君が好き

矢崎未紗

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第1話

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 クラスメイトの佐竹くんは格好いい。背が高くてスタイルがいいとか、成績がよくて運動神経もいいとか、そういうわかりやすい部分も格好いいのだけれど、誰かに媚びたり他人の顔色をうかがったりすることなく、いつだって彼は確固たる彼自身を持っているから。そのまっすぐで強いところが、とても格好いいと思う。私のような、ただ毎日を安穏と過ごしている凡人なんて比べ物にならないくらい、佐竹くんは素敵だ。
 でも高校三年生になったこの四月、佐竹くんと同じクラスになって嬉しい反面ひたすら片思い歴が伸びて少しナーバスな私は、ふと思った。それってもしかしたら、色眼鏡じゃないかな、って。彼には彼の「本当の姿」があるはずだ。彼女が次々に代わる遊び人なんていう、先行するだけの噂が実は彼の本当の姿なのかもしれないし、噂とは百八十度違って、意外と恋愛には奥手かもしれない。ご両親がお医者さんだから自分も医者を目指している、というのが実は嘘かもしれない。
 ただのクラスメイトにすぎない私には、何ひとつ彼の「本当」なんて見えていないのだと思う。彼の成績だって、別に彼の通信簿を見たことがあるわけじゃなくて、誰かが「佐竹くんって超頭いいんだよ」と言っていたのを、ぼんやりと信じ込んでいるだけだ。佐竹くんは格好いいと思うけど、私は「本当」の彼の姿をきちんと見たうえでそう思っているのかどうか、実は自信がない。
 しょうがないよね。私から見れば切なくなるくらい思い焦がれている片思いの相手でも、佐竹くんにとっての私はただのクラスメイトで、親しげに話をしたことなんてほとんどないんだから。
 私は、本当の彼のことは何も見えていないのかもしれない。それでも、今までに知ることのできた範囲で見てきた佐竹くんが好き。彼のことが好き。

「ねえ彩音、珍しいよね、佐竹がいるなんてさ」

 帰りのホームルームが終わって、当番制の掃除の時間。こういう時、だらしない女子生徒ややる気のない男子生徒は、よくて手を動かす振り、最悪の場合しれっといなくなってサボることがある。部活だ塾だ習い事だ、と言い訳をする人もいるけれど、放課後の予定があるのなんてみんな同じで、だから当番制なのになあ、って私はいつも思う。
 佐竹くんもどちらかというとそういうタイプで、たぶん予備校なんだろうけど、さっさと教室を出ていってしまって掃除をしている姿を見る方が少ない。それなのに、今日は普通に教室掃除をしていた。珍しいその姿に、友達の真理がひそひそと小声で興奮している。
 黙々と黒板の上やチョーク置き場を雑巾がけする佐竹くんの姿は、確かに珍しい。佐竹くん、雑巾さわれたんだ。どことなく潔癖症っぽいから、そういうの無理な感じがしてた――なんて、私は至極どうでもいいことを考えてしまう。一秒でも長く佐竹くんと同じ空間にいられる貴重な時間だというのに、もったいない。

「あ~話しかけたい! 彩音、一緒に付き合ってよ!」
「話しかけるぐらい一人でできるでしょ。クラスメイトなんだから」

 そりゃせっかくだから私だって話したいけど、掃除中にそんなあからさまなことはできない。一応真面目で模範的な生徒を自認している私は、掃除をきちんと終わらせたいという気持ちが強かった。

「は~、ほんと佐竹って、イイ造形してるよね~。芸能人とかになれそう」

 にやにやと佐竹くんを観察している真理に嘆息しつつ、私は彼女から箒を取り上げて教室を出る。廊下の突き当たりにある用具入れに、自分が持っていたちりとりとちりとり用の小さな箒、それから真理が持っていた大きな箒をしまう。
 この用具入れはすぐ隣が雑巾専用の流し場で、今もちょうど誰かが雑巾を洗い終わったらしかった。私はその背中を尻目に、ゴミ箱に設置する次のゴミ袋が必要なことを思い出し、用具入れの扉をもう一度開ける。その時、流し場をあとにした生徒と入れ替わりに、雑巾を片手にした佐竹くんがやって来た。

「あ、佐竹くん」
「なに?」

 なぜか私は、ほぼ条件反射的に彼の名前を呼んでいた。真理に嘆息しておきながら、私も佐竹くんと話をしたかったから、思わず呼びかけてしまったのだ。でも、私はすぐにそのことを後悔する。やたらと緊張して、うまく言葉がつなげられそうになかったからだ。

「あ……えっと……な、なんか、掃除してるの、珍しいなって」
「悪かったな、いつもサボりで」

 そっか。そういうつもりで言ったわけじゃないけど、普段はサボっているよねって責めているも同然の言い方だったか。ああ、へこむ。もう少し気遣いのあることを言えばよかった。

「ご、ごめんね。なんか嫌味な言い方だったね」
「お前はあれだな、いつも馬鹿真面目に掃除してるよな」
「え?」
「日暮が前に言ってた。千葉は真面目で、何度か注意されたって」

 日暮くんは、佐竹くんとよく一緒にいるバスケ部の男子だ。彼は典型的な面倒くさがりさんだけど、そういえばクラスが一緒だった一年生の時、ちゃんと掃除してよって何回か注意したことがある。だって掃除って、みんなで協力すれば早く終わるじゃない。誰かがサボるせいでだらだらと長引くんだから、部活なり塾なりに早く行きたければ掃除も早く終わらせればいいだけのことだ。
 でも、そう考えない人は自分だけがサボればいいと思っている。一年生の頃の私は、確かにそれを馬鹿真面目に注意していた。ああ、やだなあ。日暮くんみたいに注意されたことを憶えている人は口に出して言わないだけで、私のことを鬱陶しく思っているのかなあ。

「俺はお前みたいに真面目にやる方がいいと思うけどな。掃除なんて、さっさと手を動かして一秒でも早く終わらせた方が効率がいいに決まってる」

 佐竹くんはそう言って蛇口をひねり、水を止める。丁寧に雑巾をたたみ、細長くしてから両手でぎゅっと絞る。
 盗み見るようにしてその動作を見ていた私は、彼の言葉に喜んでいた。
 日暮くんほどじゃないけど、佐竹くんだってどちらかというと掃除をサボっている方だ。でも、いつも一方的に彼を見ているだけだった私を、たかが掃除のことだけど少しでも評価してもらえて、彼に認められた気がした。私はきっと佐竹くんの「本当」が見えていないし、そして佐竹くんもまた、私の「本当」は見えていない。でも、佐竹くんは私を見てくれていた。「本当」だけが大事なんじゃない。私が思っている以上に佐竹くんも私を――クラスメイトとしての私を、ちゃんと認識してくれていた。そう思えて、私は嬉しかった。

「そう思っているなら、サボらないでいつもこれくらい掃除してほしいなあ」
「それはそれ、だな。あいにく俺は多忙なんで」
「多忙って、予備校とか? あ、それとも彼女?」
「まあ、そんなところ」
「そう……そっか」

 ちょっと探るつもりで投げかけた質問の回答に、私は落胆する。
 彼女がいるんだね、佐竹くん。別に告白したわけじゃないけど、「好きな人にはほかに好きな人がいる」という事実に私は落ち込んでしまう。それも両思いの彼女だなんてまったく勝ち目がなくて、どうしたって小さな青い心はズキンと痛む。
 どんな人なんだろう。佐竹くんから好きだと言ってもらえる人は、いったい何を持っているのだろう。きっと私なんか比べ物にならないくらい佐竹くんに見合う、素敵な女の子なんだろうな。私はなんとなくそう思った。

「お前も彼氏の一人ぐらい作れば?」
「んー……好きな人ならいるんだけどね」
「そうか。それじゃお幸せにな」

 佐竹くんはそう言うと、きちんと絞られた雑巾を片手にさっと身をひるがえして教室へ戻ってしまった。私は、今のたった数分程度の会話がものすごく尊いものに感じられて、その余韻に浸りながら佐竹くんの背中を見つめた。

――そうか。

 そう言った佐竹くんの瞳が少し沈んでいたように見えた気がしたのは、ただの気のせい? たまたまそんな風に見えただけ?

(佐竹くん……)
  
 ああ、言ってしまえばよかった。私の好きな人は君だよ、って。
 教室に戻ったら、佐竹くんと真理が楽しげに話していた。私は無性に胸の奥がざわついて、今すぐにその場を立ち去りたかった。


     ◆◇◆◇◆


 千葉彩音という奴は、特別でもなんでもない、普通の同級生だ。成績がものすごくいいわけでもないし、運動神経が突出してるわけでもない。部活に所属していてそこで頑張っているわけでも、学校外の活動で素晴らしい実績があるわけでもない。本当に、なんでもない普通のクラスメイト。それなのに、なぜかとても心地いい空気を感じる。ほかの女子生徒に比べて感情の起伏がゆるやかで、おとなしいせいかもしれない。耳にうるさい声で興奮して騒ぎ立てることはなく、いつも真面目で落ち着いていて、思慮深そうな印象がある。人をよく見て考えすぎるあまりに、時折、言葉を呑み込んでしまっているようにも思う。
 そんな風に見えているが、俺と千葉の間に接点らしい接点はない。ただ同じクラスであるというだけで、それ以上でもそれ以下でもない。でもその距離感がいいのかもしれない。千葉に安らぎを感じるふとした瞬間が、好きなのかもしれない。

――んー……好きな人ならいるんだけどね。
――そうか。それじゃお幸せにな。

 少し前に、千葉とした会話。
 どちらかというとサボることの多い掃除当番だが、あの時は千葉と同じ班だったから、千葉の近くで和みたいとか思って、珍しく律儀にも掃除をしていた。そして、廊下で千葉と何気ない会話をした。千葉が放つゆるやかな雰囲気はその日も健在で、不思議な心地よさがそこにあった。けれど、千葉が言った一言に対して、俺の胸の中には拭き取れない汚れのような寂しさが残った。
 千葉から「彼女?」と訊かれて曖昧にごまかしたが、今の俺に付き合ってる相手はいない。むしろそう尋ねる千葉に対してこそ、恋愛感情を抱いていると思う。でも、千葉には好きな奴がいるらしい。告白して振られたわけではないが、千葉が誰かを特別に想っているのだと知り、なんとも言えないむなしさが胸の奥で波紋を作った。
 そうだよな、千葉は誰にも恋などしていないとどこか勝手に思っていたが、千葉も恋のひとつやふたつ、したっておかしくない。俺たち高校生の日常において恋愛は、週一の授業のようにわりと定期的に発生する身近なイベントだ。
 そんな会話をした以降も、毎日の学校生活の中でふと見つける千葉は落ち着いていて、何気ない振る舞いが上品だった。 その一挙一動を目で追いかけるだけで、心が休まる気がした。彼女が誰のことを特別に想っているのかはわからないが、せめて同じ教室にいる間だけは、彼女の周囲に感じる穏やかな空気に癒されたいと思った。



 水曜日の四時間目は、数年前から始まった「総合学習」というなんとも無駄に思える授業だ。森林破壊やら温暖化やら、環境問題についてグループごとで発表しろというこの授業で、偶然かそれとも何かの因果があってか、俺は千葉と同じ六人グループになった。
 発表するテーマを決めたのち、図書館にあるパソコンやら本やらで資料を探しつつ、有能な奴らが着々と発表の準備を進めているが、俺は基本的にノータッチだ。教師の目が向いた時だけ参加しているように見えればいい。進学に対して具体的に関係しないこういう曖昧な趣旨の授業は、掃除と同じでほどよくサボるにかぎる。
 そんな俺と違って、千葉は真面目に話し合いに参加しており、時には新しい意見を言ったり、あるいは書記役に回ったりしている。相変わらずなんでもないことのように思えるが、その律儀で細やかな気配りには感心する。
 そうしてなるべく気付かれないように千葉を観察していたが、その千葉がふと顔を上げた。そしてその瞬間、俺はばっちり千葉と目が合ってしまった。

「あっ……」
「なに?」
「う、ううん、なんでもない」

 正直目が合った瞬間は戸惑ったが、千葉が先に不自然な声を上げたので、俺の方は不自然でない態度をとることができた。
 千葉はすぐに俺から視線を外し、話し合いで決まったことを丁寧に自分のノートに書き連ねていく。俺は千葉から視線を外して、窓の外を見やった。
 恋愛は詰め将棋のようなものだと思う。ルールがあって、勝つ法則がある。それに則って王手をかけ、相手を手に入れれば試合終了。あっという間にゲームは終わる。
 でも、たとえばこんな風にただ見ているだけでなかなか距離を縮められなかったり、同じ空間にいるだけでほかには接点がなかったりするこの状況が妙に楽しいと思える恋愛もあるんだな。好き合えばそれで終わってしまうような感覚がないからだろうか。好きな奴がいると言った千葉の、その好きな奴は誰なんだろうとか、俺ではないんだろうかとか、勝手な憶測をしてはどうにでもなれそうな千葉との距離感を楽しんでいる自分がいる。
 そうだ、俺は千葉のことが好きだ。
 好きな奴がいると聞けば落ち込み、同じ空間に一緒にいられればこっそりと舞い上がる。そうした至極単純な、気持ちの変化。大きくもあり小さくもあるその変化の波に無防備に揺られている状況は、千葉を好きだからこそ生まれるものだ。
 そんなことを考えていた俺は、視界の端にぼんやりと視線を感じて、ゆっくりとそちらに視線をやった。見られていると思ってそちらを向いたのだが、俺を見ていたのは千葉で、でも俺が視線をそちらにやると視線が合う前に千葉はさっと顔ごと俺からそらした。
 自分の顔が悪くないことを自覚している俺は、女子から見られることには慣れている。今も授業中だというのに、ほかのグループにいる数名の女子からの視線が、いくつかこちらに向いている。この総合の授業は二クラス合同で行われるので、違うクラスの女子がせっかくの機会だと思って、俺を見ているのだろう。
 でもどうして、千葉とも視線が合うんだ。千葉も俺のことを見ているのか。それなら、それはなんでだ。何なんだよ。
 ふいにざわつく胸の中。
 別になんでもないはずだ。目が合いそうになることなんて、なんともない。
 俺と千葉はクラスメイト。そして、俺が千葉を気にしてるだけ。
 千葉も俺を気にしてるなんて――ないだろ、そんなこと。

「おい、千葉」
「えっあ、はいっ……なに?」

 それなのに俺は千葉を呼んでいた。何でもいいから、話をしたかった。この胸の中のざわつきを、どうにか鎮めたかった。

「いま、何が決まってるんだ?」
「え、えっと……」

 千葉は話し合いの内容をメモしていたノートを俺に向け、そして丁寧に説明する。

「環境問題として、騒音とか排気ガスとか、交通機関によって引き起こされることを中心に調べて発表しようかなってところだよ」
「ふーん……で?」

 千葉の説明を聞きながら、千葉の書いた字を眺める。千葉らしい、細くてまとまったきれいな字だ。

「家庭用自動車について調べるグループと、バスとか電車とかの公共交通機関について調べるグループに分かれて、それぞれ調べていく予定なんだけど……」

 千葉はちらりと違う方向を見る。そこには、リーダーを務めててきぱきと進行している千葉の女友達、山川の姿。

「ねえ真理、佐竹くんはどっちのグループ?」
「佐竹はどっちがいいとか、希望はないよね? 彩音と一緒に公共交通機関のグループってことでよろしく~。佐竹がサボっても、彩音がいれば最低限のことはできそうだから」

 山川がからかうように言うので、俺はへいへい、とおざなりに返事をした。

「じゃあ佐竹くんも、来週までになんでもいいから公共交通機関がもたらす環境問題について、調べてきてもらえる? 環境問題に配慮した取り組みとかでもいいよ」
「気が向いたらな」
「うん、あの……それで構わないのでお願いします」

 千葉は口元だけで小さく笑う。
 そう、結局こんなもんだ。俺は千葉が好きで、でも千葉にとって俺はただのクラスメイト。それでいい。視線なんて、ただの偶然だ。真面目にグループ活動をしない俺を咎めたい気持ちで見ていただけだろう。千葉はただ、千葉が想う奴を好きでいればいい。それが俺かもしれないなんて、期待する方が間違ってる。
 でも、「お願いします」と言って笑った千葉の顔が忘れられなくて、来週のこの時間を少し楽しみにしている俺がいた。
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