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第二幕 斬心 -Heart of Slashing-
18.志摩のおたつ
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桃姫と雉猿狗が天照神宮に参拝してから一月が経ち、二人は伊勢から志摩へと到着していた。
天照大御神による祝福以後、大雨と大風が嘘だったかのように初夏らしいカラッと晴れた空模様が続いた。
死にかけていた雉猿狗も神力が補充されて、すっかり元気になっていた。
「……桃姫様? なにか?」
雉猿狗の瞳を見つめ続けた桃姫に雉猿狗がきょとんとした顔で言った。
「その目、まだ見慣れないなと思って」
桃姫は茶屋の店前に置かれた縁台に腰掛けながらかき氷を木製の匙で食べながら言う。
「ああ、この赤い波紋ですか。そうですね」
同じくかき氷を食べていた雉猿狗は、そう言いながら赤い波紋が浮かぶ濃翠色の瞳をぱちりと瞬かせた。
「天照様がくださった神術"御雷光"ってなんなんだろうね……?」
「はい……どうやったら使うことが出来るのか、私には見当もつきません」
桃姫と雉猿狗はそう言いながらかき氷を食べ終えると、縁台に広げた簡単な日ノ本の地図を二人で見た。
「雉猿狗、本当に安房まで船で行くの?」
「はい。この戦乱の世、陸路より航路のほうが安全だと思うのです。それに鬼もさすがに海にまでは現れないはずです」
桃姫が二人の現在地の志摩を見て、そこから伊豆、安房へと東へ伸びる航路の黒線を見た。
これが陸路となると、志摩から伊勢に戻って、尾張、三河、遠江、駿河……と長い道のりであった。
「うーん、確かに……陸路だと、奥州に行くまでに何年もかかりそう……」
桃姫が辟易しながら言うと、雉猿狗は地図を畳んで帯の中に仕舞った。
「はい。一日でも早くぬらりひょんの館に辿り着くためには、船での移動は欠かせません。行きましょう、桃姫様」
「うん」
雉猿狗の言葉に頷いて返した桃姫。雉猿狗が店主に銭を払って二人は茶屋を後にした。
そして二人は志摩の海岸にやってくると、沖合に五隻の小舟が浮かんでいるのが見えた。
しかし、その小舟には誰も乗っていない。
「雉猿狗……船があるのに、誰も乗ってないよ?」
桃姫がその様子を見ながら言うと、雉猿狗が微笑みながら口を開いた。
「海女さんですね。ほら、小舟の近くに桶が浮いていますよね。あの中に海の底で取ったアワビやウニなどが入れられるのですよ」
「へぇ……海の底まで潜るの?」
「はい。ほら、海女さんが出てきましたよ」
「ほんとだ……!」
雉猿狗の声を聞いた桃姫が注意深く桶の近くを見ると、貝を手にした女性が海面に姿を現し、その貝を桶に入れてまた素潜りで海中へと泳いでいった。
「すごいなぁ……」
桃姫が感嘆の声を上げると、雉猿狗が辺りを見回しながら口を開いた。
「ですが、この辺りは海女漁の小舟ばかりで、私たちを運んでくださるような船が見当たりませんね……」
「そうだね……」
雉猿狗が言うと、後ろから快活な女性の声がかけられた。
「──あんたら、船を探してんのかい?」
桃姫と雉猿狗が振り返ると、小麦色に焼けた肌に白い手ぬぐいを頭に巻いた齢の頃三十代半ばくらいの女性が白い歯で微笑みながら二人を見ていた。
「見りゃあわかる。あんたら、旅人だろ。あたしの船で良けりゃ乗せていってやるよ」
「本当ですか……!?」
女性の申し出に雉猿狗が驚きの声を上げた。
「ああ。あたしの名前はおたつ。ここいらで女だてらに漁師をやってるもんだ」
「私は雉猿狗と申します」
「桃姫です」
おたつと名乗った女性に対して雉猿狗と桃姫が律儀に頭を下げて自己紹介をした。
「ははっ、なんだいあんたら、一体どこの高貴な出だよ。まぁ、いいや。ついてきな」
おたつはぶっきらぼうに言うと、桃姫と雉猿狗は互いに顔を見合わせたあとにその後をついていった。
「三百年くらい前かな、ここいらの海に共潜(ともかづ)きが現れてね」
三人が海岸沿いを歩いているとおたつがおもむろに話しだした。
「曇天の日に海女が小舟を出して一人で海に潜っているとね、いつの間にか一緒に潜っている黒い着物の海女がいるんだよ」
おたつの話を聞きながら桃姫と雉猿狗が志摩の海に浮かぶ小舟と海女たちの姿を見た。
「あ、誰か来たんだなと思って上がってみると、船は自分の一隻しかない。でも、確かにもう一人作業してる黒い海女が海中にいるんだ……その黒い海女はやけに友好的で、アワビやサザエなんかを水中でくれようとするんだよ」
おたつはそこまで言うと、立ち止まり、そして振り返った。
「でも、そいつは絶対に貰っちゃいけない。受け取ろうと手を伸ばすと、腕を掴まれて海底に沈められて殺されそうになるのさ」
「……っ」
おたつの言葉に桃姫がゾッとして隣に立つ雉猿狗に身を寄せた。
「必死でもがいて振りほどいた海女が海から出たあとに掴まれた腕を見ると……小さなフジツボがびっしりと生えていたそうだ」
おたつは桃姫をおどかすようにそう言ってから、海を見た。
「共潜(ともかづ)きの正体は、溺れ死んだ海女の悪霊なんじゃないかって言われているけど……真相は定かじゃない」
「海というのは元来、この世とあの世を繋ぐ境界とも云われています。現世に未練を残した多くの魂が彷徨っていてもおかしくありませんね……三百年前ということですが、今現在でも現れるのですか?」
おたつの言葉を聞いた雉猿狗が思案しながら言ったあとに、おたつにたずねた。
「いや、ある日を境にその悪霊は出なくなったんだよ。なんでも、通りすがりの旅の修験僧が共潜(ともかづ)きに会わなくなる"まじない"を海女たちに教えてくれたんだとか……ほら、あたいの手ぬぐいにも刺繍されてるだろ?」
そういっておたつは頭に巻いた白いてぬぐいをほどくと、二人に対して広げて見せた。それには独特な藍色の刺繍が施されていた。
「これは……魔除けに用いる五芒星と格子の模様ですね……たしか、五芒星は五行による守護を、格子は悪霊を睨む大量の目を意味しているはずです」
「へぇ、物知りだねぇ、お姉さん。海女たちは感謝の礼に、取った海産物を修験僧にあげようとしたんだけど、"千年善行"の途中だから結構、とかなんとか言って足早に去っていってしまったんだとさ」
「"千年善行"ですか……」
雉猿狗はその言葉にどこかひっかかりを覚えて口にした。
「しかしあんた、不思議な人だね。あたしはあんたもこの世の者とは思えないよ……ずばり、美人すぎるね。はははっ」
おたつは眉根を寄せていぶかしみながら雉猿狗の顔を凝視したあとに、そう言って笑うと頭に手ぬぐいを巻き直して再び歩き出した。
桃姫と雉猿狗がおたつに先導されながら20分ほど海岸沿いを歩くと、小屋と納屋が一軒ずつ、それに古びた漁船が一隻繋がれた小さな入り江にたどり着いた。
「ここがあたしんちだよ。この入り江でひっそりと気楽にやってんのさ」
「……おたつさん一人で漁業をやられているのですか?」
「そうだよ、悪いかい?」
「あ……いえ……」
雉猿狗の言葉におたつは強気に返すと雉猿狗は戸惑うように言った。
「んで、あんたらどこに行きたいんだい?」
漁船の前で腕を組んだおたつが言うと、雉猿狗は帯の中から地図を取り出して広げる。
「……ん?」
「黒潮に乗って、伊豆、そして安房まで……」
雉猿狗が地図を人差し指で指し示しながら志摩、伊豆、安房とスーッと左から右へ移動させる。
「あ……? はぁ!? 安房までだってっ!?」
地図を覗き込んでいたおたつが雉猿狗の言葉を聞き、指し示した安房を見ると、地図から顔を上げて雉猿狗に叫んだ。
「ふざけんじゃないよあんた! なんだって、安房までなんて! あたしはてっきり三河や遠江までだと!」
「……では、伊豆まで」
おたつに対して雉猿狗は引き下がらずに言うと、おたつは馬鹿らしいという顔をして首を横にぶんぶんと振った。
「あんたねぇ、伊豆ですらどんだけ遠いかわかってないみたいだね……! 黒潮に乗るって簡単に言ったって、そんな生易しいもんじゃないんだ! 伊勢や志摩の漁師が今まで何百人、何千人も流されて二度と帰ってこれないんだよ……!」
「では、黒潮に流された漁師はどこに行ったのですか……!」
捲し立てるおたつに対して雉猿狗は臆せずに聞き返した。
「そ、そりゃあ……風の噂によれば……安房に定住して暮らしてるって話だ」
「黒潮に乗れば、安房にたどり着ける。それは、事実なのですね」
「……じゃあ、なんだい、あんた。あたしに志摩を離れて安房で暮らせってのかい。あんたらを運ぶために……! いいかい! 黒潮に乗ったら、もう、ここには戻ってこれないんだよ!」
おたつはそう言うと、漁船を見た。それは、せいぜい5人乗れるほどの小さな古びた漁船であった。
「伊豆まで、安房が無理でも、伊豆までお願いします。それから先はまた新たな船を見つけますから」
「……何度も言わせないでおくれ、伊豆だって──」
雉猿狗は懐に手を差し入れると、四枚の小判をスッと取り出して、おたつの前に提示した。
「うっ……! おいおい、あんた。こんな大金……旅人が迂闊に持ち歩くもんじゃあないよ……!」
おたつは突然目に飛び込んだ黄金に動揺しながら声を上げた。
「どうでしょうか……こちらで、伊豆まで運んでは頂けませんか?」
「んん……そうだねえ……しかし……これじゃあ、片道分、といったところかねえ……何度も言うようだけど、あたしはあんたら運んだあとに帰ってこなきゃあ、ならないんだよ……?」
そう言ったおたつは日焼けした指で恐る恐る小判をつまみ上げると、本物であることを一枚一枚入念に確認した。
「わかりました」
雉猿狗は覚悟を決めたように言うと、懐から紫色の細紐に巻かれた小判十枚を取り出した。
「合わせて十四両。こちらなら、よろしいですね?」
「ッ!? 乗った……! その話、乗ったよ……!」
おたつは茶色がかった両目を見開いて声を上げると、両手を広げて雉猿狗の前に差し出した。
その上にドサッと十四枚の小判が落とされる。ずしっとくる重さの十四枚の小判を両手に受け取ったおたつはまだ何が起きたか信じられていない様子であった。
「……船に乗るのは私たちですよ、おたつ様」
雉猿狗は緋色の波紋が浮かぶ翠色の瞳を細めて微笑んで言った。
「……参ったね……三年分の稼ぎだよ、これは」
おたつは小判十四枚分の重みを手の平に感じながら呟いた。
「そうだね……明日の夜明け前に出発すれば、翌朝には伊豆に着くだろう。幸い、明日の天気は晴れだ」
おたつは小判を懐にそそくさと仕舞うと、桃姫と雉猿狗に告げた。
「今晩はあたいのうちに泊まりな。布団はないけど、魚の干物くらいは食わしてやるさ」
そう言っておたつは小麦色の肌に映える白い歯を見せて笑みを浮かべた。
天照大御神による祝福以後、大雨と大風が嘘だったかのように初夏らしいカラッと晴れた空模様が続いた。
死にかけていた雉猿狗も神力が補充されて、すっかり元気になっていた。
「……桃姫様? なにか?」
雉猿狗の瞳を見つめ続けた桃姫に雉猿狗がきょとんとした顔で言った。
「その目、まだ見慣れないなと思って」
桃姫は茶屋の店前に置かれた縁台に腰掛けながらかき氷を木製の匙で食べながら言う。
「ああ、この赤い波紋ですか。そうですね」
同じくかき氷を食べていた雉猿狗は、そう言いながら赤い波紋が浮かぶ濃翠色の瞳をぱちりと瞬かせた。
「天照様がくださった神術"御雷光"ってなんなんだろうね……?」
「はい……どうやったら使うことが出来るのか、私には見当もつきません」
桃姫と雉猿狗はそう言いながらかき氷を食べ終えると、縁台に広げた簡単な日ノ本の地図を二人で見た。
「雉猿狗、本当に安房まで船で行くの?」
「はい。この戦乱の世、陸路より航路のほうが安全だと思うのです。それに鬼もさすがに海にまでは現れないはずです」
桃姫が二人の現在地の志摩を見て、そこから伊豆、安房へと東へ伸びる航路の黒線を見た。
これが陸路となると、志摩から伊勢に戻って、尾張、三河、遠江、駿河……と長い道のりであった。
「うーん、確かに……陸路だと、奥州に行くまでに何年もかかりそう……」
桃姫が辟易しながら言うと、雉猿狗は地図を畳んで帯の中に仕舞った。
「はい。一日でも早くぬらりひょんの館に辿り着くためには、船での移動は欠かせません。行きましょう、桃姫様」
「うん」
雉猿狗の言葉に頷いて返した桃姫。雉猿狗が店主に銭を払って二人は茶屋を後にした。
そして二人は志摩の海岸にやってくると、沖合に五隻の小舟が浮かんでいるのが見えた。
しかし、その小舟には誰も乗っていない。
「雉猿狗……船があるのに、誰も乗ってないよ?」
桃姫がその様子を見ながら言うと、雉猿狗が微笑みながら口を開いた。
「海女さんですね。ほら、小舟の近くに桶が浮いていますよね。あの中に海の底で取ったアワビやウニなどが入れられるのですよ」
「へぇ……海の底まで潜るの?」
「はい。ほら、海女さんが出てきましたよ」
「ほんとだ……!」
雉猿狗の声を聞いた桃姫が注意深く桶の近くを見ると、貝を手にした女性が海面に姿を現し、その貝を桶に入れてまた素潜りで海中へと泳いでいった。
「すごいなぁ……」
桃姫が感嘆の声を上げると、雉猿狗が辺りを見回しながら口を開いた。
「ですが、この辺りは海女漁の小舟ばかりで、私たちを運んでくださるような船が見当たりませんね……」
「そうだね……」
雉猿狗が言うと、後ろから快活な女性の声がかけられた。
「──あんたら、船を探してんのかい?」
桃姫と雉猿狗が振り返ると、小麦色に焼けた肌に白い手ぬぐいを頭に巻いた齢の頃三十代半ばくらいの女性が白い歯で微笑みながら二人を見ていた。
「見りゃあわかる。あんたら、旅人だろ。あたしの船で良けりゃ乗せていってやるよ」
「本当ですか……!?」
女性の申し出に雉猿狗が驚きの声を上げた。
「ああ。あたしの名前はおたつ。ここいらで女だてらに漁師をやってるもんだ」
「私は雉猿狗と申します」
「桃姫です」
おたつと名乗った女性に対して雉猿狗と桃姫が律儀に頭を下げて自己紹介をした。
「ははっ、なんだいあんたら、一体どこの高貴な出だよ。まぁ、いいや。ついてきな」
おたつはぶっきらぼうに言うと、桃姫と雉猿狗は互いに顔を見合わせたあとにその後をついていった。
「三百年くらい前かな、ここいらの海に共潜(ともかづ)きが現れてね」
三人が海岸沿いを歩いているとおたつがおもむろに話しだした。
「曇天の日に海女が小舟を出して一人で海に潜っているとね、いつの間にか一緒に潜っている黒い着物の海女がいるんだよ」
おたつの話を聞きながら桃姫と雉猿狗が志摩の海に浮かぶ小舟と海女たちの姿を見た。
「あ、誰か来たんだなと思って上がってみると、船は自分の一隻しかない。でも、確かにもう一人作業してる黒い海女が海中にいるんだ……その黒い海女はやけに友好的で、アワビやサザエなんかを水中でくれようとするんだよ」
おたつはそこまで言うと、立ち止まり、そして振り返った。
「でも、そいつは絶対に貰っちゃいけない。受け取ろうと手を伸ばすと、腕を掴まれて海底に沈められて殺されそうになるのさ」
「……っ」
おたつの言葉に桃姫がゾッとして隣に立つ雉猿狗に身を寄せた。
「必死でもがいて振りほどいた海女が海から出たあとに掴まれた腕を見ると……小さなフジツボがびっしりと生えていたそうだ」
おたつは桃姫をおどかすようにそう言ってから、海を見た。
「共潜(ともかづ)きの正体は、溺れ死んだ海女の悪霊なんじゃないかって言われているけど……真相は定かじゃない」
「海というのは元来、この世とあの世を繋ぐ境界とも云われています。現世に未練を残した多くの魂が彷徨っていてもおかしくありませんね……三百年前ということですが、今現在でも現れるのですか?」
おたつの言葉を聞いた雉猿狗が思案しながら言ったあとに、おたつにたずねた。
「いや、ある日を境にその悪霊は出なくなったんだよ。なんでも、通りすがりの旅の修験僧が共潜(ともかづ)きに会わなくなる"まじない"を海女たちに教えてくれたんだとか……ほら、あたいの手ぬぐいにも刺繍されてるだろ?」
そういっておたつは頭に巻いた白いてぬぐいをほどくと、二人に対して広げて見せた。それには独特な藍色の刺繍が施されていた。
「これは……魔除けに用いる五芒星と格子の模様ですね……たしか、五芒星は五行による守護を、格子は悪霊を睨む大量の目を意味しているはずです」
「へぇ、物知りだねぇ、お姉さん。海女たちは感謝の礼に、取った海産物を修験僧にあげようとしたんだけど、"千年善行"の途中だから結構、とかなんとか言って足早に去っていってしまったんだとさ」
「"千年善行"ですか……」
雉猿狗はその言葉にどこかひっかかりを覚えて口にした。
「しかしあんた、不思議な人だね。あたしはあんたもこの世の者とは思えないよ……ずばり、美人すぎるね。はははっ」
おたつは眉根を寄せていぶかしみながら雉猿狗の顔を凝視したあとに、そう言って笑うと頭に手ぬぐいを巻き直して再び歩き出した。
桃姫と雉猿狗がおたつに先導されながら20分ほど海岸沿いを歩くと、小屋と納屋が一軒ずつ、それに古びた漁船が一隻繋がれた小さな入り江にたどり着いた。
「ここがあたしんちだよ。この入り江でひっそりと気楽にやってんのさ」
「……おたつさん一人で漁業をやられているのですか?」
「そうだよ、悪いかい?」
「あ……いえ……」
雉猿狗の言葉におたつは強気に返すと雉猿狗は戸惑うように言った。
「んで、あんたらどこに行きたいんだい?」
漁船の前で腕を組んだおたつが言うと、雉猿狗は帯の中から地図を取り出して広げる。
「……ん?」
「黒潮に乗って、伊豆、そして安房まで……」
雉猿狗が地図を人差し指で指し示しながら志摩、伊豆、安房とスーッと左から右へ移動させる。
「あ……? はぁ!? 安房までだってっ!?」
地図を覗き込んでいたおたつが雉猿狗の言葉を聞き、指し示した安房を見ると、地図から顔を上げて雉猿狗に叫んだ。
「ふざけんじゃないよあんた! なんだって、安房までなんて! あたしはてっきり三河や遠江までだと!」
「……では、伊豆まで」
おたつに対して雉猿狗は引き下がらずに言うと、おたつは馬鹿らしいという顔をして首を横にぶんぶんと振った。
「あんたねぇ、伊豆ですらどんだけ遠いかわかってないみたいだね……! 黒潮に乗るって簡単に言ったって、そんな生易しいもんじゃないんだ! 伊勢や志摩の漁師が今まで何百人、何千人も流されて二度と帰ってこれないんだよ……!」
「では、黒潮に流された漁師はどこに行ったのですか……!」
捲し立てるおたつに対して雉猿狗は臆せずに聞き返した。
「そ、そりゃあ……風の噂によれば……安房に定住して暮らしてるって話だ」
「黒潮に乗れば、安房にたどり着ける。それは、事実なのですね」
「……じゃあ、なんだい、あんた。あたしに志摩を離れて安房で暮らせってのかい。あんたらを運ぶために……! いいかい! 黒潮に乗ったら、もう、ここには戻ってこれないんだよ!」
おたつはそう言うと、漁船を見た。それは、せいぜい5人乗れるほどの小さな古びた漁船であった。
「伊豆まで、安房が無理でも、伊豆までお願いします。それから先はまた新たな船を見つけますから」
「……何度も言わせないでおくれ、伊豆だって──」
雉猿狗は懐に手を差し入れると、四枚の小判をスッと取り出して、おたつの前に提示した。
「うっ……! おいおい、あんた。こんな大金……旅人が迂闊に持ち歩くもんじゃあないよ……!」
おたつは突然目に飛び込んだ黄金に動揺しながら声を上げた。
「どうでしょうか……こちらで、伊豆まで運んでは頂けませんか?」
「んん……そうだねえ……しかし……これじゃあ、片道分、といったところかねえ……何度も言うようだけど、あたしはあんたら運んだあとに帰ってこなきゃあ、ならないんだよ……?」
そう言ったおたつは日焼けした指で恐る恐る小判をつまみ上げると、本物であることを一枚一枚入念に確認した。
「わかりました」
雉猿狗は覚悟を決めたように言うと、懐から紫色の細紐に巻かれた小判十枚を取り出した。
「合わせて十四両。こちらなら、よろしいですね?」
「ッ!? 乗った……! その話、乗ったよ……!」
おたつは茶色がかった両目を見開いて声を上げると、両手を広げて雉猿狗の前に差し出した。
その上にドサッと十四枚の小判が落とされる。ずしっとくる重さの十四枚の小判を両手に受け取ったおたつはまだ何が起きたか信じられていない様子であった。
「……船に乗るのは私たちですよ、おたつ様」
雉猿狗は緋色の波紋が浮かぶ翠色の瞳を細めて微笑んで言った。
「……参ったね……三年分の稼ぎだよ、これは」
おたつは小判十四枚分の重みを手の平に感じながら呟いた。
「そうだね……明日の夜明け前に出発すれば、翌朝には伊豆に着くだろう。幸い、明日の天気は晴れだ」
おたつは小判を懐にそそくさと仕舞うと、桃姫と雉猿狗に告げた。
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