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一話 やけ酒から始まった

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 彼女は通い慣れた夜道を急ぎ足で進んだ。行きつけの店は繁華街の外れにあり、お酒と女店主が作る手料理が美味しい気さくな雰囲気の店だった。

「いらっしゃい! あら、リンちゃんじゃないの~。久し振りじゃない?!」

「私だって来たかったのよ? 最近、仕事が忙しくてね~」

「貴族の家のメイドって言うのも大変なのねぇ。今日はゆっくりしていってよ!」

「ふふ、今日はたくさん飲むぞ~! 取り敢えず麦酒で!」

「そうこなくっちゃ!」

 ドンッとい勢いよく置かれたジョッキをグイッと一気に空ける。

「相変わらず良い飲みっぷりね~」 

 久し振りの外出で解放感に包まれたリンは、暗い気持ちを振り払うようにグイグイ飲み進めあっという間に五杯のジョッキを空にしていた。


 顔見知りの客に声をかけられワイワイ飲んでいたのも束の間、いつの間にかカウンターに突っ伏したまま動かなくなった彼女に女店主が、またかと言うように声をかける。

「あらあら~飲み過ぎよ。ほら、お水」

「うう……大丈夫よ。まだまだいけるんだからっ!」

 店主が置いてくれた水の入ったコップを腕で払い除けた。コップは勢いよく倒れ、二つ隣りに座っていた男の服に水がかかる。

「ちょっと! リンちゃんたら何してるのよっ。お客さん、ごめんなさいね」

 慌てて店主が布巾を持ち男の傍に駆け寄る。

 女はムクリと勢いよく起き上がると、今度はバランスを崩し椅子ごと後ろに倒れそうになる。

 咄嗟に伸びた男の腕が支えた。

「あ…あぶねー」

「あ、はははっ! 大丈夫、大丈夫……もう、皆……心配性なんだからぁ」

 ぐるりと反転した視界が元に戻り朦朧とした意識の中、男の腕を掴む。そこにはクルクルと強い癖毛の茶色の髪に丸眼鏡をかけた真面目そうな青年がいた。

 丸眼鏡の奥の濃い茶色の瞳は呆れと苛立ちを孕んで、こちらを見下ろしている。

「わぁ! ララちゃんみたい~」

「誰だよ、それ」

 男の頭を抱き込み頬擦りする。

「ララちゃんはララちゃんだよ~。くるくるふわふわの毛に頬擦りするのが気持ち良くてさ~」

 茶色のくるくるとカールした毛並の愛犬ララちゃん、子供の頃大きなララちゃんの毛に埋もれモフモフを楽しんだ記憶が蘇る。

「ちょっ! なんなんだよ、あんた!」

「私は~イエ……えっと……リン、リンよ」

「いや、名前じゃなくてさ。ああもう、放せこの酔っ払い女!」

 腕を振り解こうとする男と、もしゃもしゃ頭を抱き込み放そうとしない酔っ払い女が揉みあいになった。
 
 次の瞬間、急に動いたせいで胃の中のものがこみ上げてくるのを感じた女は慌てて口元を押さえた…が間に合わず、無惨にも今日飲み食いした胃の中の全てを男の頭に吐き出した。

「嘘、だろ……」

 消え入りそうな呟きの後に断末魔の様な叫びが聞こえた。

「うっぷ……ご、ごめ……」

 謝罪をすることも出来ず、彼女は口を押えたまま意識を手放した。







 目が覚めると店内の長椅子に横になっていた。

 そっか、私……あの後寝ちゃったんだ。

 意外にも意識はハッキリとしていた。起き上がろうとするとズキリと頭が痛む。酷い二日酔いだ。頭の中でブリキのバケツをガンガン叩かれているような状態だ。

 どんなに飲んでも、記憶を失ったことがないリンは自分が何をした思い出し、更に頭を抱えた。

 流石に飲み過ぎた。

 彼女の名はイエリン。街に出て庶民の振りをしている時の、もう一つの名はリン。これでも、れっきとしたコトール侯爵家の令嬢だ。しかも一時は王太子妃候補にまで名前があげられたほどの令嬢だ。
 
 幼い頃より王太子妃になるべく家門の期待を受け厳しく育てられたものの、結局イエリンが王太子妃に選ばれることはなかった。
 イエリンが十九歳の時、王太子はコトール侯爵家の遠縁にあたるヴェルレ公爵家の令嬢と婚約し一年後には国中をあげての盛大な結婚式が行われた。そして結婚式の一ヶ月後に崩御された先王に代わり王太子が王に即位してから五年が経った。

 王太子妃候補だった令嬢達は王太子の婚約が決まると、我先にと慌ただしく結婚を決めていった。王太子妃候補となれば選ばれなかったとしても箔が付く、既に婚約者がいる令嬢達に比べれば出遅れた感はあるが、嫁ぎ先に困ることはない……筈だった。

 六年経った今、王太子妃候補になっていた令嬢達の中で未だに独身なのはイエリン一人だけになった。そう、イエリンは二十五歳になり立派な行き遅れになっていた。しかも昨日、やっとデートにまで漕ぎつけた王都から遠く離れた地方の子爵家の次男にさえ振られた。これで通算四十九回目だ。

 侯爵家令嬢の相手が田舎子爵家の次男では正直、家格で言えば釣り合わないが藁にもすがる思いだった。デートも恙無く終え、本格的に結婚に向けて話が進むかと期待していた。だからこそ落胆は大きかった。なんなら王太子妃に選ばれなかった時より更に落ち込んだと言っても嘘ではない。

 昨晩は完全なやけ酒だった。

 酒場に頻繁に通うようになったのは二年くらい前だっただろうか。
 断わられ続ける見合い、振られ続ける鬱憤を晴らしに、お忍びで酒場に足を踏み入れたのだ。そして嗜む程度の酒しか知らなかったイエリンは酒場の高揚した雰囲気と酒に救いを求めるようなった。

「リンちゃん、起きたの?」

 女店主がネグリジェ姿で二階の住居から降りてきた。

「ご迷惑おかけしてごめんなさい。すっかり飲み過ぎてしまって」

「いいのよ~。結構いるのよ、飲んで一晩泊まるお客さん」

 笑いながら見送ってくれた店主に謝罪と礼を言うと急ぎ足で店を出た。
 もうすぐ夜が明ける。白み始めた空を見て、酷い二日酔いに顔を顰めながらも慌てて走り出した。







 侯爵邸の家の者が寝静まるのを待ちイエリンはいつものように変装を始める。肩までの黒髪の鬘を被り、侯爵家お抱えの魔法使いに作らせた瞳の色を変える薄いガラスを目に嵌め込むと庶民のリンとして街に出た。

 イエリンの元の髪色は桜の花を思わせる様な淡いピンクで、瞳は新緑のような鮮やかなグリーンだった。その容貌は珍しく、とても目立つ。この珍しい髪色はイエリンの家系にしか現れないそうだ。

 なのに、この人目を惹く珍しくも美しい髪色を持つ女性が同時期に二人産まれた。イエリンと、もう一人は遠縁にあたるヴェルレ公爵の令嬢だ。

 そう、王太子妃に選ばれたのは同じ色の髪と瞳を持つイエリンではない方の令嬢。アウロラ・ヴェルレだった。

 顔立ちは違っても、これだけ珍しい容姿が重なれば人々の注目も集まるというもの。あまり社交の場に顔を出さないアウロラに嫉妬することはなかったものの、王太子妃に選ばれたのが桜色の髪に緑の瞳の別人であることに強い焦燥感を覚えた。

 出来れば令嬢イエリンでいる時も、この黒髪の鬘を被れたらいいのにと何度思ったかわからない。

 通い慣れた店の扉をそっと開け中を窺い、あの男の姿がないのに一安心し店に入る。いつものように注文を取りに来た店主にこの前の謝罪の言葉を伝えた後、自分が酔って絡んだ男について聞いてみた。

「ああ、あの彼? 今日はまだ来てないわね…あ、来た来た! ちょっとお兄さん! こっちこっち」

 慌てて振り向くと茶色のくるくる髪に丸眼鏡をかけた細身の男が私を見てギョッとしているのがわかった。
 
 そりゃあ、そうなるわよね。

 女店主に大声で呼ばれた男は顔を引きつらせながら仕方なくリンの横に座った。

「あ、あの……この前は本当にごめんなさい。絡んだ上にあんな酷い状態になって……ゲロ……い、いや本当にごめんなさい。お詫びに今日は私にご馳走させてください」

 深々と頭を下げたリンに男は長い溜息を吐いた。

「正直、なんて女だって思ったけど……もういいよ。済んだことだし今更どうこう言っても仕方ないだろ。それに、ご馳走してくれるって言うなら……」

 困ったような顔をしながらも唇の端が上がっていたのを見てリンは胸を撫で下ろした。

「じゃんじゃん飲んでください!」

「オッケー。じょあ、遠慮はしないぜ」

 更に、笑みを深めた男にリンは嬉しくなり大きく頷いた。

 飲み始めてから一体どれくらいの時間が経っただろう、男は全く酔った様子がない。どれだけ飲むつもりなのか。これは正真正銘のザルってやつだ。顔色一つ変えず飲み続ける男に呆気に取られる。

「強いのね、あなた……そういえば名前も聞いていなかったわ。名前を聞いても?」

「アーロン」

 一言そう言うとアーロンは店員を呼び止め追加の注文を頼む。
 彼は商会で通訳兼異国の商品の買い付けを行う仕事をしているらしく、四か国語が堪能だと言う。

「あなた、優秀なのね~」

「アーロン。さっき教えたろ」

「ああ、そうだったわね。アーロン」

 名前を呼ばれるとアーロンは嬉しそうに目を細めジョッキに残った麦酒を一気に飲み干した。

「っていうかそれ何杯目? 酔わない体質なの?」

「何杯目だろ……九杯、いや十杯目か。それに、こう見えても結構酔ってる」

 結局、アーロンは麦酒とワインを合わせて十五杯と女店主の手料理を楽しんだ。

 それからというもの、リンとアーロンは飲み友達となり毎週決まった曜日の決まった時間に店で一緒に飲む仲になっていた。



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