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第二話 彼の名前

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 ファビオラの住む山小屋に残されていたのは僅かな家具と、本棚に置かれていた数冊の本だけだった。その中に薬草の専門書があったことで、今では森で採取した薬草を売り、どうにか暮らしていた。

 薬草の唯一の販売先はタンドル診療所だ。
 ここフロラス町には竜を専門に診る診療所が一つだけあり、その診療所を営むのがタンドル医師だ。彼はファビオラが幼い時に邸宅内で飼っていた竜の主治医だった。

 一人きりになった自分を不憫に思い薬草を買ってくれる先生には感謝しかない。厚意に甘えて今は貧しいながらも飢え死にせずにいられるのだから。

「今日はいつもより種類も多くて大変だったでしょう?」
「いいえ。こんなにご注文をいただけて嬉しいくらいです」

 背負っていた袋を降ろし中から生の薬草と、乾燥させた薬草を取り出し並べていく。

「あれ? ナルコユリがないな…」
「え!? ああ! ごめんなさい…うっかりしてしまいました」
「ストックが少なくなっていてね。明日、持ってきてもらうことは可能ですか?」

 ナルコユリは滋養強壮の効能を持つ薬草だ。多用される薬草なので診療所でもストックを切らすことはしたくないだろう。

「申し訳ありません。明日、必ずお持ちします」

 頭を下げ診療所を後にする。
 
 ミスをした原因はファビオラ自身が一番良くわかっていた。

「なに浮かれているのよ。唯一の収入源なのに、しっかりしなくちゃ」

 考えるのは、竜と竜の飼い主のことばかりだった。竜とその飼い主と出会った翌日から、ファビオラは毎日泉へ足を運んでいたのだ。

 父母が亡くなって二年間、人と会話らしい会話をしたことがなかった。時々、自分の声の出しかたも忘れてしまうくらい一人きりの生活だった。

 ファビオラは人と交流を持つことに飢えていた。人でも竜でも自分に負の感情を向けずに目の前にいてくれる。ただ、それだけの存在に焦がれていた。

 泉に行くことは、もはや彼女の日課のようになっていた。
 気温も上がり額に浮かぶ玉のような汗を拭う。喉は既にカラカラで泉の冷たい水を体が欲していた。おぼつかない足取りでどうにか辿り着くと目眩と同時に目の前が真っ暗になりファビオラは意識を手放した。


 唇に柔らかなものが押しつけられるような感触。それと同時に冷たい水が口内に侵入し喉に落ちた。
 柔らかな感触と喉を流れるひんやりとした心地良さに、閉じた瞼が僅かに震える。

 冷たくて気持ちいい。

 顔や首の辺りもひやりと冷たい。
 心地よさに薄っすらと目を開けると、ぼやけた視界に心配そうにこちらを覗き込む青年の顔がある。

「…っ」

 言葉に出したくとも喉からは掠れるような息が漏れただけだった。

「大丈夫か!?」

 ファビオラは青年の腕の中にいた。
 彼の心配そうな顔が近づいてくると、また柔らかな感触とひやりと冷たい水が喉を下りていく。青年は黙ったまま何度もそれを繰り返しファビオラに水を飲ませた。

 ぼんやりとしていた意識と視界が徐々にはっきりとしてくる。目の前に迫った彼の濡れた黒い瞳がゆっくりと閉じる。そして自分の唇に与えられた柔らかな感触が彼の唇だと気付いた瞬間目を見開いた。

「ああ、少し顔色が良くなった。もう少し飲む?」
「…あ、あの。これって…キ」

 真っ赤になるファビオラを見て青年はつられるように耳まで真っ赤になった。

「あ! あ、あの。ごめん、とにかく水を飲ませなきゃって。その、えっと無我夢中で…ごめん」

 熟れたトマトのように赤くなって俯く青年と、その腕に抱かれたまま戸惑い視線を泳がすファビオラは互いに無言になる。

 こんなに真っ赤になっている青年に邪な心があったようには思えないし、自分を助けようと無我夢中になっていたというのは本当だろう。
 沈黙を破ったのはファビオラだった。

「あの…助けてくれて、ありがとうございます」

 やっと赤みが引いてきた困り顔の青年に聞いた。

「ずっと聞きたいと思っていたのです…あの、あなたの名前は?」

 青年は一瞬ポカンとした顔をしたかと思うと、次の瞬間顔を綻ばせた。
 黒目がちの潤んだ瞳にはあどけなさが残り、陽に焼けた肌に白い歯をこぼして笑う彼に無意識に見惚れていた。

「カイト。俺の名前はカイト」
「カイト…」
「うん。君の名前は?」
「…ファビオラ」

 自分の名前を言うと何故か涙が頬を伝った。名前を人に聞かれるなんて何年振りだろうか。

「え、どうした!? どこか痛い? 怪我はしてないよな」
「ごめん、なんでもないの。今日は会えて良かった。」
「今日は、って。もしかして毎日ここに来ていたの? 無茶するなよ。あんた、こんな細くて体力にも限界ってものがあるんだからさ」

 カイトは心配顔を崩すと今度は呆れ顔になった。

「体の中の熱を冷まさないといけないな」

 そう言うと、また濡れた布を首に巻き直してくれた。
 その冷たさが心地よい。

「涼しい場所で休んだ方が良い。家まで送るよ。ブラウ!」

 ブラウが心得たように体を低くする。カイトはファビオラを抱き上げブラウに跨ると風を巻き起こして一気に宙に浮いた。さっきまでいた場所が眼下に小さく見える。

「この山に家って…あ、あの建物かな」

 カイトが指さす方を見下ろすと小さな山小屋が見える。

「そう、あの山小屋よ」
「オッケー。ブラウ頼んだぞ」

 キュイっと可愛いく鳴き、山小屋を目指してブラウはゆっくりと下降していった。
 土埃を舞い上げながら静かに着地したブラウは背に乗る二人を振り返る。

「カイトさん、ありがとうございます。送ってもらえて助かりました」
「カイトでいいよ」

 カイトはブラウの背中からファビオラを横抱きのまま飛び降りると、そのまま歩き出す。

「カイトさん、大丈夫です! 歩けますから降ろしてください」
「無理無理、大人しくしていてよ。それと、カイトでいいってば」

 カイトは部屋の隅の置かれたベッドにファビオラを寝かせた。

「一人で住んでいるの?」
「二年前に両親とも亡くなって。今は一人なの」
「…そっか」

 カイトは気まずそうに頭を掻く。

「まぁ…一緒だな。俺も両親を亡くしている。でも兄貴が二人と叔父夫婦もいて、皆に育てられたようなものだ」
「兄弟がいるって素敵。お兄さんが二人もいるなんて心強い存在でしょうね」
「心強いかもしれないけどさ。恐い兄貴が二人もいるんだぜ。いつまでも子ども扱いされるし口煩いし」

 臭いものを近づけられたように鼻に皺を寄せ嫌な顔をするカイトが妙に子供っぽくて、つい笑いが漏れる。

「カイトって何歳なの?」

 自分と同じくらいかと思い軽い気持ちで聞いた。

「十五」
「へっ?」

 カイトは長身で手足の長い均整の取れた体躯だ。筋肉が程よくついているのが服の上からも充分に分かった。その体躯から自分と同じくらいの年齢だと予想していたファビオラは面食らい目を瞬かせた。

「カイトって私より年下なの!?」
「そんなに驚く? そう言うファビオラは何歳なのさ」
「…十八よ」
「俺の三歳上か。同じくらいかと思っていたのに。童顔だね」

 カイトは台所の水瓶からコップに水を汲みファビオラに渡すと、徐に腰につけた巾着から茶紙に包みを取り出した。包みの中にはドライフルーツが入っていた。

「檸檬を干して塩をまぶしたものなんだ。保存食として優秀。疲れた時とか沢山汗をかいた時には特にね」

 カイトはそれを指で摘まむとファビオラの口の前まで持っていく。条件反射のように口を開けると口の中に放り込まれた。

 しょっぱい! ギュッと目を瞑ると次に強い酸味が口の中に広がり口を窄めた。

「んっ!」

 カイトは酸っぱさのあまり身悶えるファビオラを見て悪戯が成功した子供のように嬉しそうに笑う。

「しょっぱくて凄く酸っぱいだろ? これが効くのさ」

 ファビオラは手に持っていたコップの水を一気に飲み干し、小さく息を吐くと意識が覚醒したかのようにすっきりとした。

 結局、カイトは遠慮するファビオラにあれこれ世話を焼き夕食まで作り終えた。

 程なくして外から大きな羽音と、ピーピリュリュと鳥の鳴く声が聞こえる。途端にカイトは焦り始め、仕事を思い出したと慌ただしく帰って行った。



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