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雨~エメリの逃亡~
しおりを挟む「エメリ?」
名前を呼ばれたような気がするが勿論立ち上がれないし、視線を上げることも出来ない。
男は跪きエメリの顔をそっと覗き込んだ。
「…マルセル」
濃紺の瞳が驚きで揺れている。
「大丈夫か?!気分が悪いの?」
マルセルは小さく頷くエメリを抱き上げ人ごみを縫うように坂道を駆け上がると、ある建物の扉を蹴り飛ばして開けた。
朦朧としていた意識が徐々に戻ると、眉を寄せ心配そうに顔を覗き込むマルセルがいた。
「君が歩いているのを見かけて、声をかけようとしたら突然しゃがみ込んだから…何かあったのかと…びっくりしたよ」
「心配かけてごめんなさい…少し目眩がしただけなの。もう大丈夫よ。でも、マルセルが偶然通りかかってくれて助かったわ。本当にありがとう」
マルセルと最後に会ったのは侯爵邸で、しかも互いにこれ以上ないほど気まずい別れ方をしていた。
マルセルは伏し目がちになる。
「当たり前のことをしただけさ…感謝の言葉なんていらない。僕の方こそ…この前、侯爵邸で余計なことを…君の結婚生活についてまで出過ぎた発言をしてしまって……合わせる顔がないと思っていた…本当にごめん。こうやって君を助けられたことも謝罪が出来たことも、神様が与えてくれた偶然に感謝したいくらいだ」
「そんなこと気にしないで…友人が幸せじゃないなんて言ったら心配するのも当然だわ……私の軽はずみな言葉のせいよ…マルセルは悪くない。私だって…自分勝手な都合で…あなたのこと傷つけて…」
エメリの友人という言葉に、マルセルの瞳には影が落ち複雑な表情になった。
「そう言ってもらえて…少しだけ気持ちが軽くなったよ…ありがとう。実はエメリを見かける直前、馬車に乗るところだったんだ。隣国のカイルイ王国に行くことになってね……」
「カイルイ王国?」
確か国同士も友好関係にあり商業、文化においても古くから行き来がある国だ。特に現国王は文化芸術に造詣が深く芸術家の育成にも力を入れていると聞く。
「ああ…暫く、あちらで暮らすつもりだ」
「急なのね…寂しくなるわ…」
横になっていたソファから起き上がろうと身体を起こすとマルセルが支えてくれる。
ぐるりと部屋を見渡す。
「すぐ近くにあった楽器店の一室さ。ここの店主とは知り合いなんだ…とりあえず君を横にさせようと思って運んだ。安心していいよ、落ち着いたら念のため病院に行く?それとも侯爵邸に送って行こうか?」
そう言われて俯くと小さく呟いた。
「……帰りたくない」
マルセルは表情を曇らせた。
「…何かあったの?」
黙り込んだまま顔を上げないエメリを見て、マルセルはゆっくりと立ち上がった。
「話したくなければ無理には聞かないけれど…ちょっと待ってて…」
暫くして、湯気の立つマグカップを持ってマルセルが入ってくると部屋中に甘い香りが広がった。
「良い匂い」
マルセルは優しく微笑みエメリにマグカップを渡した。
立ち昇る甘い湯気と掌に伝わる温かさに強張ったままの表情が僅かに緩んだ。
「美味しそう」
「ホットチョコレートだよ。甘いものは疲れを癒すというからね」
とろりとした甘い液体を一口、二口と飲み進めると緊張し強張ったままだった心にもじんわりと染み渡っていくような気がした。ホゥっと息を吐くと張っていた気が緩み、途端にポロポロと涙が頬を伝う。
隣に座っていたマルセルは慌ててカップをテーブルに置くと、躊躇いながらエメリの背に手を置きゆっくりと擦った。マルセルは何も言わず子をあやすようにずっとそうしていた。
落ち着きを取り戻し、呼吸を整えたエメリはポツリポツリとさっき男爵邸で見たことを話し始めた。
いつも柔和な表情のマルセルが眉間に深い皺を寄せると瞳には強い怒りが滲み明らかな嫌悪感を示した。
「今の私には何が本当で何が嘘なのかわからない……」
じわりと涙が滲んだ。
「…帰りたくないの」
「しかし…侯爵様が心配なさるんじゃ……」
「心配なんかする?!私と一緒にいながら元妻をずっと想っていたような人が?!……今、旦那様の顔を見て冷静に話せるほど私は精神的に強くないよ…」
今聞いた話からも、ジョアキンがエメリを心配するのかマルセルにも疑問だった。
そして何よりもこんな状態のエメリを、最低最悪の男の元に帰したくはなかった。
自分の手元に置き少しでもエメリが苦痛から救われるのならば…という考えが徐々に頭の中を支配していった。
「わかった…少しの間、君が身を隠す手伝いくらいは出来る。でも、冷静になったら侯爵様と話し合わなくては…どんなに酷い男だとしてもこのままではいられないよ」
エメリは静かに頷いた。
土砂降りの雨が夜の闇を進む馬車の窓を激しく打ちつけていた。
エメリはマルセルが用意した馬車に乗り隣国カイルイ王国へと向かっていた。
馬車もこの雨ではゆっくりと進むしかなく到着には、だいぶ時間がかかりそうだ。
窓に激しく打ちつける雨粒をぼんやりと眺めていると、バキバキッと大きな音と共にガタンと馬車が大きく揺れ急に視界が反転した。
何が起こったのかわからないまま壁に身体を打ちつけそうになり、エメリは必死に体を丸めお腹を守る。
「エメリ!」
咄嗟にマルセルが手を伸ばし強く抱き締めると衝撃から庇ってくれた。
馬車が横転し扉が勢いよく開くと、二人はそのまま土砂降りの雨の中に投げ出された。
馬の嘶きが遠くに聞こえ、強い衝撃と共にエメリは意識を手放した。
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