない目で見つめた。
「この塔の中の物は、始海の塔が許せば持ち出すことが可能なはずです。たかがフォスニアの操言士にすぎない我々の話よりも、よほど有意義な土産になるかもしれませんよ」
始海の塔にいるとはいえ、クォンとラルーカはこの塔のすべてを知っているわけではない。もちろん、この世界のこともすべてを理解しているわけではない。紀更の質問に明確な答えをほとんど返せなかったように、知っていることは限られているのだ。
「まあ、ほかに手段がないので与えられるものはありがたく享受します。いいですよね、エリックさん」
王黎は最年長者のエリックに笑顔を向けた。
腕組みをして成り行きを見守っていたエリックは頷く。
「ほかに方法がないからな。ありがたく、用意してもらった船に乗ろう」
「よし、じゃあ戻りましょうか、オリジーアに」
王黎がそう言うと、各自一度客室に戻り、出立準備に取り掛かった。とはいえ、この場所へ上陸した際にそれぞれが持っていた荷物はないも等しい。手荷物のほとんどはジャスパーが用意してくれたジャンク船の中に置き去りにしてしまった。二人の騎士とユルゲンだけは、それぞれの愛用の武器をジャンク船から持ち出せていたので、荷物らしい荷物はそれくらいだ。あとはラルーカの言うように、塔が用意した服やストールなどのわずかな着替えが、持ち出せるかどうかだ。
だがその心配は杞憂だった。それぞれの客室には、まるでどうぞお持ちくださいと言わんばかりに用意された旅に必要な荷物――革製の水筒や、日持ちのする根菜やパンの入った大きな麻袋、清潔な手拭が数枚に、それぞれの身体に合った着替え一式等――が、ご丁寧にも大きなバッグに入った状態で用意されていた。
「クォンさんとラルーカさんは塔から出られないんですよね?」
塔が用意したバッグを手に持って、一階の正面扉の前に集合する。紀更は塔の中を振り返って、クォンとラルーカに問いかけた。
「そうじゃな。お前さんたちとはここでお別れじゃ」
「塔を出てまっすぐ海に向かえば船があります。おそらく船の中にも必要なものはそろっているでしょうから、ご自由にお使いください」
「ありがとうございます」
始海の塔が為す、不思議な御業の数々。施される便利さをただ甘受するだけの自分たちがなぜか申し訳なくなり、紀更は複雑な表情を浮かべながら礼を述べた。
「始海の塔の主の正体も真意も、我々にはわかりません。ですがこの塔がこんなにも丁寧に来客を迎えたところは初めて見ました。あなた方の旅の行く末を、応援しているのかもしれません」
ラルーカはまるで塔に意思や心があり、一人の人間として存在しているかのように語った。それが不思議で紀更はきょとんとした。
「世界はこれから変わろうとしている。その変化の渦の中心にいるのは特別な操言士……紀更さん、あなたなのでしょう。塔はあなたに何かを望んでいます」
それはフォスニア王子の優大が紀更に宛てた手紙にも書かれていたことだった。
望んでなったわけではないが、後天的に操言の力を宿した紀更はオリジーアにとって、いやもしかしたらこの世界にとって、何か特別な意味を持つ存在なのかもしれない。
(私は何かをしなくちゃいけないの? そのために操言の力を授かったの?)
なぜ自分が特別な操言士になってしまったのかという謎はまだ解けないし、何かを求められても応えることができるかはわからない。
しかし一人前の操言士になりたい気持ちや、多くのことを知って成長したいと思う意志が紀更の中にある。そこには神様も、神様以上の神様の存在も、関係ない。
「私はまだまだ未熟です」
紀更は少し表情を引き締めて、ラルーカに言った。
「この塔の主が私に何かを望んでいるのだとしても、ごめんなさい。その期待に応えられるとは言えないし、その期待に応えたいと今は思えません。私はただ私の道を……人生を、自分の足と意志でしっかりと生きていきたい。そう思っていますから」
紀更のまっすぐな瞳に見つめられたラルーカは、それ以上何も言わなかった。ただ細い指先で何度も何度も自分の喉元をなでていた。何か言いたくても声が出ないようだ。
「ほぉ、ほぉ。それでよかろう。神様からの期待……天命なぞ、その時が来ればおのずとわかろぅて。せいぜい、その命を粗末にせんようにな」
黙ったラルーカに代わり、クォンが声をかける。フードは相変わらず彼の顔を覆い尽くしたままだったが、きっとその下には好々爺然とした朗らかなほほ笑みがあるのだろう。
「お世話になりました。クォンさん、ラルーカさん、お元気で」
紀更は二人に一礼をする。そしてエリックが開け放った正面扉を、六人はゆっくりと出ていった。
全員の姿が朝日の中にとけ込み、正面扉が閉まる。それはひとりでにギシッ、と音を立てて施錠された。まるで塔の内外の行き来を禁ずるように。
「なんともまあ、普通の小娘じゃな。むしろちとにぶいところがあるくらいじゃ」
残されたクォンとラルーカは、しばらく正面扉を見つめた。
二人の背後では、六人が使用した食器やパンの残りなどと丸テーブルがひとりでに消える。ついでに、と言わんばかりに、床に敷かれていた大きな絨毯もすぅっと無色透明になっていく。塔の壁に設置されていた照明器具は灯りを落とすだけでなくその存在自体も消えてしまい、塔の中は客人をもてなしていた空気から一変して、ただの石の塊が醸し出す冷たさが充満し、沈黙した。
「似ているのでしょうか」
「ほぉ、ほぉ。さぁてのぅ。お前さんも儂も、彼女のことは知らんからのぅ」
クォンはのんきに笑う。
「じゃが仲間には恵まれておるようじゃ。一人でできんことも、二人ならできるじゃろぅて」
「二人?」
「操言士と言従士、その二人じゃ。その二人が真の力を得てそろう時、カオディリヒスとヤオディミスの悲願が実るのじゃ」
「それは塔が見せた夢ですか」
「おみゃーさんは見ておらんかぇ?」
「はい」
「ほぉ、ほぉ。ラルーカよ、その調子では儂の方が先にここから消えてしまうぞ」
「構いませんよ、私は別に」
「意固地じゃのぅ。魂は巡ってこその魂じゃ。同じ場所でとどまり続けるのは、魂のあるべき姿ではない」
「でも私は……不変でいたい」
終わるのが、変わるのが、自分ではない別のものになってしまうのが怖かった。
だから祈った。だから願った。だから呪った。己のこの魂を。
「魂はな、変わるが変わらぬのじゃ。その境地に達し、その移ろいを受け入れよ」
「クォン、それができないからこそ、あなたもここにいるのでしょう」
「はて。そうなのかぇ?」
クォンはわざとらしく尋ねた。
「儂らの役割はまだ続くからのぅ。あの小娘が、己が言従士と二人で事を成すまではな。なに、二人ならば大丈夫じゃ」
一人でできないことも、二人でなら。二人なら、きっと大丈夫。
そう言い切れるのは、クォン自身が生きていた頃に言従士を従えていたからだろう。残念ながら、己の言従士と出会わなかったラルーカにその感覚はわからない。
(瑞々しい、緑の瞳の操言士……)
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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