ヒオクダルスの二重螺旋

矢崎未紗

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第04話 古の操言士と水の犬

4.星空(上)

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――あなたの知りたいことは、古の操言士たちが教えてくれるでしょう。

 手紙にはそう書いてあったが、もしかしたら、重要なのは「紀更が知りたいこと」ではないのではないか。

「私がこと?」

 優大はなにも親切心で「特別な操言士」に手紙を寄越し、ここへ来るように誘導したのではない。この始海の塔でクォンとラルーカから聞ける話。それを特別な操言士に知ってほしかったのだ。

(どうして……それに、それだけ?)

 優大が操言士和真を使って手紙をジャスパーに託したことで、紀更はこの塔の存在とともに、フォスニアの優大のことも知った。それからフォスニア王エンリケが殺されたことも、フォスニアという国が初代操言士の娘、ザンドラによって建国された国であることも知り得た。もしかしたら優大は、そうした他国の状況を知ってほしかったのではないだろうか。

(私に何か……)
――これからあなたが知ることによって、この世界は大きく動きます。あなたは変化の渦の中心にいるのです。
「世界が動く……変化の渦?」

 望んだことではないし不本意なことではあるが、「特別な操言士」と呼ばれる自分に、優大は何を望んでいるのだろうか。そしてそれは何のためなのだろうか。世界が動くだなんて大仰な表現は、いったい何を意味しているのだろう。

「ああっ、もう!」

 わからない。全然わからない。
 知りたいと思ったことも、そのほとんどは正確な答えが得られていない。どちらかというと、答えに近付くためのヒントをたくさん与えられただけの状態だ。情報の切れ端が多すぎて、整理しきれない。ピースとピースは共通点があってつなげられる気がするのに、ぴったりとはつながらない。その合間を埋める別のピースが、まだあちこちに存在しているようだ。

(もやもやする!)

 紀更は起き上がり、ドレッサーの横に移動して小さな窓の外を見つめた。少し曇って汚れている窓ガラスからは、ぼやけた景色しか見えない。空には上弦の月よりもややふくらんだ月が出ているようだが、浜辺近くの木々の輪郭や打ち寄せる漣はさすがに遠すぎて、部屋の中からは見えなかった。

(嵐だったなんて、嘘みたい)

 昨夜の今頃、外は嵐だった。空は分厚い雲に覆われ、強風と強雨が大地を痛めつけていた。今は風もなさそうで、すっかり落ち着いた空模様だ。

(もしかして、昨日の嵐もこの塔の不思議な力のせいなの?)

 ふと、そんな憶測が思い浮かぶ。だがもしもそうなら嵐など起こさずに、平和に船旅をさせてくれた方がありがたかった。

「嵐……」

 ジャンク船の甲板、怪魔と戦う王黎とヒルダ。
 加勢したかったはずなのに、あっけなく海に落ちた自分――。

「そうだ、私……」

 紀更は急に思い出した。
 昨夜の嵐の中、自分を助けてくれたのはユルゲンだ。今朝ルーカスから聞いた話では、ユルゲンは自分を追いかけてくれた。嵐の中、危険極まりなかっただろうに、荒れる海に飛び込んでくれたのだ。そして命懸けで助けてくれた。ここの浜辺まで泳いできて呼び起こしてくれて、塔まで連れてきてくれた。得体の知れないクォンを警戒しながらずっと、こちらの身の安全を考えてくれていた。

(やだ、お礼を言っていないわ!)

 それどころか昨夜ソファの空間で、気遣ってくれた彼の手を振り払ってしまっている。命の恩人に対して、あまりにも不誠実な態度をとってしまった。

(ユルゲンさんと話がしたい)

 紀更は思い立つと踵を返した。すると寝台の上に、先ほどまではなかったはずのストールが置かれているのが目に入る。深緑色のやや分厚くて大きなサイズのそれは、まるで羽織っていけ、と紀更に主張しているようだ。おそらく塔の主の気遣いなのだろう。
 紀更はありがたくストールを両肩に羽織った。寝間着と思しき白いワンピースに着替えてしまっていたが、ストールのおかげで寝間着だけのような格好には見えないし、寒さも感じはしない。

(ユルゲンさん、今から会えるかしら)

 ストールの裾を握りしめながら、そっと客室を出る。
 ユルゲンにあてがわれた客室がどこなのかはわからない。そもそも、休むと言って席を立ったのだ。もう寝てしまっているかもしれない。それでも、いま話がしたい。声を聞きたい。それはお礼を言わなければ、という義務感ではなく、純粋な願望だった。
 部屋を出て階段の踊り場に立った紀更は、右手に上がる階段を見上げた。すると三メイほどの高さを上ったところに、また踊り場があることに気付く。

(そこ?)

 導かれるように紀更が階段を上ると、上の踊り場に近付くにつれて、踊り場から塔の中央に向かって黒いつり橋のような廊下が、淡い光を放ちながら伸びていった。

(こっち、ってことかな)

 廊下が生き物のように伸びていくという、あり得ない光景。その不思議な現象に飛び上がって驚かないあたり、だいぶこの塔の不可思議さに慣れてきているのだと、しみじみと自覚する。
 階段にもつり橋にも手すりはあるが、それらを支える柱はない。つり橋にいたっては踊り場から伸びているというだけで、何にも支えられていないのがありありと見て取れる。その上を歩くのはかなりの恐怖感があったが、この塔の中はなんでもありなのだ。塔が示す道なら間違いも危険もないだろう。

 上の踊り場にたどり着いた紀更は、最初の数歩を慎重に踏み出した。つり橋が落ちる気配がないことを感じ取ると、少しばかり不安げな足取りで、塔の中央に向かって伸びるつり橋を渡る。念のためではあるが、黒い手すりには手を添えておいた。それから、絶対に下は見ないように注意する。
 つり橋は塔の中央で九十度に右に折れ曲がり、その先の塔の内壁にはこれまた扉があった。ふたつの階段のどちらとも接続していないため、このつり橋がないとたどり着けない扉だ。

(階段からじゃ行けない場所……ユルゲンさんもこのつり橋を渡ったのかしら)

 この先にユルゲンがいる――不思議なことに、そう確信が持てた。
 ユルゲンは紀更が一階から上ったのとは反対の螺旋階段を上ったはずだ。だがこのつり橋が現れたなら、こうして同じようにつり橋を歩いてこの扉に行けただろう。

「よい、っしょ」

 つり橋の先の扉は少し重たく、紀更は目いっぱいの力を込めて外側に押した。扉の向こうから塔の中に向かって、一陣の強い風が吹き込んでくる。紀更は反射的に目を閉じた。やわらかな栗色の髪の毛が、風にたなびく。
 風はすぐにおさまり、紀更は目を開けた。
 そこは客室の三倍ほどの広さのバルコニーだった。長い木の板が連なってできた床に、白い手すり。それは紀更の胸ぐらいまでの高さがあり、安全性を確保するためのものだろう。バルコニーの中央には白い二人掛けのベンチがあり、そこに座っていたユルゲンが背後を振り向く形で紀更を見ていた。

「紀更? どうした」
「あの、階段の踊り場からつり橋が伸びてまして」
「ああ、俺も同じ道でここへ来たが……よく怖がらずに渡れたな」

 紀更の道程を知って、ユルゲンは感心した。
 紀更は後ろ手に扉を閉めると、ユルゲンが座っているベンチを通り過ぎてバルコニーの手すりに近付いた。
 扉の上、塔の外壁には大きな照明器具があり、ほんのりと光る薄い橙色の灯りが、バルコニー全体を照らし出している。強い風が吹いたのは先ほどの一瞬だけで、周囲には初夏の夏の匂いがゆったりとただよっていた。
 白い手すりの向こうにはサキトス湾と思われる海が広がっており、視線を少し上に向ければ明るい月が見える。
 塔の中で上った階段の高さは、体感としてはせいぜい建物の三階分ぐらいだと思っていたのだが、どういうわけだかこのバルコニーの高さは三階ではすまない。海全体を見渡せるような景色から考えて、十階か十五階か、それ以上か。普通に生活しているかぎり決してたどり着けないほどの高さに位置しているようだった。

「星がよく見えますね」

 視線を水平に保てば、月明かりを反射する海の水面がきらりと光っているのが見える。そして海面からつながっているように見える深い紺色の夜空には、数え切れない星々がらんらんと輝きを放っていた。今まで生きてきた中で最も高い場所から見上げるその星空は、伸ばした手が届きそうなほど近くに感じる。

「きれい……」

 紀更はうっとりとした声で呟いた。
 満月になりつつある月がもしもなければ、もっと星の輝きが際立って見えることだろう。しかし星々と競うように、ただ一人大きな面積で輝きを放つ月は月で、とても美しい。

 人が起きたまま過ごす夜の時間というのは、そう長くはない。明灯器があるとはいえ、やはり陽の光のない夜は活動しづらいからだ。陽が沈んだら、身体を休めるために早々に寝る。そして朝は日の出とともに活動を始める。多くの動物が送るその生活サイクルを、人間も基本的には同じように送っている。夜は寝る時間という認識が当たり前なので、こうしてゆっくりと星空を見上げる機会というのは意外と珍しい経験だ。
 オリジーアの都市部では闇を好む怪魔を警戒して、騎士や操言士たちが夜通しの番をしている頃だろう。それなのに始海の塔という不思議な場所にいるからなのか、怪魔が好む闇の時間帯がいつもと違ってそれほど怖くはない。紀更とユルゲンの目の前には、美しい星空と月明かりの下の海が、ただ安らかに広がっていた。
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