2 / 15
第二話 彼の名前
しおりを挟むファビオラの住む山小屋に残されていたのは僅かな家具と、本棚に置かれていた数冊の本だけだった。その中に薬草の専門書があったことで、今では森で採取した薬草を売り、どうにか暮らしていた。
薬草の唯一の販売先はタンドル診療所だ。
ここフロラス町には竜を専門に診る診療所が一つだけあり、その診療所を営むのがタンドル医師だ。彼はファビオラが幼い時に邸宅内で飼っていた竜の主治医だった。
一人きりになった自分を不憫に思い薬草を買ってくれる先生には感謝しかない。厚意に甘えて今は貧しいながらも飢え死にせずにいられるのだから。
「今日はいつもより種類も多くて大変だったでしょう?」
「いいえ。こんなにご注文をいただけて嬉しいくらいです」
背負っていた袋を降ろし中から生の薬草と、乾燥させた薬草を取り出し並べていく。
「あれ? ナルコユリがないな…」
「え!? ああ! ごめんなさい…うっかりしてしまいました」
「ストックが少なくなっていてね。明日、持ってきてもらうことは可能ですか?」
ナルコユリは滋養強壮の効能を持つ薬草だ。多用される薬草なので診療所でもストックを切らすことはしたくないだろう。
「申し訳ありません。明日、必ずお持ちします」
頭を下げ診療所を後にする。
ミスをした原因はファビオラ自身が一番良くわかっていた。
「なに浮かれているのよ。唯一の収入源なのに、しっかりしなくちゃ」
考えるのは、竜と竜の飼い主のことばかりだった。竜とその飼い主と出会った翌日から、ファビオラは毎日泉へ足を運んでいたのだ。
父母が亡くなって二年間、人と会話らしい会話をしたことがなかった。時々、自分の声の出しかたも忘れてしまうくらい一人きりの生活だった。
ファビオラは人と交流を持つことに飢えていた。人でも竜でも自分に負の感情を向けずに目の前にいてくれる。ただ、それだけの存在に焦がれていた。
泉に行くことは、もはや彼女の日課のようになっていた。
気温も上がり額に浮かぶ玉のような汗を拭う。喉は既にカラカラで泉の冷たい水を体が欲していた。おぼつかない足取りでどうにか辿り着くと目眩と同時に目の前が真っ暗になりファビオラは意識を手放した。
唇に柔らかなものが押しつけられるような感触。それと同時に冷たい水が口内に侵入し喉に落ちた。
柔らかな感触と喉を流れるひんやりとした心地良さに、閉じた瞼が僅かに震える。
冷たくて気持ちいい。
顔や首の辺りもひやりと冷たい。
心地よさに薄っすらと目を開けると、ぼやけた視界に心配そうにこちらを覗き込む青年の顔がある。
「…っ」
言葉に出したくとも喉からは掠れるような息が漏れただけだった。
「大丈夫か!?」
ファビオラは青年の腕の中にいた。
彼の心配そうな顔が近づいてくると、また柔らかな感触とひやりと冷たい水が喉を下りていく。青年は黙ったまま何度もそれを繰り返しファビオラに水を飲ませた。
ぼんやりとしていた意識と視界が徐々にはっきりとしてくる。目の前に迫った彼の濡れた黒い瞳がゆっくりと閉じる。そして自分の唇に与えられた柔らかな感触が彼の唇だと気付いた瞬間目を見開いた。
「ああ、少し顔色が良くなった。もう少し飲む?」
「…あ、あの。これって…キ」
真っ赤になるファビオラを見て青年はつられるように耳まで真っ赤になった。
「あ! あ、あの。ごめん、とにかく水を飲ませなきゃって。その、えっと無我夢中で…ごめん」
熟れたトマトのように赤くなって俯く青年と、その腕に抱かれたまま戸惑い視線を泳がすファビオラは互いに無言になる。
こんなに真っ赤になっている青年に邪な心があったようには思えないし、自分を助けようと無我夢中になっていたというのは本当だろう。
沈黙を破ったのはファビオラだった。
「あの…助けてくれて、ありがとうございます」
やっと赤みが引いてきた困り顔の青年に聞いた。
「ずっと聞きたいと思っていたのです…あの、あなたの名前は?」
青年は一瞬ポカンとした顔をしたかと思うと、次の瞬間顔を綻ばせた。
黒目がちの潤んだ瞳にはあどけなさが残り、陽に焼けた肌に白い歯をこぼして笑う彼に無意識に見惚れていた。
「カイト。俺の名前はカイト」
「カイト…」
「うん。君の名前は?」
「…ファビオラ」
自分の名前を言うと何故か涙が頬を伝った。名前を人に聞かれるなんて何年振りだろうか。
「え、どうした!? どこか痛い? 怪我はしてないよな」
「ごめん、なんでもないの。今日は会えて良かった。」
「今日は、って。もしかして毎日ここに来ていたの? 無茶するなよ。あんた、こんな細くて体力にも限界ってものがあるんだからさ」
カイトは心配顔を崩すと今度は呆れ顔になった。
「体の中の熱を冷まさないといけないな」
そう言うと、また濡れた布を首に巻き直してくれた。
その冷たさが心地よい。
「涼しい場所で休んだ方が良い。家まで送るよ。ブラウ!」
ブラウが心得たように体を低くする。カイトはファビオラを抱き上げブラウに跨ると風を巻き起こして一気に宙に浮いた。さっきまでいた場所が眼下に小さく見える。
「この山に家って…あ、あの建物かな」
カイトが指さす方を見下ろすと小さな山小屋が見える。
「そう、あの山小屋よ」
「オッケー。ブラウ頼んだぞ」
キュイっと可愛いく鳴き、山小屋を目指してブラウはゆっくりと下降していった。
土埃を舞い上げながら静かに着地したブラウは背に乗る二人を振り返る。
「カイトさん、ありがとうございます。送ってもらえて助かりました」
「カイトでいいよ」
カイトはブラウの背中からファビオラを横抱きのまま飛び降りると、そのまま歩き出す。
「カイトさん、大丈夫です! 歩けますから降ろしてください」
「無理無理、大人しくしていてよ。それと、カイトでいいってば」
カイトは部屋の隅の置かれたベッドにファビオラを寝かせた。
「一人で住んでいるの?」
「二年前に両親とも亡くなって。今は一人なの」
「…そっか」
カイトは気まずそうに頭を掻く。
「まぁ…一緒だな。俺も両親を亡くしている。でも兄貴が二人と叔父夫婦もいて、皆に育てられたようなものだ」
「兄弟がいるって素敵。お兄さんが二人もいるなんて心強い存在でしょうね」
「心強いかもしれないけどさ。恐い兄貴が二人もいるんだぜ。いつまでも子ども扱いされるし口煩いし」
臭いものを近づけられたように鼻に皺を寄せ嫌な顔をするカイトが妙に子供っぽくて、つい笑いが漏れる。
「カイトって何歳なの?」
自分と同じくらいかと思い軽い気持ちで聞いた。
「十五」
「へっ?」
カイトは長身で手足の長い均整の取れた体躯だ。筋肉が程よくついているのが服の上からも充分に分かった。その体躯から自分と同じくらいの年齢だと予想していたファビオラは面食らい目を瞬かせた。
「カイトって私より年下なの!?」
「そんなに驚く? そう言うファビオラは何歳なのさ」
「…十八よ」
「俺の三歳上か。同じくらいかと思っていたのに。童顔だね」
カイトは台所の水瓶からコップに水を汲みファビオラに渡すと、徐に腰につけた巾着から茶紙に包みを取り出した。包みの中にはドライフルーツが入っていた。
「檸檬を干して塩をまぶしたものなんだ。保存食として優秀。疲れた時とか沢山汗をかいた時には特にね」
カイトはそれを指で摘まむとファビオラの口の前まで持っていく。条件反射のように口を開けると口の中に放り込まれた。
しょっぱい! ギュッと目を瞑ると次に強い酸味が口の中に広がり口を窄めた。
「んっ!」
カイトは酸っぱさのあまり身悶えるファビオラを見て悪戯が成功した子供のように嬉しそうに笑う。
「しょっぱくて凄く酸っぱいだろ? これが効くのさ」
ファビオラは手に持っていたコップの水を一気に飲み干し、小さく息を吐くと意識が覚醒したかのようにすっきりとした。
結局、カイトは遠慮するファビオラにあれこれ世話を焼き夕食まで作り終えた。
程なくして外から大きな羽音と、ピーピリュリュと鳥の鳴く声が聞こえる。途端にカイトは焦り始め、仕事を思い出したと慌ただしく帰って行った。
0
お気に入りに追加
228
あなたにおすすめの小説
最悪なお見合いと、執念の再会
当麻月菜
恋愛
伯爵令嬢のリシャーナ・エデュスは学生時代に、隣国の第七王子ガルドシア・フェ・エデュアーレから告白された。
しかし彼は留学期間限定の火遊び相手を求めていただけ。つまり、真剣に悩んだあの頃の自分は黒歴史。抹消したい過去だった。
それから一年後。リシャーナはお見合いをすることになった。
相手はエルディック・アラド。侯爵家の嫡男であり、かつてリシャーナに告白をしたクズ王子のお目付け役で、黒歴史を知るただ一人の人。
最低最悪なお見合い。でも、もう片方は執念の再会ーーの始まり始まり。
命を狙われたお飾り妃の最後の願い
幌あきら
恋愛
【異世界恋愛・ざまぁ系・ハピエン】
重要な式典の真っ最中、いきなりシャンデリアが落ちた――。狙われたのは王妃イベリナ。
イベリナ妃の命を狙ったのは、国王の愛人ジャスミンだった。
短め連載・完結まで予約済みです。設定ゆるいです。
『ベビ待ち』の女性の心情がでてきます。『逆マタハラ』などの表現もあります。苦手な方はお控えください、すみません。
軽い気持ちで超絶美少年(ヤンデレ)に告白したら
夕立悠理
恋愛
容姿平凡、頭脳平凡、なリノアにはひとつだけ、普通とちがうところがある。
それは極度の面食いということ。
そんなリノアは冷徹と名高い公爵子息(イケメン)に嫁ぐことに。
「初夜放置? ぜーんぜん、問題ないわ!
だって旦那さまってば顔がいいもの!!!」
朝食をたまに一緒にとるだけで、満足だ。寝室別でも、他の女の香水の香りがしてもぜーんぜん平気。……なーんて、思っていたら、旦那さまの様子がおかしい?
「他の誰でもない君が! 僕がいいっていったんだ。……そうでしょ?」
あれ、旦那さまってば、どうして手錠をお持ちなのでしょうか?
それをわたしにつける??
じょ、冗談ですよね──!?!?
【完結】貴方を愛するつもりはないは 私から
Mimi
恋愛
結婚初夜、旦那様は仰いました。
「君とは白い結婚だ!」
その後、
「お前を愛するつもりはない」と、
続けられるのかと私は思っていたのですが…。
16歳の幼妻と7歳年上23歳の旦那様のお話です。
メインは旦那様です。
1話1000字くらいで短めです。
『俺はずっと片想いを続けるだけ』を引き続き
お読みいただけますようお願い致します。
(1ヶ月後のお話になります)
注意
貴族階級のお話ですが、言葉使いが…です。
許せない御方いらっしゃると思います。
申し訳ありません🙇💦💦
見逃していただけますと幸いです。
R15 保険です。
また、好物で書きました。
短いので軽く読めます。
どうぞよろしくお願い致します!
*『俺はずっと片想いを続けるだけ』の
タイトルでベリーズカフェ様にも公開しています
(若干の加筆改訂あります)
【完結】伯爵の愛は狂い咲く
白雨 音
恋愛
十八歳になったアリシアは、兄の友人男爵子息のエリックに告白され、婚約した。
実家の商家を手伝い、友人にも恵まれ、アリシアの人生は充実し、順風満帆だった。
だが、町のカーニバルの夜、それを脅かす出来事が起こった。
仮面の男が「見つけた、エリーズ!」と、アリシアに熱く口付けたのだ!
そこから、アリシアの運命の歯車は狂い始めていく。
両親からエリックとの婚約を解消し、年の離れた伯爵に嫁ぐ様に勧められてしまう。
「結婚は愛した人とします!」と抗うアリシアだが、運命は彼女を嘲笑い、
その渦に巻き込んでいくのだった…
アリシアを恋人の生まれ変わりと信じる伯爵の執愛。
異世界恋愛、短編:本編(アリシア視点)前日譚(ユーグ視点)
《完結しました》
愛すべきマリア
志波 連
恋愛
幼い頃に婚約し、定期的な交流は続けていたものの、互いにこの結婚の意味をよく理解していたため、つかず離れずの穏やかな関係を築いていた。
学園を卒業し、第一王子妃教育も終えたマリアが留学から戻った兄と一緒に参加した夜会で、令嬢たちに囲まれた。
家柄も美貌も優秀さも全て揃っているマリアに嫉妬したレイラに指示された女たちは、彼女に嫌味の礫を投げつける。
早めに帰ろうという兄が呼んでいると知らせを受けたマリアが発見されたのは、王族の居住区に近い階段の下だった。
頭から血を流し、意識を失っている状態のマリアはすぐさま医務室に運ばれるが、意識が戻ることは無かった。
その日から十日、やっと目を覚ましたマリアは精神年齢が大幅に退行し、言葉遣いも仕草も全て三歳児と同レベルになっていたのだ。
体は16歳で心は3歳となってしまったマリアのためにと、兄が婚約の辞退を申し出た。
しかし、初めから結婚に重きを置いていなかった皇太子が「面倒だからこのまま結婚する」と言いだし、予定通りマリアは婚姻式に臨むことになった。
他サイトでも掲載しています。
表紙は写真ACより転載しました。
【R18】愛するつもりはないと言われましても
レイラ
恋愛
「悪いが君を愛するつもりはない」結婚式の直後、馬車の中でそう告げられてしまった妻のミラベル。そんなことを言われましても、わたくしはしゅきぴのために頑張りますわ!年上の旦那様を籠絡すべく策を巡らせるが、夫のグレンには誰にも言えない秘密があって─?
※この作品は、個人企画『女の子だって溺愛企画』参加作品です。
※ムーンライトノベルズにも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる