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第1話 聖女様の秘密の恋(前編)

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 幼いパメラは身体の弱い母と二人きりで暮らしていた。父はどこかでまだ生きているそうだが、道ならぬ恋だったのか、母はとうとう最期までパメラの父が誰なのかは教えてくれなかった。けれども、「賢くて明るくて、あなたはお母さんが愛したお父さんによく似ているわ」と言ってパメラのことを愛情深く育ててくれた。
 そんな母はパメラが十歳の頃から毎日咳が出るようになり、数日に一度は発熱して寝台からほとんど動けなくなってしまった。仕立屋の店員として働く母の稼ぎだけが頼りだった生活は苦しくなり、パメラは子供でもできる簡単な宅配の仕事を探しては請け負った。子供なので重い荷物を運ぶのは難しかったが、その代わり元気と体力だけはあるので、レシクラオン神皇国の神都ファーディオルの城下町を朝から夕方まで懸命に走り回った。おかげでどの道を移動すれば最も速く、またなるべく人込みにぶつかることなく進めるのかがわかり、脳内マップが充実した。

 しかしパメラの母の病状が良くなることはなかった。パメラは子供ながらに役所へ行き、「わいの儀」への参加希望を出した。
 この世界を創りし神ウォンクゼアーザ。その神を深く信仰するこのレシクラオン神皇国には、時折「聖女」と呼ばれる清らかな女性が誕生する。それはこの国を統べるファンデンディオル家にのみ生まれる女性で、ほかの誰とも違って美しい銀髪と露草色の瞳を持っているという。聖女は生涯を通して神に深い祈りを捧げ、神と疎通することで神の力の一端を使うことが許される。その力で何ができるのかというと、人々のけがや病を癒すことができるのだ。神の力を行使する儀式は「離穢の儀」や「せいの儀」と呼ばれ、儀式を終えて数日もすれば、最初からなかったかのようにけがも病も完全に治癒するのだという。
 少額の参加費用と順番待ちが必要ではあるが、レシクラオン神皇国の民なら誰でも儀式を受けられる。パメラは早く、早くと急く気持ちで儀式の日を待った。

 そうしてむかえた離穢の儀の日。パメラはつらそうな母の身体を支えつつ、ゆるやかな坂道を上って神聖殿へと向かった。
 神聖殿は、レシクラオン神皇国を統べる神皇とその家族が住む神皇城と同じ敷地にある、様々な儀式が行われる神聖な場所だ。基本的にその門扉は閉ざされているが、数日おきに行われる離穢の儀の日には、レシクラオン神皇国の民ならば入ることができる。
 神聖殿の正門で今日の儀式の参加者であることを告げたパメラと母は待機列に並んだ。順番が来るまでは私語を慎み、神の力を借りて治癒してもらうことを心の中で神に深く感謝して祈りを捧げるように案内されたので、黙ってじっと胸の中で神への感謝の言葉を繰り返す。
 列はゆっくりと進み、神聖殿の建物の中に入る。床はすべて光沢のある大理石で、天井はとても高く、採光用の窓から陽光が降り注ぐ。それはまるで、神が聖女を祝福しているかのような神秘の光に見えた。

「どうぞ、一歩前へ。神官と聖女様が儀式を執り行いますので、お二人はその場から動かないように」

 若い男性神官はそう声をかけると、パーティションのカーテンを開けた。パメラは母を支えつつ前に進んでその足を止める。

(この子が聖女様?)

 パメラの目の前にいたのは、大人の女性神官二人に挟まれた、自分よりも背の低い幼子だった。頭から爪先まで覆うような白い布のローブをまとい、目元は白い布で目隠しをされている。髪の毛は結い上げているのか前髪ぐらいしか見えなかったが、その色は確かに、聖女だけが持つという満月を思わせる美しい銀色だった。
 パメラ自身も子供だったが、子供心ながらに思った。「こんな小さな子が、本当に母の病を癒してくれるのだろうか」と。

「ベサニー・カラパス。長きにわたる咳、発熱、倦怠感等」

 パメラの隣にいた男性神官が、パメラの母の名前を呼ぶ。それを聞いてから、幼子の聖女様は一歩前に進み出てそっと両手を差し出した。何をするのだろうかとパメラは聖女様をじっと見ていたが、聖女様はそれ以上動かなかった。
 ほかの参加者に比べて、やけに長い時間が流れる。するとふいに聖女様は両腕を下ろしてふるふると首を横に振った。

「ごめんなさい……カラパスさんの病気は、もう手おくれです」
「えっ?」
「神の力をもってしても、いまある痛みをやわらげることしかできません」
「そ、そんな……っ」

 膝を突いて祈りの姿勢をとったまま黙っている母の隣でパメラは取り乱した。

「なんで、どうしてよ! 聖女様ならお母さんを助けてよ! 聖女様はどんな病気もけがも治せるんでしょう!?」
「ごめんなさい……おかりしている神の力は、ばんのうではないんです」
「そんな……嘘っ! 聖女様なのにわざと意地悪してるんでしょ! お母さん、ずっとつらそうで、苦しんできて……早く治してよ!」
「こら、口を慎みなさい! 清き聖女様が意地悪などなさるはずがないでしょう! 聖女様でも治せぬ病やけがは本当にあるのですよ」
「せめてもう少し早く離穢の儀を受けていれば、治癒の可能性もあったかもしれませんね」

 周囲にいる神官たちはパメラを咎めたり、慰めのつもりだろうか今さら口にしても詮無い助言を送ったりした。

「ほんとうにごめんなさい。私も助けてあげたい……でもむりなんです。カラパスさんの黒いほのおは……やまいは、もうカラパスさんからはなせないんです」
「何、それ……」

 黒い炎だとか、それが離せないだとか、わけのわからないことを言わないでほしい。パメラは思った。ほかの人にもそうしたように、「もう大丈夫ですよ」と言って母を治してほしかった。

「パメラ、失礼な態度をとったこと、聖女様に謝りなさい。聖女様、娘が申し訳ありません。でも、あたしも自分で薄々気付いていました。この身体はきっともう限界……死が近いのだろうと」
「お母さん! やだ、そんなこと言わないでよっ」
「ごめん……ごめんね、パメラ。まだ子供のあなたを遺して先に死んでしまうお母さんを許してね」
「っ……お母さんっ!」

 パメラの若草色の瞳にじわっと涙が溢れる。

「ごめんなさい……助けられなくて、ほんとうに……ごめんなさい」

 つらそうに謝る聖女の声は、むなしさと悲しさでいっぱいいっぱいのパメラの耳にはぼんやりとしか届かなかった。聖女様が自分と同じように泣いていることにも、この時のパメラは気付かなかった。
 その後、一ヶ月もしないうちにパメラの母は息を引き取った。亡くなる前日まで、母はパメラに何度も言った。「パメラ、いつかでいいから、あの時のことを聖女様にきちんと謝りなさい。聖女様は何も悪くないの。聖女様でも助けられない人がいることは事実なのよ。それでも聖女様はこのレシクラオン神皇国の民のために、あなたよりも子供なのに聖女としてきちんと務めを果たしているの。その聖女様を大事にしなさい。それと、毎日ウォンクゼアーザ様に祈ることを忘れてはだめよ。この世界と私たちがいまこうして在るのは、すべて神のおかげなのだから」と。

 未婚の母以外に身寄りのないパメラは、母の死という悲しみに溺れる間もなく考えなければならなかった。母と共に住んでいるこの小さくて狭い集合住宅の家賃は、お手伝いごときの宅配の仕事の稼ぎでは支払えない。パメラには住むところがなくなる。となると、住み込みでできる仕事を探すしかない。国が運営する学問所に通えるなら通いたいところでもあるが、学びよりもまずは稼ぐことが優先だ。
 そう考えたパメラは、ふと思った。自分よりも子供である聖女様は、すでにあのように儀式を行うことで聖女として勤労している。それによくよく思い出すと、あの時聖女様は泣いてくれたのではないだろうか。助けられない人はこれまでにもいただろうに、パメラの母を癒せないことを真摯に謝り、一緒に悲しんでくれた。聖女は日々神に祈り、民のために尽くす存在であるらしいが、あの聖女様はまだ子供なのにしっかりとその役目を果たしている。

(偉い……それに、優しい)

 聖女様の存在に、パメラは無性に胸が熱くなった。そしてこう思った。聖女様のお傍について働けないだろうかと。それと母に何度も言われたように、あの時聖女様に対してとても失礼な言動をとったことを謝りたいとも思う。そのためにも、聖女付きの侍女になれないかとパメラは思った。
 それからパメラは役所に行った。誰に訊けばいいのかわからなかったが、とりあえず教えてくれそうな母くらいの年齢の女性職員をつかまえて、「孤児になってしまったので聖女の侍女として住み込みで働きたいのだけどどうすればいいのか」と尋ねた。女性職員は困りながらも、「聖女様のことなら神聖院の管轄だから」と言って、神聖院の窓口がある場所を教えてくれた。すぐにパメラは教えてもらった建物に向かい、同じことを女性神官に尋ねた。神官は孤児になってしまったパメラの身の上に同情はしてくれたが、まだ子供のパメラを聖女付きの侍女にするのは無理だと言って断った。それでもパメラはめげなかった。集合住宅を追い出される日まで、毎日神聖院の窓口に通いつめて頼み込んだ。しかし神官は決して首を縦には振らず、そしてとうとうパメラは住まいを失った。

 着替えだけを一番大きなバッグに詰め込んで、パメラは路上に立ちすくむ。独りきりになってしまった寂しさと、これからどうしたらいいのだろうかという途方もない不安にパメラは泣きそうになった。しかし泣いても何も解決しないのでどうにか涙をこらえ、これからどうすべきか幼い頭で懸命に考えた。
 そんなパメラにある婦人が声をかけた。婦人はキャロリン・バレーヌと名乗り、パメラをじっと見つめて猫のような目をきゅっと細めた。

「あなた、聖女様の侍女にしてほしいと神聖院に何度も頼み込んでいた子よね? どう? 我が家の小間使いにならない?」
「えっ?」
「住むところがなくなってしまったんでしょ? 住み込みでいいわよ。その代わり、どんな仕事でも嫌と言わずにこなしてもらうことが条件。どう?」

 パメラは信じられないといった表情でまじまじと婦人を見上げた。燃えるような赤毛はくるんと波形を描いており、着ているコートは上質な革製で、ヒールの靴だってパメラが見たこともないようなお洒落なものだ。どう見ても庶民ではなく裕福な婦人が、たったいま家なき子になったばかりの自分にそんな風に手を差し伸べてくれる理由がわからなかった。

「時間が惜しいわ。返事はいいから、ひとまず私と一緒に来てちょうだい」

 そう言って大通りの石畳を歩いていく婦人にパメラは付いていった。そしてその道中で早口な婦人は教えてくれた。自分には娘がいたが、数年前に咳が続いて数日おきに発熱する奇病を患ったこと。このレシクラオン神皇国のあらゆる医者に診せたが手立ては何もなく、定期的に「離穢の儀」に申し込んで聖女様に病状を緩和してもらっていたこと。しかしある日の離穢の儀で「ごめんなさい。もう助けられません」と聖女様に涙ながらに告げられて、娘は数日後に息を引き取ったこと。その一人娘を亡くして以来、夫と共に商いをする傍らで病気を研究する者や医者の育成と支援を行っていること。そして数日前に神聖院の窓口でパメラを見かけ、薄れていた娘の記憶がよみがえったことを。

「聖女様の侍女になりたいのなら、聖女様に仕えるのにふさわしい人間になりなさい。まずは我が家で、使用人としてのイロハを学べばいいわ。時間に余裕があるなら学問所に通って学も磨きなさい。どんなに意欲があっても無知な馬鹿じゃ聖女様の侍女になれるわけがないわ。常に頭を使うようにしなさい。それと一歩先の未来を、自分ではない別の人間の立場で想像すること。あらゆる状況を想定して対応できなければ、身分が高い人に仕えるに能わないの」

 パメラは、キャロリンの言葉の半分でさえすぐには理解できなかった。しかし「今の自分には足りないものが多く、聖女様の侍女にはふさわしくない」ということだけはすとんと納得できた。それと、キャロリンの家で住み込みの小間使いとして仕える以外に、自分がいま進める道はないのだということも。
 そうしてパメラは、神皇城に近い区画にある大きなバレーヌ家の小間使いになった。専属料理人や庭師、執事、侍女など多くの使用人がいて、それぞれ決まった仕事を分担していた。パメラはまだ子供だったので、小間使いとして主にキャロリンから命じられた細かい用事をこなしつつ、ほかの使用人たちの手伝いも行った。ありがたいことに、仕事が少ない時は学問所に行くことも許された。これまでもたまにしか通えていなかったが、学問所の授業でわからなかったところは屋敷にいる誰かが手隙の際に教えてくれて、これまで以上に学びが深まった。
 時折、母を思い出してパメラは一人泣いた。しかしそのたびに、しっかりと母の言葉を思い出した。

――いつかでいいから、あの時のことを聖女様にきちんと謝りなさい。……それと、毎日ウォンクゼアーザ様に祈ることを忘れてはだめよ。この世界と私たちがいまこうして在るのは、すべて神のおかげなのだから

 最悪、聖女の侍女になれなくてもいい。けれど叶うなら一言だけ、どうしても謝りたい。母を大事に思うならばこそ、母に恥じないように正しく善く生きなければ。
 そうしてパメラは使用人としての心構えや振る舞い、仕事を覚えつつバレーヌ家で約二年を過ごした。そしてある日、キャロリンに呼ばれて屋敷の一階にある応接室に入室した。

「パメラ、こちらは神聖院の神官様よ。あなたを聖女様の侍女にどうかしらと、お話しさせていただいていたの」
「ええっ!?」

 客人を相手に失礼は承知だったが、キャロリンの言葉が信じられなくてパメラは声を上げて目を見開いた。そんなパメラに、目元に皺の刻まれているずいぶんと高齢の女性神官はくすりとほほ笑んだ。

「あら、まあ。元気な娘さんだこと」
「あっ、もっ、申し訳ありません! お客様にとんだ失礼な態度をっ」

 ぺこりと頭を下げて謝るパメラに、女性神官は「いいのよ、頭を上げてちょうだい」とやさしく声をかけた。

「聖女付きの新しい侍女を必要としているわけではないの。必要な使用人はすでにいるし、私たち神官も交代で常に聖女様のお傍にいるから。でもバレーヌ夫人からあなたのことを聞いてね、ふと思ったの。聖女様のお傍にはいつも大勢の大人が付いているけれど、同世代の子供はいない。聖女様は神聖でとても特別な存在だから、あらゆることが普通ではない。世話をしたり護衛をしたりする者や、聖女としてのしきたりや国の歴史を教える家庭教師はいるけれど、〝友達〟はいないの。それでいいのかしら、とね」

 女性神官はおっとりとした口調で続けた。

「聖女様ではあるけれども、まだ十にもなっていない子供なのよ。せめて同世代の使用人がお傍にいてもいいと思うのよ。そう考える大人は私以外にほとんどいないのだけれどね」
「で、でも……とてもありがたいのですが、私でよいのでしょうか」
「ええ、その点はこちらとしても心配しているわ。能力の低い方を聖女様にお仕えさせられないもの。だけど私は、聖女様にもっと子供らしく……年相応に笑ってほしいの。とはいえ、本当に仕えるならば使用人としての働きはしっかりできなくちゃ困るから、塩梅が難しいわね」

 この神官は妙なことを言っているとパメラは思った。
 聖女というこの国で最も清くて尊い存在に仕えるならば、相応の能力の高さや品性が必須だろう。二年前、神聖院の窓口に通いつめて何度も何度も聖女様の侍女になりたいと願い出た時、毎回口を酸っぱくして言われたものだ。「あなたみたいな子供は侍女としての能力も低いし、小汚くて聖女様のお傍にいられるような身なりではない。わがままを言っていないで現実を見なさい」と。
 しかしいまパメラの目の前にいる老いた女性神官は、「聖女様に仕えるのにふさわしい優秀な使用人」ではない何か別の要素を求めているようだ。それは「聖女様に年相応に笑ってもらうため」で、要件としては「聖女様と同世代」であることを求めている。

「ちょっと回りくどい説明だったかしら。そうね、これは神聖院の考えではなくて私個人の考えなの。だからあまり堂々とお伝えできなくて……ごめんなさいね」
「い、いえっ。神官様に謝っていただく必要なんてありません!」
「そういうことでしたら、試用期間をもうけてみてはいかがです?」

 女性神官と向き合ってソファに座っていたキャロリンが提案した。

「新しく雇った聖女付きの侍女が聖女様に仕えるのにふさわしいかどうかは、試用期間中に見極める。もしも不適格なら解雇。パメラのような子供を侍女として聖女様のお傍に置くことを快く思わない方がいても、あるいはパメラが侍女としてまったく使い物にならなかったとしても、試用期間後に放り出すことができると知っていれば門前払いはされないでしょう」
「そうですね、それはいい考えだわ。どうかしら、パメラさん。聖女様にお仕えしてみる?」
「はいっっ!!! ぜひっ、あのっ、私、精一杯頑張ります!」

 悩む間もなく、パメラは大きく頷いて深々と頭を下げた。こんなありがたすぎるチャンスを逃せるはずがなかった。
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