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第五話 売買契約

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「あれって…プロポーズ? なんて聞けないよ…聞ける訳ない」

 いつものように薬草を摘みながらブツブツと独り言を呟くとピタリと手を止めた。

「やっぱり冗談とか」

 眉間に皺を寄せ立ち上がる。

「でも、でもよ…タンドル先生に恋人って聞かれた時にカイトは、いつ恋人になってもいいって言っていたよね? そんな思わせ振りなこと冗談でも言う? 冗談でも言って良いことと悪いことがあるわ」

 胸元で握り締められたドクダミ草から独特の強い香りが漂い、ハッと我に返った。
 
 カイトからパータイルへの移住の話をされてからというものファビオラは彼のことばかり考えて赤くなったり青くなったりを繰り返す。
 彼の提案を受け入れたあの日、仕事が忙しくなるから暫く山小屋へは来られないと言ったカイトは、仕事行きたくないと愚痴をこぼしながら泣きそうな顔で帰って行った。

「カイトったら、いつ帰って来るの?」

 カイトがいなくなってから一週間、ファビオラの感情は激しく乱高下を繰り返し、最後には決まって長い溜息をつくと今日も答えが出ないまま一日が終わる。

「暫くってどのくらいなのよ…」

 更に二週間経ったがカイトは姿を見せない。
 あんなことを言われた後で会えない時間が長くなれば会いたいと思う感情は不安と共に大きくなるばかりだ。

 しかし、会えない間ファビオラもカイトのことしか考えなかった訳ではない。勿論カイトに係わることだけれども、パータイルでの生活の資金の為に子爵家の貴族の称号を売ろうと考え始めていた。

 貴族ばかりが裕福な生活をしていると思われがちだが、一部には跡継ぎがいないことや領地経営が上手くいかず貴族の称号を売ってしまう者もいる。買うのは商家を営む裕福な資産家や実業家で、富を得れば次に欲しくなるのは地位という訳だ。

 領地もなくなったロダング子爵家の称号をいつまでも持っていても意味はない。これから先、自分が一人でロダング子爵家の再建を望むこともない。
 先祖代々守って来たものを自分の代で終わらせるのは心苦しいが、パータイルで暮らすのに貴族の称号など必要ないのだ。新しい生活に向けて舵を切ったファビオラには貴族の称号に対する未練は残っていなかった。

『カイトと結婚したら私はどうせ平民になるのだから。今、失っても構わない。今後の生活の為に少しでもお金になり役立てられるのなら売ってしまう方がいいわ』

 頭の中に浮かんだ自分の言葉に口元を押さえて俯く。

「私ってば、当たり前のようにカイトのお嫁さんになれるなんて…」

 カイトの言葉の真意を考えては悶々としていたのに、ファビオラの気持ちはとうに決まっていた。



 数日後、この町で一番大きな建物の前に立つファビオラの姿があった。

 ゴードン商会と書かれた看板を見つめグッと拳を握ると覚悟を決め商会の扉を開けた。
 
 ゴードン商会はゴードン・カンクという男が立ち上げ、一代で財を成した商会で、この町の実権を握っているのは事実上この男だ。

 ファビオラが邸宅で子爵令嬢として暮らしていた時にも、この男は何度か邸宅を訪れていた。子爵家の家具やドレス、装飾品に至るまでこの男が買い取ったからだ。

 そして、父である子爵が亡くなった時には子爵家の称号を買い取りたいと言い出したのは、この男の方からだった。その時は断ったのだから、今更買ってくれるかはわからない。でも、貴族の称号を欲しいと思っていたのは事実だ。

 受付でロダング子爵家のファビオラだと名乗り社長に会いたいと伝えた。敢えて子爵令嬢であると名乗ることで、どうにか会ってもらおうと必死だった。門前払いされることだけはしたくない。何とか話を聞いてもらわなければ。

 硬い表情のファビオラとは対照的に受付の若い女性は感情の読み取れない微笑みで待つように言うと廊下の奥の部屋へと入って行った。

 暫くしてファビオラはこの建物の中で一番豪華であろう部屋へと通され、ゴードンと対峙していた。
 
 小太りで丸顔の中年の男は脂ぎった顔に笑顔を浮かべファビオラに紅茶を勧める。

「お久しぶりでございます。ファビオラ様。さて…今日はどのようはご用件で?」

 ファビオラは背筋を伸ばし美しい姿勢で座ったまま真っ直ぐゴードンを見た。
 
 ここに来たこと自体、今までの自分だったら到底出来なかっただろう。パータイルでの新たな生活に向かって突き進むパワーが今の自分を支えている。ここで怖気づいてはいられない。ファビオラは腹に力を入れた。

「お忙しいでしょうに約束もなく伺ったご無礼をお許しください。今日伺ったのは…以前ゴードンさんが買い取りを希望されていた子爵家の貴族の称号についてです。ロダング子爵家の子爵の称号を売ろうと考えています」
「ほほう…それは、それは」

 ゴードンの目の奥が光った。

「しかし、いきなりのお話で少々戸惑っております。そう思うに至った経緯をお伺いしても?」

 この男を信頼してはいない。カイトのことや隣国パータイルへの移住についても伏せておいた方が良いだろう。ファビオラは儚げな貴族令嬢を演じ寂し気に微笑む。

「領地も無くし、一人きりの私が貴族の称号を持っていても何の役にも立ちません。欲しいという方に買い取っていただくのが一番だと思えるようになりました」
「賢明なご判断だと思いますよ。まだ若いファビオラ様が一人で背負われるのは大変でしょうから」

 ゴードンは胸の前で腕を組み考える素振りを見せた。
 そして、掲示してきた額にファビオラは露骨に表情を曇らせた。

「父が亡くなった際に掲示していただいた金額とは大分開きがあるようですが…」

 安すぎる。
 桁が一つ違う。

「そうですねぇ。あれから二年経過しているでしょう? 同じ金額とはいきませんよ。物の価値とは買う方が見出すものですからね。今の私にとってはこのくらいかと」
「それにしても、下がり過ぎではありませんか?」

 なくても良いと思った貴族の称号だが掲示された金額で売ることには迷いが生じた。
 ファビオラは動揺したが、顔に出さないように平静を装う。

「こちらから伺っておきながら申し訳ありませんが、少し考えさせていただけませんか」

 この場で決断することが良策ではないと考えた。一度持ち帰ろうと思い立ち上がろうとすると、男の声がそれを引き留めた。

「ファビオラ様。金額にご納得いただけなかったのは残念ですが、私からもっと良い提案がございます」

 ゴードンは肉に埋もれた細い目を更に細めた。

「私にも一人息子がおりまして、いずれは息子にこの商会を継がせようと考えております。ファビオラ様とも何度かお会いしている筈ですが。覚えていらっしゃいますか?」
「ええ、確か…テリアスさんと仰いましたね」

 年齢はファビオラの一つ上の青年で、ゴードンが子爵邸に宝飾品を買い取りに来た際に一緒に来ていたのを思い出した。彼の無遠慮に邸宅内を見て回る姿に品の無い姿や、ファビオラに向けられる、にやけた視線に何とも言えない嫌悪感を抱いていた。

「息子テリアスと結婚をなさってはいかがでしょう? ファビオラ様とテリアスは歳の頃合いも丁度良い。そうなれば、私とて舅として恥ずかしくない金銭的支援が充分に出来るというもの。ロダング子爵家の再建をする最も良い方法と考えます。ファビオラ様にとっても悪い話ではない筈です」

 やはり、百戦錬磨の古狸。
 ファビオラは想像を超える提案に動揺しながらも顔には微笑みを湛えていた。

「有難い提案ではありますが…私にはロダング子爵家再建の意思はありません」

 金銭を支払わずとも息子テリアスがファビオラと結婚すれば簡単に全てが手に入る。
 
 この男の目的は直ぐにわかった。

 ファビオラ自身がロダング子爵家の再建を強く望み、想い人がいなかったのなら好きでもないテリアスとも嫌々結婚していたかもしれない。

 しかし、今、ファビオラの心の中にはカイトがいる。彼以外との結婚なんて考えられない。ましてや自身が嫌悪感を抱く男となんて、まっぴらごめんだ。

「今後のファビオラ様にとって大事な決断の筈ですよ。爵位を手放す前にもう一度考えられてはいかがですか?」
「結婚は考えられません…」
「まさか、心に決めたお相手でもおありですか?」
「まさか…そんな」

 言葉を濁らせたが、このままのらりくらりと断り続ける自信もない。カイトの素性は話さずとも相手がいるという事実があれば断るのには充分だ。

 ファビオラは顔を上げた。

「実は…お察しのとおり、私には結婚を約束した方がおります。ですので、身に余るお話ではありますが…テリアスさんとの話はお断りさせていただきます」

ハッキリと断るファビオラの言葉に、ゴードンの口元は酷く歪んでいた。


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