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優しい夫
しおりを挟む暖かな室内、身体を動かそうとしても鉛のように重く動かない。
ぼやけた視界の中、視線だけを左右に動かす。
「エメリ!」
顔を覗き込む男は涙目だ。
声を発しようとするが掠れた音にしかならず言葉にならない。
男は体を支え起こすと水を飲ませてくれた。
口に含み喉を通る時のひんやりとした心地よさに目を細める。
そして、私を呼ぶ男になんて返そうかと思って、ふと…自分の名前が出てこないことに気が付いた。
思い出せない…自分の名前…。
何一つ自分に関することが思い出せない…自分が何者なのかも。
混乱し取り乱す私に、寄り添ってくれたのはマルセルと名乗る男だった。
そして医師から伝えられた現実は私を奈落の底に突き落とした。
私の記憶が失われている今の状態が一過性のものなのか、そうでないのかもわからないという現状。
そして私が妊娠しているという事実。
自分が何者であるのかもわからないのに妊娠しているなんて……再び混乱し泣き叫ぶ私を男はずっと抱きしめてくれた。
男は記憶のない私に説明するタイミングを見計らってくれていたようだ。
漸く落ち着きを取り戻した私に、私達が土砂崩れに巻き込まれたのだと話してくれた。
私と…この男を乗せた馬車が進む山中で、大雨により大規模な土砂崩れが起こった。
土砂崩れに巻き込まれたとはいえ端であったのが幸いし、馬車の後輪が土砂にさらわれ横転はしたものの土砂に飲み込まれることはなかった。
ほんの少し遅かったら馬車は崖下に落ちていただろうと言う。現に二人が乗った馬車の後を走っていた馬車は丸ごと土砂に飲み込まれたそうだ。
私達は横転する馬車から投げ出されたものの、土砂に埋まることもなく難を逃れたのだ。
大雨で起きた土砂崩れにより、この小さな町への唯一の道が分断され再び通れるようになるまで数週間はかかるようだった。
事故後、一番近くにあった診療所に運ばれ二日間眠ったままだったとも聞かされた。
「君と僕は同じ学校に通う同級生で幼馴染だった。事故にあった日は二人でカイルイ王国に向かっている途中で……どうして君が僕と一緒にカイルイ王国に向かっていたかについても話さないといけないね……実は君の夫が…」
漸く、一緒に馬車に乗っていた経緯を伝えようと口を開いた。
だが開いた口から突いて出たのは本人でさえも驚く言葉だった。
「………君の夫は僕だ。君は結婚している……僕と。お腹の中の子は僕達の子供だ」
同じ馬車に乗り事故にあったマルセルという男は、私の夫でありバイオリニストだという。
骨折した腕を首から白い布で吊り下げながら骨さえくっつけばバイオリンを弾くのに支障はないと言い、ただリハビリは必要だけどねと苦笑いする。
バイオリニストが腕を折るなんて本当なら大変なことの筈なのに…私に心配をかけたくないという思いが伝わってくる。
私は、この優しい男を信頼しようと思った。
もとより記憶がないのだから、そうするしかないのだが。
彼は錯乱状態になる私に名前で呼びかけてくれていたが、混乱した思考の中で何と呼ばれていたもわからなかった。
改めて男に向き直ると聞いた。
「私…名前……私の名前は?」
「…エ…エリーだよ」
「……エリー?」
全くピンとこなくて表情が曇る。
記憶がないのだ、しっくりとこなくとも夫だと名乗るこの男の言葉を信じ受け入れるしかなかった。
二人はカイルイ王国の王都に小さな庭付きの家を借り静かに暮らし始めた。
マルセルは有名なバイオリニストのようで、貯えがあるからと数ヶ月の間エメリと共に静かで穏やかな時間を過ごした。記憶のないエメリは、夫と名乗り自分を良く知る人物と過ごすことで徐々に不安が薄らいでいった。
そして現在の二人の生活と、彼が教えてくれた過去を受け入れつつあった。
半年が過ぎる頃、マルセルはリハビリがてら貴族たちのバイオリンの指南を請け負うようになっていた。
日中は通いで使用人が来てくれていたのでマルセルがいなくとも妊娠中のエリーも安心して過ごせた。
優しい夫とお腹の中に宿る愛すべき小さな命。
庭に置かれたベンチに座り二人は和やかにお茶を飲んでいた。
マルセルは咳払いすると、徐に胸元のポケットから小さな箱を取り出し彼女の前に跪いた。
目の前で開けられた箱の中には彼の瞳の色を思わせるサファイアの指輪が輝く。
「好きだ。エリー…子供の頃から君は僕にとっては眩しい存在で…それは大人になった今でも変わらない。僕の音楽の根本には君と過ごしたあの音楽室の日々があるんだ」
呼吸を忘れて彼の濃紺の瞳を見つめた。
木漏れ日が彼の瞳に差し込み美しい本物のサファイアのように輝いて見えた。
記憶のないエリーは男性から愛の告白をされるのは初めてだ。
フフフッと笑う。
「マルセルったら、夫婦なのにいきなり愛の告白みたいなのってどうなの?」
「……だって、君の記憶にないならもう一度やり直さなくちゃと思ってさ」
「妻に愛の告白なんて変だし…恥ずかしいけれど…でも…嬉しい」
はにかみ頬を赤く染めたエリーだが胸の奥がチクリと痛むのがわかった。
また…なんだろう?
首を傾げる。
「でも、愛の誓いの指輪ならもう貰っているのに」
左手の薬指にずっと嵌めている金の結婚指輪を見せた。
マルセルは一瞬視線を落とし、またエリーに向き直るといつもの優しい笑顔だ。
「愛する妻に美しい指輪を贈るのは何個でもいいだろう?」
そう言うと彼女の左手をとり結婚指輪の上にサファイアの指輪を重ねた。
エリーの視線は美しいサファイアの指輪ではなく質素な鈍い光を放つ金色の結婚指輪に注がれていた。
指輪を嵌められた瞬間、ドクリと大きく血が波打つ。
「エリー、大丈夫?」
「ぅ…大丈夫よ…悪阻かしら」
悪阻でないことはエリーが一番よく知っている。
でも原因がわからないのでマルセルに説明も難しいし、何より心配をかけたくなかった。
こんなに絵に描いたような幸せがあって良いのかしら。
エリーは膨らんだお腹を撫でながらその手に嵌られた指輪に目を留める。
昨日マルセルから贈られた指輪は結婚指輪と並んで輝いている。
「妊婦って心臓が痛むものなのかしら…そんなの聞いたこともないけれど…」
いつもマルセルに優しくされて嬉しいと思う度に胸の奥がチクリと痛むのだ。
以前より頻繁におこる症状に不安を覚え始めた。
心臓の病だろうか、一度医者にかかろうと真剣に考えるようになっていた。
「奥様、体を冷やしてはいけません」
膝掛を広げそっとかけてくれる使用人のハンナは、よく気が付く働き者だ。
「奥様の所作や立ち居振る舞いは本当に美しくて貴族ご令嬢のようですわ」
ハンナは結婚前、貴族の邸宅に仕えていたらしく事あるごとにエリーを褒め称えた。
「そんな…私はマルセルと同じ学校に通っていた庶民よ。貴族だなんて…でも、褒めてもらえるのは嬉しいわ。ありがとう」
マルセルと同じ学校に通っていた私が貴族である筈もないのに。そういえば、自分の実家の話や故郷の話を今度聞いてみよう。
マルセルは一気に過去の話をしても混乱するだけだろうからと、少しづつ状況を見て話そうと考えているようだった。穏やかな日々の中で精神的にも落ち着いたし、少し詳しく聞いても差し支えないように思えた。
記憶のない私にはマルセルの言うことを素直に信じることしか出来ないのだから。
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