ヒオクダルスの二重螺旋

矢崎未紗

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第03話 海の操言士と不思議な塔

8.嵐(中)

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(塔にいる古の操言士って、とても長生きの操言士ってこと?)

 塔が建っていると思われる場所は、サーディアの領土であるラッツ半島の先端だ。その長生きしている操言士は、サーディアの操言士ということだろうか。サーディアにもオリジーアと同じように《光の儀式》があって、操言士団があって、そこに属する操言士という形で働いて生きている人たちがいるのだろうか。

――これからあなたが知ることによって、この世界は大きく動きます。

 手紙にはそう書かれていた。
 世界が動く、という意味はわからない。

(でも私が知ることによって、というのは……それは、こうやって他国のことも考えるって意味なのかしら)

 フォスニア王子の優大は、紀更に他国のことも知ってほしいのだろうか。

(それはどうして?)

 教え導いてくれる王黎に次々に質問している時のように、疑問がぷくぷくと浮かんではゆっくりと消えていく。

(不思議な塔……そこで本当に答えが見つかる?)

 客室を照らすひとつの明灯器。その弱々しい灯りが、ふっと揺れる。
 次の瞬間、今までで一番大きく船が傾いた。

「きゃっ」
「っ……」

 ベッドに腰掛けて座っていた紀更とエリックが、小さく声を上げた。予想していなかった大きな揺れに身体を持っていかれそうになったが、すんでのところでシーツを掴み、なんとか態勢を維持する。

「紀更殿、大丈夫か」
「はい」

 エリックはまず紀更に声をかけた。紀更は頷いて、短く返事をする。それからエリックは最美、ルーカス、ユルゲンへと視線を走らせ、それぞれの無事を確認した。

「――!」

 その時、船が軋む音や外の雨風の音に交じって、甲高い悲鳴のようなものが聞こえた。
 紀更は一瞬身体が硬直したあとに数秒考えてから、その声の主に思い至った。

「ヒルダ!」

 揺れる船の中、何度もよろめいて壁に手を付きながら、紀更は甲板へと急ぎ足で向かった。


     ◆◇◆◇◆


 足の踏ん張りがきかない。甲板は濡れるというレベルを超えて浸水しており、足首までどっぷりと海水に浸かってしまっていた。船内の天井は海水が入り込んでこないように水をはじく加護を一面に施しているが、その効果はもう切れてしまっているかもしれない。
 ヒルダの身体は波に濡れようが風に吹かれようが、手首に巻き付けた麻縄のおかげで船から弾き飛ばされることはなかった。しかし荒ぶる海の揺れに耐えきれず、ついに尻もちをついてしまった。そしてその一瞬の隙を狙ったかのように、怪魔スミエルが嵐に負けず海の中から飛び出してきて、ヒルダをめがけて牙をむいた。

「キャアア!」
【怪魔スミエル、宙で動きを止めろ!】

 甲高い悲鳴。
 だがスミエルはヒルダに到達する前に、王黎の言葉によって動きを封じられた。

【我が身は弓、我が意志は矢、我が力は闇を貫く!】

 王黎が言葉を紡ぐと、その指先から矢の形をした光が放たれ、空中で動きの止まったスミエルの身体を貫いた。スミエルは雨粒の中に霧と化して消えていく。

「ヒルダ、踏ん張れ!」
「はいっ」

 危ないところを助けられたヒルダは、頬を垂れる雨の滴を振り払った。
 立ち上がって態勢を整え、再び怪魔が襲ってこないか、雨の中視線を這わせる。

「ヒルダ! 王黎師匠っ」

 そこへ、入り口となる床扉を船内から開け放って、紀更が飛び出てきた。

「紀更ちゃんっ!?」
「紀更、どうして!」

 思ってもみない人物の登場に、ヒルダと王黎は驚愕する。しかしすぐに二人は紀更を怒鳴りつけた。

「紀更ちゃん、だめ! 危ないから中にいて!」
「嵐もだけど、スミエルがまた襲ってきてる! 紀更は中にいるんだ!」
「でも……っ」

 二人に怒鳴られても、紀更はめげなかった。
 強い風に栗色の髪は乱れ、横殴りの雨で服はあっという間にぐっしょりと濡れて、身体にぺたりと張り付く。

「怪魔がいるなら私だって――!」
――戦力になりたい。

 声にならない思いが、紀更の表情をゆがめた。
 同い年のヒルダが、こんな嵐の中でも怪魔と戦っている。王黎だって、慣れない船の上なのに陸地にいる時と同じように操言士として役に立っている。自分だけが何もせずにはいられない。自分だって、カルーテとの戦いを何度か経験した。操言の力を使う訓練もしてきた。何かきっと、操言士としてできることが――。

「何か……っ」
「紀更!」
「紀更ちゃん!」

 浸水した甲板の水に足を取られて、紀更の態勢が崩れる。
 ちょうどその瞬間、船が大きく左に傾いた。
 船の中央よりやや左側にいた紀更は踏ん張れず、ヒルダと違って自分の身体と船を麻縄で固定もしていなかったため、その身体はあっさりと海の中に放り出されてしまう。

「紀更――!」

 紀更が海に落ちて、水しぶきが上がる。
 その身体が海面にたたきつけられる音すら、強すぎる風の音のせいで聞こえなかった。


     ◆◇◆◇◆


――ほんの少し前。

「ヒルダ!」

 そう言って客室を出ていった紀更の背中が視界に入って、ユルゲンは背筋が凍った。

「おい!」

 腹筋の力で起き上がり、上段ベッドから飛び下りる。

「ユルゲン!」

 こちらの名を呼ぶエリックなど気にもかけず、ユルゲンは客室を出た。
 揺れる船の中だというのに、紀更はよろけながらも素早く甲板を目指している。
 その小柄な身体を引き留めようとしたユルゲンは、腰元に愛刀がないことに気が付いて、舌打ちをしながら客室に戻った。そして両刀の鞘をしっかりと腰ベルトにくくりつけてから、あらためて紀更を追いかけた。

(あの、馬鹿っ……!)

 彼女に対して、初めて悪態をつく。なぜだかわからないが、紀更の行動は異常なほどにユルゲンの肝を冷やしていた。
 明灯器のかすかな灯りがただよう船内をよろけながらも急ぎ、紀更が開け放ったままの天上扉へ階段を駆け上がる。
 そうして甲板に飛び出たユルゲンが目にしたものは、大きく傾く船。強い風と強い雨。嵐を呼んだ、濃い灰色の雲に覆われた暗い空。そして、真っ黒な海の中へ落ちていく紀更の姿だった。

「紀更――!」

 背筋が凍るどころではない。肝が冷えるどころではない。
 自分の死、世界の終わり――それに近い底知れぬ絶望が、焦りが、恐怖が、ユルゲンの身体を包み込んだ。青い瞳が大きく見開き、海水の中に消えていった紀更の姿に呼吸が止まる。

「紀更!」
「紀更ちゃん! やだっ、どうしようっ!」

 甲板にいたヒルダと王黎が叫んだ。
 あっという間の出来事だったので、甲板にいたほかの船員たちもみななす術もなく、海に落ちた紀更を見つめることしかできなかった。

「やべぇぞ! 嬢ちゃんが落ちた!」
「縄を嬢ちゃんに!」
「ヒルダ、海の中のスミエルを殲滅するんだ! 早く!」

 紀更の落下を見ていた船乗りたちが、紀更を救助しようと手段を考える。王黎も紀更が海中で怪魔スミエルに襲われないように、船上からスミエルへ攻撃する。
 果たして紀更は泳げるのだろうか。ゼルヴァイスに来て初めて海を見たというくらいだから、遊泳の経験など皆無に等しいのではないか。海に慣れた者たちで確実に救助できるように、船の上からどうにかするしかない。
 ユルゲンの頭の中で理性が安全な救助方法を思案しかけたが、しかしそんな悠長な理性を本能が殴り飛ばす。船の上からどうにかする方法など待っていられない。この嵐だ。風が強いということは海流も強い。紀更の身体はあっという間にどこかへ流れていってしまうだろう。

「ちょっ、ユルゲンくん!?」

 王黎が呼び止めるのも聞かず、ユルゲンは紀更が攫われた方向へ両手をそろえて飛び込んだ。ほとんど無意識の判断だった。

(紀更っ……!)

 嵐の海は冷たく、あっという間にユルゲンの体温を奪う。強風の影響か、強い海流が渦巻いており、泳ごうと手足で水をかいても泳いでいるという手応えがない。
 ユルゲンは海面に向かって顔を出した。酸素を求めて口を大きく開き、口内にあった海水をくじらのように噴き出す。

「き、さら……どこだっ」

 息も絶え絶えに叫ぶ。大きく弧を描く、黒い波の山。そのどこかに紀更が見えないかと、海水中で両足をばたつかせながら、必死に夜の海に目を凝らす。

(くそっ、見えねえ!)

 その時、つい先ほどまで乗っていたジャンク船の上に、海に落ちた二人を照らすための明かりが出現した。空中に浮かぶ光の球体。おそらく、王黎が操言の力で作り出したのだろう。ラフーア音楽堂での戦闘時より少しばかり小さいが、ジャンク船の近くを可能な限り照らし出してくれる。
 海流に流されるユルゲンは、船からどんどん離れてしまう。だがそんなことを気にするよりも、光球に照らされた範囲内に紀更がいないか、懸命に捜す。すると明かりが照らす範囲のぎりぎり内側に、白っぽいものが一瞬見えた。

(そこかっ!)

 それは紀更の着ていた、白いブラウスだろう。距離はそう離れていないが、海流に阻まれて近付けないかもしれない。それでも構わず、ユルゲンは荒れる波をかき分けて白い物体をめがけて泳いだ。
 操言の光球が、いつまでもつかわからない。紀更を救う前に、怪魔スミエルが襲ってくることも予想される。早くしなければ。

(紀更……っ)

 水分を吸った服の重みで沈んでしまっては助けられない。意識があって、溺れないようにせめて犬かき程度でも続けて浮いていてくれるといい。しかしもし意識を失って呼吸も止まってしまっていては、たとえ引き上げることができても手遅れになってしまう。

(クソったれが!)

 強い風に。強い雨に。荒れる波に。まとわりつく服に。何よりも、紀更から目を離した自分自身に。こんなにも強い嵐だ。甲板に上がれば体重の軽い彼女など簡単に風に攫われてしまうと予想ぐらいできただろうに、油断した自分に。
 思いつくすべてのことを胸中で罵倒しながら、ユルゲンは力を振りしぼった。
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